もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「昔はこんな事件はなかった」

 「昔はこんな事件はなかった」と祖母が言うとき、私はそのバイアスの根深さに頭を抱えてしまう。戦後以来、本当に「こんな事件はなかった」のか? 1980年代、小学生の子どもらが、徒党を組んで、数カ月にわたって一人の老人をよってたかって暴行し続け、月々のわずかな年金を巻き上げた事件があったことなどを知ると、昔の子どもは今の子どもよりも健全であったと、本当に言えるのだろうか、と思ってしまう。

 私自身も、祖母のようになるのではないか、と恐れている。もちろん人としては大好きなのだけれど、思い出が美化されることに対する自覚の無さは、老いによる自然な働きなのだろうか。

 もし、歳を重ねることで、思い出が美化され、美しい思い出だけが残るのだとすれば、それは老いに対する救いのようにも思える。今まで良い人生であったと、思いやすくなるからだ。しかし、過去を美化することは、現在や未来に対する悲観を強めるかもしれない。その身近な例が「昔はこんな事件はなかった」なのだろう。

 過去を美化し、未来を悲観して、その悲しみに対して、諦めたり、何とか折り合いをつけて、死んでゆくのが、人間なのだろうか……と、祖母を見ているとそう思う。

 いま私が驚いている凶悪な事件も、いずれは自分のことではなく「世の中の出来事」として忘却して、「昔はこんな事件はなかった」と言うようになってしまうかもしれない。

 私は、叶うなら、汚い思い出も記憶しておきたいものだと思う。過去を美化するのではなく、そこに人間の普遍的な姿を見つけて、「いつの時代も、人間そんなに変わらんのだなあ」と諦めて、苦々しく笑えるような、老人になりたい。

とんこつラーメンの記憶

 昔々、もう数十年も昔……。父が墓仕舞いのために数十年ぶりに郷里に戻ったことがあった。そのときに父が買ってきたのが、冷凍のとんこつラーメンだった。こう書くと、父の郷里の場所もほとんど分かってしまうのだが。

 子どもだった私には、父が遥か彼方の地から持ってきたそのラーメンが鮮烈に映った。しょうゆ、みそ、しお、とんこつ、それまで食べてきたラーメンとは全く違う、真っ白いスープを見たときの驚きを、今でもはっきりと覚えている。とんこつですら、東京ではしょう油の色が強いものが多かった。

 味はとんこつのコクと嫌味のない香りがあり、しかも脂っぽいはずなのにそれを感じない。かえしは薄口しょうゆベースで、塩味が強かった。麺はまっすぐな細麺。具材はチャーシューとネギだけ。

 子ども時代のことにしては、やけにはっきりと、そのラーメンのことを覚えている。それは、はるか遠方からやってきた、ご馳走だったからだろうか。

 今でもあのラーメンを探し求めて、博多ラーメンだとか、久留米ラーメンを名乗る東京の店を片っ端から訪れているのだが、あの味に出会ったことはない。そもそも、スープの色からして違うのだ。どの店も、どんなに「本場」を標榜する店も、スープの色が違う。あの時、私が見たのは、私が驚いたのは、真っ白い、濃厚なスープだったのだ。

 最近、あれは子どもの私が見た幻想だったのではないか、と思うようになった。子どもだった私が、ご馳走を目の当たりにして感動し、その体験の記憶が繰り返し美化され、作り変えられただけだったのではないか。それでも、もしそのラーメンが実在するのなら、今一度食べておきたいものだと思う。

2/20 ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル

 2/20 ミューザ川崎で「ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル」を聴く。マズルカがメインで、最後に変ロ短調ソナタ2番。ショパンの作品の中で、マズルカほど演奏者によって違いの生じるジャンルは無いと思う。アクセントはもちろんのこと、テンポ自体も大きく揺らぐのが醍醐味で、それが好みの大きく分かれる理由でもある。

 私は品評するほどの見識はないけれど、マズルカは「端正だな」という印象を受けた。ルバートやアクセントもそうだけれど、奇抜さは無い。けれど、自由に歌う右手が印象的だった。装飾音だけではなくて、一瞬の溜め方や間が素晴らしかった。一言で言えば、真っ当というか。ショパンへの敬意や作品に対する誠実さがすごく伝わってきた。イ短調の序奏の孤独感とか、どうやったらあんなに表現出来るんだろうな。

