もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

キャロル・ヘルストスキー『ピザの歴史』

 ピザの値段が高すぎる。1枚2000円ってなんだ。「本場ナポリの~」なんて言うけれど、ナポリでは庶民の味方、庶民の食べ物だろ!?

 と、息巻く勢いで手に取った原書房の『ピザの歴史』。ナポリにおいて貧しい人の粗末な食事だったピザは、グローバル化とローカル化のなかで姿かたちを変え、それがまた「ピザとは何か」という根本的な問いを浮かび上がらせる。

 こうした過程自体はいろいろな食品、あるいはモノ全般においてみられるのだけど、ピザの場合は発祥の地であるイタリアとはべつに、アメリカという第二の故郷があるというのが面白い。これはたとえば「寿司に第二の故郷があるか?」と考えてみると、そのすごさが分かる。

庶民食としてのピザ

 そもそもナポリにおいてピザが誕生したのは1734年といちおうは言われている。「真のナポリピッツァ協会」は、この年に「マリナーラ」が誕生したとしている*1。ピザの材料となる小麦やトマト(のちにチーズやバジルなど)はコロンブス交換以来大陸間のモノの移動により可能になったものだということも注目すべきことではある*2

 しかしこの庶民食はナポリを訪れた外国人には人気がなかったらしい。アレクサンドル・デュマは、下層民衆を聖者ラザロになぞらえて「ラッザローニ」と呼んだ。そしてラッザローニの食べものは、夏のスイカと冬のピザであると述べた(それでも、デュマはピザの奥深さについても述べていて興味深い)。また、モールス電信機で知られるサミュエル・モールスにいたっては「下水からすくいあげてきたかのようなパン」とまで書いているし、『ピノッキオの冒険』で知られるカルロ・コッローディも、種々の具材が混在したピザについて「それを売っている商人と同じように汚ならしく見える」と書いている。ひどいっ。まあ、残飯のような余りものをゴチャゴチャ乗せた料理だったんですね。

マルゲリータ

 しかし、こうもこてんぱんに書いてあると、逆にこのピザを好んだ貴族の存在はなんなのかと突っ込まざるを得ない。有名なところでは、夏の宮殿にピザ窯を設置させたナポリ王フェルディナント4世がいる*3。そしてなによりマルゲリータ・ディ・サヴォイア王妃のことを書かないわけにはいかない。言うまでもなく「マルゲリータ」ピザの由来となったその人である。

 ウンベルト1世の妃だったマルゲリータ王妃は、ヨーロッパの王族にとっておなじみのフランス料理にすっかり飽きていた。そこでナポリを訪れた際に、ピザ職人(ピッツァイオーロ)のラファエレ・エスポジトが何種類かのピザを作った。そのうちの一つが、トマトの赤、モッツァレラの白、バジルの緑からなるこのピザだった。ピッツェリア・ブランディ (Pizzeria Brandi) には、当時の王宮料理部長ガッリ・カミッロから贈られた感謝の手紙が飾ってあるという。

ナポリからアメリカへ

 ピザが世界中に広まったのは第二次世界大戦後で、その大きなきっかけは2つあった。ひとつは移民、もう一つは観光業の発達。アメリカにおいても移民が移り住んだアメリカ北東部の都市からピザが広まってゆく。北東部に移り住んだ移民というのは工場などで働く非熟練労働者が多く、つまりあまり裕福ではなかった。アメリカにおいても当初は貧しい人びとの腹を満たす食事だったわけだ。

 アメリカのピザのはじまりは1905年にジェンナーロ・ロンバルディがニューヨークスプリング通り53の1/2番地に開いた「ロンバルディ」と言われている。ただし、他の移民たちも許可なく販売していたから、実際のところはさだかでない。

 やがてそんなピザもアメリカで独自に進化し、クラフトの分厚いピザであったり、パイのようなディープディッシュピザ、イングリッシュマフィン・ピザなどが登場する。さらに企業が冷凍ピザや宅配ピザを作って大々的に展開してゆく。大量生産するために技術を向上させ、また新しいメニューを創造してゆく。映画などでもイタリアの象徴(シンボル)としてピザが登場する(ジョン・トラボルタが主演する「サタデー・ナイト・フィーバー (1977)」など)。

 こうした流行のなかで、イタリアを訪れる人は「本場のピザが食べたい」と思うわけです。しかし当のイタリアでは、ピザというのはナポリという一地方の食べもの、しかも庶民の食べものにすぎなかった。むしろイタリアにおいては南イタリアから北イタリアへの移民だけでなく、観光客もまたイタリア全土にピザというものを広めるのに大きな役割を果たした。これまた面白い。一地方の食べものが世界に広まり、外からの影響がイタリアのアイデンティティをつくりあげてゆく。

伝統と創造

 とはいえ、イタリアのピザとアメリカのピザではあまりにも違いがあった。

 ナポリから見たら宅配ピザチェーン店などが提供するアメリカの「ピザ」はもはやピザではない。ナポリではピザは職人が手作りするものであって機械的に大量生産するものではないし、クラフトも違えば具材もめちゃくちゃ。ナポリ人からすれば、文化が侵食される、誤った文化が広められてしまう、という危機感を覚えたであろうことは想像に難くない。そこで1984年には「真のナポリピッツァ協会 (AVPN : Associazione Verace Pizza Napoletana)」が設立され、1997年にはイタリアにおける原産地統制呼称制度DOC(Denominazione di Origine Controllata)の適用を受け、同協会が「真のナポリピッツァ」を認定することが認められるようになった。

 けれどここには原産地統制呼称制度の問題点も含まれている。審査要件が厳しすぎて、ナポリで庶民向けに営業しているピッツェリアが「真のナポリピッツァ」から除外されてしまう。使用する食材はもちろん、使用する窯やミキサーの種類、焼き方や調理手順といったことを細かに規定している*4。歴史的にみればもともと庶民向けの高級でないピザこそがナポリのピザだったはずなのに、品質を保証するこの認定は多くのナポリピザを除外してしまった。

 ピザには二つの道があるように見える。伝統に回帰する道と、創造へ突き進む道。伝統からの乖離が悪いという話ではない。それは世界各地の食文化と混ざり、あるいはそうした文脈すら持たない新しいピザの登場でもある。それはかつてコッローディが「汚らしく見える」と書いたこととも通じるかもしれない。それに、世界各地で「ナポリのピザ」を追求するというのは、一見伝統への回帰に見えるが、じつはその土地においては新たな創造であるということを忘れてはいけない。

 デュマが書いたように、それはシンプルであるがゆえに広がりがあり、奥が深いということ、それこそがピザが世界各地に広まった本質的な理由なのかもしれない。

 と、読みながらこのように考えていたら、AVPNの認証を受けた店でもなかなかお安い店があるのを見つけた。私は日本のピザ職人を甘く見ていたようだ。

 

ピザの歴史 (「食」の図書館)

ピザの歴史 (「食」の図書館)

 

*1:小麦の生地とトマトからなる「マリナーラ」は船乗りを意味し、船乗りたちが朝食にこのピザを食べたことに由来するといわれている

*2:トマトはもともと北イタリアでは毒があると考えられていたが、南イタリアでは「黄金のリンゴ (Pomi d'oro, 現代ではPomodoro)」と呼ばれ好まれた。ナポリは火山灰地であり、おいしいトマトが育った。

*3:妻のマリア・カロリーナがピザを持ち込ませなかったのでコッソリ窯を作ったという説と、反対に、ピザ好きのマリアのために窯を作ったという説がある。

*4:AVPN「AVPNの国際規約について」