もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

わたしの大事なお店

 私にとって「大事な店」と言えば、一件の喫茶店しか思い浮かばない。どれぐらい大事かというと、その場所を知られたくないために店名はおろかを地名さえ出さないほどである。とはいえ不思議なのは、なぜ私にとって大事なのかというところだ。

 例えば亡き友人との思い出の店であるとか、妻との最初のデート以来毎年記念日を祝うフレンチレストラン、などというような立派な物語は一切ない。ただ高校生のころに初めて行き、勝手に気に入って10年以上通い続けているだけのことである。それだけ通い詰めた店であれば店主と顔なじみになって世間話からプライベートの話まで交わすようなことがあってもおかしくないわけだが、そういうことも一切ない。

 だが、それがいい。この店の雰囲気が好きな私は、私が居ることによって変化が生じてほしくないのである。だから私は透明人間であり、楽しいその場所の観察者で居たい(これは私がずっと抱いている一つのテーマではある)。その店を営んでいる夫婦がコーヒーを入れ、あるいはレタスをちぎりながら休日の過ごし方を相談していたり、入荷したトマトが美味しいのだと喜しそうに語っていたり、都会に珍しく手かばん一つ持たずにやってくる地元のおじいさんや、いかにも学生という薄っぺらい手提げを持った女の子が店主夫妻と談笑していたり、店内に私だけが一人きりになって本を広げるとそっと静かな曲のCDに入れ替えてくれたり、CDプレイヤーの音量をすっと下げてくれたり、会話は無いけれど、そういうことの一つ一つが私のなかで――ごく何気ないことではあるが――大事な時間となってきたのである。

 初めて訪れたのは高校生のころだから、17歳かそこらだった。マクドナルドのようなチェーン店に慣れきった私にとって、個人の喫茶店に入るというのは非常に勇気のいることだった。学校帰りに店の前へ行き、そのまま引き返す、ということが何度かあった。だが、大人になりたかった。「お金を出せば誰でも客だ、それが資本主義社会だッ」と訳の分からない気合いを入れてドアを開け、びっしょり汗をかいたまま椅子に座り、銘柄はおろか茶の種類さえ知らず、適当に指差して「これで」と言って注文した。マグカップに慣れきっていた私は、はじめて紅茶のティーカップをつまむように持った。会計を済ませて店を出た瞬間に冬の風が横から突き刺さって、汗だらけの私の体を芯から冷やした。けれど、不思議な達成感に手ごたえを感じ、興奮の冷めないまま駅まで駆けて行ったのを覚えている。

 それから10年以上通ってきたわけだが、この大事な店というのは、いまや私にとってはマクドナルドに行くのとさして変わりないぐらいに気軽なことである。何も特別な時に行くものでもなく、「あれが食べたいな」と思いついたり、「ちょっと落ち着きたいな」というぐらいの気持ちで訪れる店である。けれど、そう思ったときにはそれはその喫茶店でしか果たせないのである。他の店では代わりが利かない。だから「この店がいつまで続くのだろうか」という悩みは、そのまま「私の人生がいつまで続くだろうか」という疑問と関連しているくらいに重大なことである。となると、やはりわたしの大事な店と言えば、この喫茶店しかない。しかしそれは、何らかのイベントによってではなく、逆に、何事もない時間の積み重ねによって、それがかけがえのない場所になった、ということである。

 タグ機能キャンペーンともいえるこのテーマに触発されて、書きたかったことを思い出したので、勢いのままに書いてみた次第である。