もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

地元のグーグルやっちゃってるレストラン(仮)について

 結論、グーグルの評価はあまり当てにならない、というありきたりな話である。

 最寄り駅にあるレストランはグーグルでの評価が低いことで有名だったのだが、たまたまグーグルマップで見てみたら評価が2ポイント台から4ポイント台に上がっていた。かなりの上昇である。

 もともとは料理が来ないとか、注文を取りに来ない、料理が凍っていたなど、低評価がかなり目立っていた。

 ところが、今回見たときには無数の高評価がついていた。ただ、その多くは他の投稿数が1, 2件かゼロ、つまりほぼその店にだけコメントをしているアカウントによるものなのだ。

 「……やってんじゃね?」と私が思うのは、私自身実体験があって、ある楽曲投稿サイトで活動していたときに、「"いいね"を買いませんか?」という英語のメッセージをもらったことがあるのだ。例えば100件ならいくら、1000件ならいくら、10000件ならいくら、という具合である。

 私は自分のやりたいことをやっていただけで、収益なんか微塵も気にしていなかったので無視したが、今やそういう"商売"もあるのだと学んだ。

 天下のグーグル様がこの有り様では、便利だからとあまり信じすぎるのも考えものだ。その点では、相手がAIであれグーグルであれ、他のどんな大企業であれ、まず自分が何を求めているのかを明確に持ち、それに見合った情報収集をするリテラシーがいっそう必要になってきていると思う。グーグルで言えば、多数の海外客がこぞって高評価を押す店でも、食べログで3.2とか平凡だったりしてそのほうが実感に近いこともある。食べログのほうが正確だと言いたいわけではなく、それぞれに良し悪しがあり、それぞれに限界があるということだ。

 それで食べログを見てみたら、驚いた。意外にも3.1、ランチに関しては3.5から4.0の高評価が並んでいた。グーグルやっちゃってる+店員さんのスキル向上による高評価、どちらも事実なのではないかと想像させる。

 物事を単純に見てはいけない。現実は単純に一面だけで語れるものではないということを、このレストランは私に教えてくれたのである。

「誰もが狂気を持っている」

 学生時代、図書館でDVDを借りて見た「人生、ここにあり! (Si può fare)」のインタビュー映像のなかで、主演のクラウディオ・ビジオは「誰もが狂気を持っている」ということを言っていたと思う。これは誤解を招きやすい表現かもしれないが、人間は機械ではないのだから、当然のことだとも思う。むしろこういう作品は、機械化しかねない私たちが人間なのだと思い出させてくれる、と言えなくもない。

 佐藤二郎さんの今回の件が話題になっていて、事実や善悪の判断に立ち入るつもりはない。むしろこの言葉を連想するとき、私はそうした判断がいかに難しいかということをひしひしと感じる。

 この件について何かを言いたいというわけではなく、私自身が、その報道を見てふと思い出したのがこの言葉だった、というだけのことをメモしておこうと思ったのである。これは何かの主張ではなく、ただ心の流れを書き留めたにすぎない。

廃道 - 湯西川温泉の記憶

 

dolce-sfogato.hatenablog.com

 湯西川には3度行っていて、この時だったと思うのだけど、バスの車窓から廃道をたくさん見かけた覚えがある。湯西川温泉駅からバスで30分ほど、トンネルをいくつも潜り抜けた先に道の駅と小さな集落が見えてきて、さらにもう一つトンネルを潜った先にようやく見えてくるのが湯西川温泉郷だ。そして、そのトンネルが作られる前に使われていたであろう旧道と思しき分岐がいくつもあって、それらが気になっていた。

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今日の夢

 見知らぬ女性が隣にいて「宇宙のスケールと比べれば大したことはないけれど、日本の歴史もまた十年百年の単位で修正されることがある」と話して「良いことを言ったな」と内心自画自賛するも、女性はピンと来ていない。会えば話すが仲良くもない同級生が自転車で先導して、西友に行き着く。なんで、と思いながら自転車を止めるが、私は新幹線の時間が近いのを思い出し一人で自転車を漕ぎ出す。車道を進み、二・三分進んだところで横断歩道を渡り、細い路地の住宅地に入る。突き当たりに鉄骨階段の二階建ての古いアパートがあって、右折すると直進と左折の分岐。左折すると寺院がある。寺院に自転車のまま入り、そのまま引き返すと二人の女性が話し込んでいる。私が「関西弁で"こんにちは"のイントネーションを教えてほしい」と言うと、片方の女性から「それは出来ない」と標準語で言われる。

映画「シンプル・アクシデント/偶然」「ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー」「マテリアリスト」

