もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「フィノ・デ・アロマ」のミルクチョコレート

 カルディで「フィノ・デ・アロマ」のミルクチョコレートが出ていた。わずか300円ほどでこんなに旨いのかとドはまりしたのが去年のこと。店頭から消えたときには外出するたびにカルディを探して店のなかを探し回った。それでようやく置いている店を探し当てて、現品限りというから10枚ほどまとめ買いしたものだ。それもついに店頭から消え、よく分からない外国製のチョコレートに置き換わった。試しにその新しいチョコレートを買ってみたが、個人的には全く物足りなかった。「フィノ・デ・アロマ」が素晴らしいのは安くて旨いということに尽きる。それもよく見かける普通のチョコレートと違って、舌の上でまろやかに溶けてゆく。それだけ熱に弱いというのがまた、食べやすいように進化してきたチョコレートとは一線を画している。それで、先日カルディを訪れたら、並んでいた!! 素晴らしい!! 一年ぶりに見かけて大興奮、思わず店頭で小躍りした。そしてこれまた現品限りで消えてゆく「開喜 凍頂烏龍茶」とともに味わっている。「フィノ・デ・アロマ」が現れ、「開喜 凍頂烏龍茶」は消えてゆく。これこそこの時期にしか味わえないカルディの楽しみである。いや、実は季節など関係ないのかもしれないが。

スティーヴン・ギャロウェイ「サラエボのチェリスト」

 小説はあまり読まないのだが、ときに小説は生きる力を与えてくれることもある。今日読んだ「サラエボチェリスト」も、私にとってはそうだった。

 戦火に包まれたサラエボで自らの危険を顧みず演奏を続けたチェリストと、そのチェリストの演奏に心打たれた3人の物語。

 読んで何より思ったのは、生物として生きていることと、人間として生きることは違うということだ。生きながらにして死んでいる人もいれば、生きるために死ぬ人もいる。それは死を選ぶということではない。彼女は生を選んだのだ。

 生命が脅かされる極限の状況で、彼らは人間として生きる決意をした。それは、いかなる場合にも清くあれというような生ぬるいものでもなければ、砲煙弾雨のなかに飛び込むようなドラマチックな一場面でもない。しかし、それは彼ら自身にとって、顔を、魂を、自分という存在を取り戻す瞬間だった。そして、その自分を取り戻す過程にチェリストの音楽が重要な意味を持っていることを忘れてはいけない。幽霊となった、あるいはなりつつある存在が人間に戻るためには、何かが必要だ。

 悲しみや絶望という安っぽい言葉を通り越えた先に、灰色の世界がある。そして人びとはその中にいる。けれども、灰色の世界から戻ってくることは可能なのだ。「エミナの体は通りに立ち込める灰色に覆われてはいなかった (p. 145)」のだし、「スナイパーは笑顔 (p. 168)」になったのだから。読後よくよく考えると、私はその力強いメッセージに圧倒されたし、頭をぶん殴られたのだ。私たちも「生きよう」、頑張ろう。そう思わせてくれる力が、この本にはある。

 

F. Liszt - Grande fantaisie de bravoure sur La clochette, S.420

 毎度ただの日記で大した情報は書けませんが。F. Liszt - Grande fantaisie de bravoure sur La clochette, S.420*1 を公開しました。「ラ・カンパネラ」の最初のバージョンにして最難曲。最近はこの制作に集中していて、書きたいことはありながらもブログからは少し遠ざかっていました。

 パガニーニの圧倒的な演奏を聴いたフランツ・リストが「ピアノのパガニーニになる」と叫んだという逸話は(事実はさておき)よく知られているところですが、このパガニーニ関連の作品の中で最も早い時期に作られたのが、この「大幻想曲」です。

 この作品があまり知られていないのは、音楽としての面白みに欠けるからだという指摘(サロン的と言われることも……)もあるかもしれませんが、なにより物理的に難しすぎて、演奏される事自体が少ないのが一番の理由ではないかと思います。十度を超える和音が平気で登場しますし、その上でそれぞれ細かな動きを取る複数のパートを片手で弾き分けることが求められる箇所もあります。無理!

 私がこの作品を打ち込もうと思ったのは、弾けない作品として有名になりすぎたこの作品を自分なりに表現してみようという思いつきからだったのですが、打ち込んでゆくとその面白さに惹き込まれてゆきました。

 こんにち知られるあの「ラ・カンパネラ」のテーマを、パガニーニの演奏に触発されたばかりのリストはどのようにアレンジメントしたのか。ピアノの可能性を限界まで引き出そうと決意したであろうリストの情熱を、素人なりにせよ、この楽譜から掬い上げてみたかったのです。

 聞きどころは随所にありますが、聴いて頂きたいのはフィナーレのagitazioneからの部分です。この部分だけは、既存の演奏にはないイメージを提示できたと、勝手に思っているのです……。人間が弾けるかを度外視して、私が格好いいと思うように、ぶっ飛ばしました。

 どうしても打ち込みですから機械的なものではありますが、要所要所でしっかりメッセージを込めたつもりです。少しでも多くの人にこの曲の存在を知って頂き、さらに面白いと思って頂けたら、私は大満足です。(以下、動画・メモ)

*1:ウィキペディア日本語版の訳(2021年10月時点)では「パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲」となっていますが、意味としては「「鐘」による華麗なる大幻想曲」くらいではないでしょうか?

