もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

翻訳された本は訳者との相性がある気がする

 翻訳された本は訳者との相性がある気がする(あくまでも文章の相性である!)。自分の理解力の無さを考慮しても、それでもスッと入ってくるときもあるし、まったく入ってこないときもある。

 具体例を挙げてしまうと、サキの短編などは岩波のはスッと入ってきたのだけど、新潮のは入りにくかった。あくまでも個人の感想で、良し悪しの話ではない。読みやすい方は日本語に馴染むようにかなりアレンジされているのかもしれないし、読みにくい方は原文により忠実なのかもしれない。となると、相性の問題を差し置いても、私のように「とにかく読みやすさが欲しい」という人も居れば、「より原文に近いニュアンスで読みたい」という人も居るかもしれない。

 いま「デイヴィッド・コパフィールド」を読んでいる。文庫で五巻からなる長編、新潮版で苦労している。私はもともと長い小説は苦手で、よほど面白くないと入り込めない。しかも、ありきたりなテーマだと、「あーはいはいそういう感じね」などと腐りきった見方をしてしまう。また、文章のフィーリングについて、とにかく選り好みをする。邪悪な読者である。

 例えば、「翌朝朝食が済むと、私は、また学校生活が始まった(第二巻)」という書き出しからして、ちょっと合わないなと感じた。論理的に説明する知識も無いのだけど、どうにも違和感を拭えない。「私は…始まった」という対応関係もそうだし、主語を明確にするはずの「私は」に、いかにも直訳のぎこちなさを感じる。何故だろう?

 始終その調子で、壁にぶつかりながら、一つ一つ立ち止まって、壁を乗り越えて読み進めてゆく。あれ、これって、原文を読む作業と同じなのではないか? ということで、文句を言う前に原文を読もうと思っている。とはいえこの大著では裸一貫でエベレストに登るようなものなので、短編から取り掛かろうと思う。さいわいペンギン・リーダーズなどの素晴らしい本があって、レベル別に学習しやすいようになっている。まずは幼稚園児向けから始めるべきだろう……と自嘲しながらも、やると言ったらやる、継続が大切なのだと、ありきたりな警句を自分に言い聞かせよう。そして、訳者に文句を言う前に、文学的な魅力を損なうことなくたった一つの日本語で表現してみせる、訳者の偉大さを噛み締めるとしよう。