「シンプル・アクシデント/偶然」

 5/12 アップリンク吉祥寺にて鑑賞。不当に投獄され、拷問や屈辱的な仕打ちを受け、家族までも失った男ワヒドが、ひょんなことから仇の看守らしき男に遭遇する。獄中では目隠しをされていたワヒドにとっては看守の「勲章」たる義足の音だけが、看守を特定する唯一の証だ。男を拉致し荒野に埋めようとするが、人違いだと言う。その必死の叫びに確証が揺らいだワヒドは、他の被害者のもとを訪ねるが…………という話。

 この物語が特異なのは、群盲評象という感じで、被害を受けた人間がみな看守の一部分しか知らないということだ。それも目以外の。ある人は音(聴覚)、ある人は肌触り(触覚)、ある人はにおい(嗅覚)、ある人は味(味覚)というかたちに、かなり意図的に配置されている。しかもそれらが全く役に立っていないのがなんとも皮肉だ。

 本作にはいくつかの考えさせられるポイントがあった。負の連鎖の下で苦しみ、抜け出せずに居る人びと。抜け出そうとする人びと。自動車で犬を轢いてしまったときに「仕方ない」と割り切る人間と、割り切れない人間。全員が獄中では目隠しをされていて誰一人看守の実像を知らないという設定もこの映画を特殊なものにしている。

 最後の看守らしき男の叫びは本心なのかもしれないが、メタ的に見れば監督の主張そのものだろう。みな同じ人間である、と思いたい。が、ラストはそれを許してくれない。鑑賞者に疑問符を投げかけて、作品は終わる。

映画「ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー」

 5/25 TOHOシネマズ 上野にて鑑賞。ロゼッタ姫がクッパジュニアに攫われて、マリオとルイージが救出に行く……というところはもはや王道なのだけど、本作はピーチ姫も救出側ということで、にわかマリオファンの私は歓喜した。私がにわかだったのがよかったのかもしれないが、知っているキャラクターがどんどん登場するし、音楽も聴いたことのある曲がアレンジされていてめちゃくちゃ楽しかった。フォックスやゲーム&ウォッチが出てきた場面では立ち上がって喝采したかったのだが、つまみ出される覚悟は無かった。

 どうやら映画好きや評論家からの評価はあまり芳しくないらしいのだが、考察癖のあるオトナからすればそうだろうなと思う。私自身気になる点はあって、例えばクッパが受動的すぎる気がして「自分の意思は無いんか?!」とツッコミたくなったし、家族は友情に勝ると言ってもその絆が悪に向かってしまうようでは……などと思わないでもなかった。オトナからすれば~というのは嫌味で書いたのではなく、細かいことを抜きにしてひたすらマリオワールドを楽しむような見方をしたほうが本作は楽しめるし、そこが評価の分かれ目になったのだろう。そもそもゲームのために作られた世界観を映画に移植して展開するというのは本当に大変なことで、ものすごいチャレンジだと思うから、いつもワクワクして楽しみにしている。

映画「マテリアリスト」

 5/30 アップリンク吉祥寺にて鑑賞。結婚相談所で数々の婚約を成功させてきたルーシーは、二人の男性のあいだで揺れ動く。一人はお金持ちで、長身で、ハンサムで、すべてを手にしている。もう一人の元カレは、貧乏で、俳優を目指しながらアルバイトで食い繋いでいる。かつてはたった25ドルのために記念日にケンカしなければならなかったことにうんざりして、ルーシーはジョンと別れたのだった。

 結婚相談所という設定が絶妙で、結婚相談所では相手と直接出会うまではスペックでしかお互いを評価することが出来ない(まあ、「いい人なら誰でもいい」と言いながら年収で足切りしたり、女性なら相手の身長がああだ、ハゲは嫌だとか、男性なら教養があってスタイル抜群で自分は48歳だけど相手は30代だと厳しいなとか、まあこいつら何様なんだと笑ってしまったが)。そこで働くルーシーは、スペックの世界にどっぷり浸かりきったマテリアリストなのだ。だから一度はお金持ちを選んだ。が、ルーシーはマテリアリストであるがゆえに大失敗を犯し、自分の価値観を強烈に揺さぶられる。ルーシーのクライアントの一人はこう叫ぶ。「私は商品じゃない。人間よ」。

 マテリアリストのルーシーにとって、結婚はビジネス、条件のマッチングだったのだし、それはある程度うまくいっていた。自分の恋愛でも、常に相手を評価してしまう冷徹な自分がいて、貧乏なジョンを軽蔑する傲慢さに自己嫌悪している。じゃあ、愛ってなんなの? というのがこの作品の一番素晴らしいところだ。それにしても、ジョンのジャケットがあまりにも完璧にフィットしていて、余裕のないバイト暮らしにしては立派すぎると思ったのだけど、そこは一張羅、ニューヨーカーの矜持ということだろうか。