もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

新年を前にパソコンを破壊してしまった

 今回の件を、私は「スーパークソバカゲロゴミデラックス事件」と呼んでいる。「新年早々パソコン壊滅す」に続く、パソコン壊滅シリーズの第2弾である。2012年発売より8年来使ってきたこのパソコンを壊してしまったのだ。

 その話もなんということはない。置換したばかりのテレビ用SSDが容量オーバーで破損し、可能ならばデータ救出、最悪ならフォーマットを試みようとしたがそもそもWindowsでは読み込めないのでUbuntuをディスク起動して読み込もうと思ったが何を考えたかパソコンにインストールしてしまい、パーテーションの設定をごちゃごちゃいじくりまわしてWindowsを破損させ(!)、なんだかんだでUbuntuWindowsも起動不能にしたという、どうしようもないクソバカ事件である。パソコン致死傷で禁錮5年である。

 時間を戻せるなら、まず12月3日に戻って私をボッコボコにタコ殴りにしてから、さらに12月2日に戻って「Ubuntuでも開けないから別の方法を探せ」とアドバイスしたい。過去に戻れるなら絶対にそうする。あるいは最初から大容量のHDD/SSDを用意することである。二兎を追う者は一兎をも得ずどころか、一兎を追いかけて全財産を剥がされたようなバカ具合である。

 かつてお茶をこぼしてからASDFをはじめとする中央列が壊滅したのを外付けのキーボードでしのぎ、性能にそろそろ不満が出てきたのをSSDへの換装で解消し、コツコツ使ってきたのに、その最期はこのようなものであった。慚愧慚愧慚愧。自戒切腹介錯無用。とにかくこの事件を肝に銘じた。熱いコテで焼き入れたつもりである。

 それで、パソコン等の回収を Renet という自治体と連携している業者に頼み、日時を指定して佐川急便に引き取ってもらった(これも参考になるかは分からないが、うまくいけば書こうと思う)。

 こういう経緯ではあるのだが、いま8年ぶりのパソコンを選んでいるところである。いい加減、パソコンや電子機器に手を加えるときは、どんぶり勘定ではいけないということを、私は学ぶべきである。いや、そもそも本質的に「叩けば治る」的発想を持っている人間なので、手を加えるべきではないのだ。

 今回の出来事がなければ、SSDに換装した Aspire 5750 はまだまだ動いたことだろう。お茶をこぼさなければ、キーボードも難なく動いたことだろう。悔やんでも悔やみきれないことである……。

 すまない、我がパソコン。合掌。

今日の夢

 引きこもりの父。私は実家に暮らしている。休日なのに父はいつも一日中家にいて、それを私は疎ましく思っている。今日も「外に出ろよ……邪魔だなあ……」と独り言をぼやきながら、家では休日も休まらないから外に出る。

 知らない街にいる。江戸時代の城下町風の街並み。少女がいて、彼女の案内についてゆく。

 「ひとけがないですねぇ。こんなんじゃ、さらわれそうだ」と男性の声でナレーション。木の葉のトンネルをくぐると、なだらかに下った広い砂利道で、眺めが良い。

 「秘湯探しのプロ、ますますひとけのないところにやってきました。わたしたちどうなるんでしょうか」と、またナレーション。どうやら彼女は秘湯のスペシャリストであるらしい。

 西洋式の整った庭園。ヴェルサイユ宮殿の庭園を思わせる。円形の池の真ん中に噴水があり、奥の方にまた噴水がある。実はこれが温泉で、数人の人が入っている。

 それを見て、「やたらにきれいだなあ、市町村がお金をかけたって感じだ」と思ったところで目が覚めた。

私のピザ歴史

今週のお題「ピザ」

 

 これまた気になるお題が来た。以前に「ピザの歴史」という本について書いたことがある。かの「マルゲリータ」を作ったのはもちろんマルゲリータ王妃本人ではなくピッツァイオーロ(ピザ職人)のラファエレ・エスポジト (Raffaele Esposito - Wikipedia英語版) であり、エスポジトもまた考案者ではなく、すでに同様のピッツァはあったそうだから、本当の考案者は分からないままである。19世紀後半というそう遠くない過去のことでさえこうなのだから、文化というものはやはり語られないところから産まれて育つものなのだなあと、しみじみさせられる。

 ともあれ、「ピザの日」と聞いた私は、ラファエレ・エスポジトという、マルゲリータ王妃の推薦をしっかり商売にも利用した商魂逞しいピザ職人がいたことも思い出すのである。

 それにしても、私とピッツァという食べものの接点を考えると、その最初はやはりアメリカ的な「ピザ」だったと思う。つまり、子供のころに家庭でとった宅配ピザだ。小学校中学年のころに、ハワイアンなんとかというパイナップルの入ったピザや、きざみ海苔の散りばめられた照り焼きピザを食べた記憶がある。

 高校生になると、インターネットが進歩して、ネットから宅配注文ができるようになった。これは便利だとドハマリした私は、小遣いを使って、寿司やらピザやら、宅配ものを何度もとった。子供の財布にとって宅配というのは大出費だったから、今思えば随分浪費したものだ。