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思い出について

 もうずいぶん前の話になってしまうが、予行練習のブルーインパルスを見た(今更この話をする!)。仕事の昼休みに抜け出して、近場で一番よさそうな、デパートの屋上に来た。このデパートの屋上は穴場で、あまりにもさりげなくあるものだからふだんは閑散としているのだが、腐っても屋上かな、同じように考えてきた人がちらほらと見受けられた。

 時間がギリギリだったので、屋上についた私はあわててスマホを起動し、ツイッターを見ながら今か今かとタイミングを伺っていた。もちろんブルーインパルスを撮影するつもりだった。ところが、ふと周りを見れば、ほとんどの人が私と同じようにスマホを構えているではないか。

 それは当たり前なのだけど、なんだかとても奇異に見えた。誰もが同じように行動し、同じような写真を撮る。それはなんだか、均質化された思い出のように感じられた。それならば、この眼で見たほうがいいのではないか、という思いが浮かんできた。

 カメラで撮影した、あるいはファインダー越しに見たという思い出と、自分の目で見たという思い出。そのどちらがあってもよいのだが、私は頭の中にだけ焼き付けるほうを選んだ。

 私はスマホをカバンにしまい込んで、ブルーインパルスの轟音を待ち続けた。ところが、代々木方面からやってきた機影は、ビルの陰から現れたかと思うと、あっという間にビルの陰に消えてしまった。小さな幾筋の雲だけが残っていた。

 それはあまりにも一瞬で、こんな「思い出論」をこねくり回した結果がこれかと笑ってしまう。それでも、これは私のなかでは歴史的な出来事として残り続けるのだろう。

 

 本当に大切なものは、写真や映像で残すものでもないような気がしている。便利な時代だから、やれ食事だとか、やれ友達とのナントカ会だと言ってとにかく写真を撮ることに夢中になりがちなのだけど、あとあとになるとそれほど感慨の沸き起こるわけでもなく、何十年と積み重なった膨大な量の写真も邪魔でしかなかったりもする。思い出は、失われてゆくから美しいのだな、と思う。

 その点、私は最近ツイッターやインスタグラムが急に面白く感じられるようになった。分厚いアルバムのようにわざとらしくなく、単にその時々を映し出し、それを自分や他人が楽しむ。アルバムのように過去の投稿を見ることもできるが、かといってアルバムのように堆積した時間を感じさせない(もちろん人によるだろうが)。はっきり言ってしまえば、大切なものも、どうでもいいものも、全てをごちゃ混ぜにしておくにはとても良いと感じる。

 一分一秒と絶えず更新されてゆく時間の感覚に私は最初戸惑ったのだが、慣れてみるとそれが心地よくもある。

 それで最近は当たり障りのない写真をツイッターなどに載せて、スマホからは消すようにしている。なんだか手元のアルバムを整理しきったのように思えて、清々しかった。 

水出しアイスティー

 水出しアイスティーにはまっている。こんなに楽にアイスティーが入れられるのかと、感動に打ち震えている。アイスティーを入れるのがどんなに大変かは、入れたことのある人にしか分からないだろう。

 作業としてはただお茶を入れて冷やすだけなのだが、そのまま冷やすと色が濁ってしまうので、一気に冷やさないといけない。それでも色が濁ってしまうことがあるから、本当に苦労するのだ。

 その点、水出しアイスティーは様々な難点を一気に解決してくれる。抽出時間を細かく正確に計る必要は無く、一晩冷蔵庫に入れて放っておくだけでよい。ポットも一つで済む。それでいて渋みのないまろやかなアイスティーがほとんど確実に作れる。まあ、プロからすればツッコミどころは多いだろうが、素人レベルでは大満足だ。なんと素晴らしいことか。我が相棒ドナウくんが活躍する機会も随分増えた。

 このドナウくんというのは、ハリオ製のガラスのティーポットである。その形状は抽出時に茶葉が舞うようにふくよかな丸みを帯びていてなんともかわいらしい。どちらかというと女性らしさを連想するようなティーポットなのだが、私はそれをドナウ「くん」と呼んでいる。跳ねるような語感が心地よいと思う。

 水出しにはダージリンのファーストフラッシュがいいだろうと、このあいだ奮発して買ってみた。50gで3000円だからなかなかの値段だ。へたくそが入れるにはもったいない茶葉なのだが、水出しならばよいだろうと思い切って買ってみた。金色にも見える水の色も、最初の一口の鮮烈さも、ほかの紅茶では味わえない。口の中に何の嫌味もなく、青々とした爽やかな香りが吹き抜ける。暑苦しいこの夏も涼しくなるというものだ。

 そんなこんなで私は小躍りしながら水出しアイスティーを毎日のように作っている。細かなうんちくはいらないし、自分の楽しいようにやる。エアコンの壊れた部屋で、うちわを扇ぎながら飲む一杯は格別だ。