もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

食べ物で遊ぶことについて

 「食べ物で遊ぶな」と、子供の頃には叱られたものだが、さんまの塩焼きを食べるときの私は遊んでいるとしか言いようがない。それは手術ごっこと解剖ごっこの両方を兼ねたようなもので、食べられる部分を正確かつ迅速に分け、さんまの姿形を崩さずに食べるという遊びである。

 それは食べものをきれいに食べようということだから、叱られることはないとは思うのだが、私のなかでは確かに遊んでいるという思いがするのだ。

 その遊びの原点は、――ミラノサンドの話でも書いたが――熱々の食べものは、完成されたその瞬間から死への道のりを歩み始めている、という考え方にある。焼かれた「さんま」は当然死んでいるが、焼きたての「さんまの塩焼き」はまだ生きているのだ。だから、さんまの塩焼きが死ぬ前に、綺麗に、速やかに完食することによって、私はさんまを助け出すのだ。

 「心停止後の救命率は1分ごとに10%減ってゆく」と消防庁のパンフレットか何かで見た。ドリンカーの救命曲線と呼ばれるグラフはそのことを象徴的に示している。叱られることを承知でごく単純に言えば、心停止後1,2分後の救命率はまだ比較的高く、ここで誰かが適切な救命措置を行えば助かる可能性は高い。だが、それが3分4分と経つに従って、そこからジェットコースターのように一気に救命率は下がってゆく。そして軟着陸するように緩やかになり、10分が経過すると救命率はほとんど0になる。

 このことから、心停止状態に陥った人を救うためには、救急車の到着に至るまでの“その場に居合わせた人間(バイスタンダー)”による速やかな救命活動が極めて重要である、という結論に至る話なのだが、私はこの、人の命の懸かった真剣な話を食べものに応用して、「からあげクン生存曲線」などとふざけているのだから人でなしと罵られても仕方がない。そしてさんまの塩焼きについても、私は当然のようにこの生存曲線をイメージするわけである。

 こう考えれば、さんまの塩焼きを救うためには、(1)さんまに極力ダメージを与えずに正確に食べること、そして(2)迅速に食べることが重要となる。より小さな侵襲で、より正確に、より迅速に。もっとも、救った結果は頭と骨だけになるのだが――。

 しかし子供の遊びと異なるのは、私の場合はふざけることと「食べる」という目的がきちんと繋がっていることだろう。子供の場合は「ふざけ」の方向性が行為の目的に向かないから、「遊ぶな」となってしまうのだろう。例えば、勉強が嫌になってふざけるなら、それは勉強から脱線するはずである。そこで、国語教科書にある眠たくなる古典文学(失礼!)の一節をより早く・より長く暗記をするゲームだとか、肉体改造を施して自分の肉体の「レベル」を上げてゆくゲームとして捉える考え方は、理屈としては有り得るけれど、実際にそのゲームに子供を夢中にさせるのはなかなか難しいことだろう。

 それに比べれば、この医者ごっこ(さんまの塩焼き Ver.)は、まだ障壁は低くて、誰にでもすぐ始められる簡単なゲームである。

 さんまの塩焼きの食べ方をレベルにしたらどうなるだろうか。私は10段階の6ぐらいには居るだろう。綺麗さと素早さが主なパラメータである。はらわたまで食べきる人は8や9、世の中では少数派だろうか? そしてその頂点には、さんまの骨まで食べきる犬猫動物が君臨する――なんて、滑稽で面白いではないか(本当に食べきるのか? そもそも犬猫はさんまを食べるのか?)。

 最近の私の課題は、内臓を覆っている腹骨がごっそり外れてしまうことである。これをそのままにできればもっと美しいだろうと思うのだが、焼かれて弾力を失った内臓に押されているのか、焼いた時点で外れている気がする。この腹部回りに関してまだまだ未熟である、と、昨日も考えながらさんまの塩焼きを食べた。エラの近くから背骨に当たれば、あとは尻尾まで真っ二つである。