 当時はピザダーノのSサイズのピザなどをとった記憶がある。棒状のマッシュポテトもつけた。高校生といえば大人になりつつある年齢と言えるかもしれないが、それでも未経験のことのほうが多い年頃だったし、私は何事も遅れがちな青年だったから、あのピザの入った白い段ボールを受け取る瞬間は、なんともワクワクしたものだ。

 それ以来、大学生になると宅配ピザはまったくとらなくなった。大学生になると家に居ない時間のほうが多いから、宅配ピザをとる理由がなくなったのだ。自宅にいないから宅配してもらう必要はなく、それなら安いほうがいい、と思うのは当然のことだった。それで家庭用のピザやサイゼリヤなどの外食でピザを食べることが増えた。

 休日の前の日にはスーパーで日本ハムの販売する「石窯工房」というシリーズのピザをよく買った。マルゲリータやら、クワトロフォルマッジという言葉を知ったのは、この頃だったろうか。すでに味付けがすんでいるにもかかわらず、その上からオリーブオイルをかけて焼く。洗い物を出したくないから、ピザの入っていたボール紙の上に載せて、切らずに丸ごとかぶりついた。サイゼリヤも安いから、よく行った。

 と、結局20歳近くまでずっとアメリカ的なピザとの接点しかなかったということになる。ピザと言えばピザーラやピザダーノのあのピザだった。薄焼きのクラフト生地というのもあったが、それも今思えばイタリア・ナポリ的な「ピッツァ」とはまるで別物だった。

 私がピッツァを初めて食べたのは大学卒業間近か卒業直後、ナポリスというチェーン店のピザだったのは間違いがない。ひとけが少なく怪しい店だというのが第一印象だったが、飛び込んでよかった。生地は薄く柔らかで弾力があり、しかし皮はパリっと焼きあがってモチモチしている。ところどころ焦げていて、その香りが食欲をそそる。これは「ピザ」とはまったく別の食べものだ、こんなに旨いのか、と感動した。値段も千円を切っていて、旨さと価格で言えばコスパはブッチギリだった。そこから私はピッツァにハマり、真のナポリピッツァ協会の認証を受けた「真のナポリピッツァ」を食べに行ったりした。

 こうして思い返してみると、私がピッツァにたどり着いたのは、私がお金を持つようになり行動圏を広めた時期とナポリピッツァブームが一致したからではないかとも思われる。それとも、すでにナポリピッツァの店は全国各地至るところにあって、単に私の行動圏が広がっただけなのか。おそらくそれは2010年ごろのことだったと思うが、ほかの方はどうなのだろうか。いろいろな方に「自分のピザ史」を語って頂きたい、などと勝手に思っているところである。

食べ物で遊ぶことについて

 「食べ物で遊ぶな」と、子供の頃には叱られたものだが、さんまの塩焼きを食べるときの私は遊んでいるとしか言いようがない。それは手術ごっこと解剖ごっこの両方を兼ねたようなもので、食べられる部分を正確かつ迅速に分け、さんまの姿形を崩さずに食べるという遊びである。

 それは食べものをきれいに食べようということだから、叱られることはないとは思うのだが、私のなかでは確かに遊んでいるという思いがするのだ。

 その遊びの原点は、――ミラノサンドの話でも書いたが――熱々の食べものは、完成されたその瞬間から死への道のりを歩み始めている、という考え方にある。焼かれた「さんま」は当然死んでいるが、焼きたての「さんまの塩焼き」はまだ生きているのだ。だから、さんまの塩焼きが死ぬ前に、綺麗に、速やかに完食することによって、私はさんまを助け出すのだ。

 「心停止後の救命率は1分ごとに10%減ってゆく」と消防庁のパンフレットか何かで見た。ドリンカーの救命曲線と呼ばれるグラフはそのことを象徴的に示している。叱られることを承知でごく単純に言えば、心停止後1,2分後の救命率はまだ比較的高く、ここで誰かが適切な救命措置を行えば助かる可能性は高い。だが、それが3分4分と経つに従って、そこからジェットコースターのように一気に救命率は下がってゆく。そして軟着陸するように緩やかになり、10分が経過すると救命率はほとんど0になる。

 このことから、心停止状態に陥った人を救うためには、救急車の到着に至るまでの“その場に居合わせた人間(バイスタンダー)”による速やかな救命活動が極めて重要である、という結論に至る話なのだが、私はこの、人の命の懸かった真剣な話を食べものに応用して、「からあげクン生存曲線」などとふざけているのだから人でなしと罵られても仕方がない。そしてさんまの塩焼きについても、私は当然のようにこの生存曲線をイメージするわけである。

 こう考えれば、さんまの塩焼きを救うためには、(1)さんまに極力ダメージを与えずに正確に食べること、そして(2)迅速に食べることが重要となる。より小さな侵襲で、より正確に、より迅速に。もっとも、救った結果は頭と骨だけになるのだが――。

 しかし子供の遊びと異なるのは、私の場合はふざけることと「食べる」という目的がきちんと繋がっていることだろう。子供の場合は「ふざけ」の方向性が行為の目的に向かないから、「遊ぶな」となってしまうのだろう。例えば、勉強が嫌になってふざけるなら、それは勉強から脱線するはずである。そこで、国語教科書にある眠たくなる古典文学(失礼!)の一節をより早く・より長く暗記をするゲームだとか、肉体改造を施して自分の肉体の「レベル」を上げてゆくゲームとして捉える考え方は、理屈としては有り得るけれど、実際にそのゲームに子供を夢中にさせるのはなかなか難しいことだろう。

 それに比べれば、この医者ごっこ(さんまの塩焼き Ver.)は、まだ障壁は低くて、誰にでもすぐ始められる簡単なゲームである。

 さんまの塩焼きの食べ方をレベルにしたらどうなるだろうか。私は10段階の6ぐらいには居るだろう。綺麗さと素早さが主なパラメータである。はらわたまで食べきる人は8や9、世の中では少数派だろうか? そしてその頂点には、さんまの骨まで食べきる犬猫動物が君臨する――なんて、滑稽で面白いではないか(本当に食べきるのか? そもそも犬猫はさんまを食べるのか?)。

 最近の私の課題は、内臓を覆っている腹骨がごっそり外れてしまうことである。これをそのままにできればもっと美しいだろうと思うのだが、焼かれて弾力を失った内臓に押されているのか、焼いた時点で外れている気がする。この腹部回りに関してまだまだ未熟である、と、昨日も考えながらさんまの塩焼きを食べた。エラの近くから背骨に当たれば、あとは尻尾まで真っ二つである。

わたしの大事なお店

 私にとって「大事な店」と言えば、一件の喫茶店しか思い浮かばない。どれぐらい大事かというと、その場所を知られたくないために店名はおろかを地名さえ出さないほどである。とはいえ不思議なのは、なぜ私にとって大事なのかというところだ。

 例えば亡き友人との思い出の店であるとか、妻との最初のデート以来毎年記念日を祝うフレンチレストラン、などというような立派な物語は一切ない。ただ高校生のころに初めて行き、勝手に気に入って10年以上通い続けているだけのことである。それだけ通い詰めた店であれば店主と顔なじみになって世間話からプライベートの話まで交わすようなことがあってもおかしくないわけだが、そういうことも一切ない。

 だが、それがいい。この店の雰囲気が好きな私は、私が居ることによって変化が生じてほしくないのである。だから私は透明人間であり、楽しいその場所の観察者で居たい(これは私がずっと抱いている一つのテーマではある)。その店を営んでいる夫婦がコーヒーを入れ、あるいはレタスをちぎりながら休日の過ごし方を相談していたり、入荷したトマトが美味しいのだと喜しそうに語っていたり、都会に珍しく手かばん一つ持たずにやってくる地元のおじいさんや、いかにも学生という薄っぺらい手提げを持った女の子が店主夫妻と談笑していたり、店内に私だけが一人きりになって本を広げるとそっと静かな曲のCDに入れ替えてくれたり、CDプレイヤーの音量をすっと下げてくれたり、会話は無いけれど、そういうことの一つ一つが私のなかで――ごく何気ないことではあるが――大事な時間となってきたのである。

 初めて訪れたのは高校生のころだから、17歳かそこらだった。マクドナルドのようなチェーン店に慣れきった私にとって、個人の喫茶店に入るというのは非常に勇気のいることだった。学校帰りに店の前へ行き、そのまま引き返す、ということが何度かあった。だが、大人になりたかった。「お金を出せば誰でも客だ、それが資本主義社会だッ」と訳の分からない気合いを入れてドアを開け、びっしょり汗をかいたまま椅子に座り、銘柄はおろか茶の種類さえ知らず、適当に指差して「これで」と言って注文した。マグカップに慣れきっていた私は、はじめて紅茶のティーカップをつまむように持った。会計を済ませて店を出た瞬間に冬の風が横から突き刺さって、汗だらけの私の体を芯から冷やした。けれど、不思議な達成感に手ごたえを感じ、興奮の冷めないまま駅まで駆けて行ったのを覚えている。

 それから10年以上通ってきたわけだが、この大事な店というのは、いまや私にとってはマクドナルドに行くのとさして変わりないぐらいに気軽なことである。何も特別な時に行くものでもなく、「あれが食べたいな」と思いついたり、「ちょっと落ち着きたいな」というぐらいの気持ちで訪れる店である。けれど、そう思ったときにはそれはその喫茶店でしか果たせないのである。他の店では代わりが利かない。だから「この店がいつまで続くのだろうか」という悩みは、そのまま「私の人生がいつまで続くだろうか」という疑問と関連しているくらいに重大なことである。となると、やはりわたしの大事な店と言えば、この喫茶店しかない。しかしそれは、何らかのイベントによってではなく、逆に、何事もない時間の積み重ねによって、それがかけがえのない場所になった、ということである。

 タグ機能キャンペーンともいえるこのテーマに触発されて、書きたかったことを思い出したので、勢いのままに書いてみた次第である。