 マズルカで一つ面白かったのは、マズルカの曲集がアタッカで奏されることによる効果。アタッカというか本当に食い気味だったのだけど、繋がりが分からなくなるくらい自然だった。

 多くの人が指摘するように、ソナタに入る前に拍手が入ったのは残念だった。さらに言えば、前半の終わり拍手が入らず、ブレハッチがおどけて慌てて立ち上がる素振りをしたのもヒヤッとした。広い意味で言えば、聴衆と奏者のちょっとした齟齬で、それがソナタ2番の冒頭部にも繋がってしまったのかな……と、余計な感想を抱いてしまう。

 けれど、それでもソナタはやはり素晴らしい作品で、ブレハッチの演奏はその魅力を存分に伝えてくれたと思う。一楽章はショパンのピアノにはないオクターブ低いbで、ダイナミックに締めくくる。二楽章のスケルツォや四楽章のフィナーレはとにかくテクニカルで、先の件もあって十全なコンディションでは無かったのかもしれないけれど、マズルカとは全く違う、ショパンの叫びにも近い声がしっかり感じられた。三楽章のカンタービレはやはりこのソナタの白眉。聴衆もこの部分での咳は死ぬ気で堪えて欲しかったなぁ。ちなみに、一楽章の繰り返しは従来通り5小節目からだった。

 アンコールは「英雄」、マズルカ op. 6-2, 「軍隊」。「英雄」のあの序奏からして、聴衆が盛り上がらないわけがない。当然の大喝采。私はop. 40 と言うとショパンが「全世界に向けて」と書いていたのを常に思い出す(全書簡)。ああ、やっぱりポロネーズはいいな! ショパンはいいな! と熱い気持ちで会場を後にした。

2/9 都民芸術フェスティバル  オーケストラ・シリーズNo.55  東京フィルハーモニー交響楽団

 2/9 池袋の芸術劇場で東フィル(指揮:出口台地さん、Vl:前田妃奈さん)によるチャイコフスキー作品。エフゲニー・オネーギンのポロネーズ、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第5番。アンコールはソリストによるタイスの瞑想曲、弦楽セレナーデのワルツ。

 やはり、チャイコフスキーはすごい! 今回も「やっぱり良い曲だ〜〜」と感極まる場面がいくつもあったし、聴くたびにそう思う。

 エフゲニー・オネーギンのポロネーズから、勢いがすごい。一発目からそんなにフォルテで大丈夫なのかと思いつつも、やはり良い曲だなぁとノリノリになった。

 ヴァイオリン協奏曲も出だしから思った以上にフォルテに聴こえて、「そんなに飛ばしていいの?」と少し心配になったり、「そんなに速くて、ソロのパッセージはどうなるんだ!?」などと余計な心配(というか期待というか)をしたけれど、そんな懸念を吹き飛ばしてエネルギッシュに弾きこなした。若々しい勢いを感じた。強く聴こえたのは、席の関係かしら。アンコールはタイスの瞑想曲で、か細く繊細な歌い回しで聴衆を惹きつけた。

 交響曲第5番、絶望からの勝利を思わせる4楽章(勝手に思っているだけだが)。"con desiderio e passione" の箇所。強い愛情。何度聴いても手に力が入る。チャイコフスキーが、時代を超えて、私の腹の底に向かって直接「頑張れよ」と言ってくれているような気がしてくる。いや、言ってる訳無いのだけど。アンコールは弦楽セレナーデのワルツ。

 余談。このホールは傾斜が浅くて、初めて前の人の頭が気になる思いをした。大きなハゲ頭であった。指揮者が見えない……まあいいのですが。

 帰りに「新人だから安いんだよ」などと語っているオジイサンが居た。私は(バカ舌ならぬ)バカ耳で、たいていの演奏は無批判に聴いて楽しんでしまうので、バカ者なりに幸せである。良い曲は、よほど演奏が破綻しない限り、その素晴らしさを脳裏に思い描くことが出来る。演奏を聴きながら、頭の中に本当の音楽を鳴らすことが出来る。それは、演奏を聴いているようで聴いていないとも言えるので、失礼な聴き方なのかもしれないけれど。

 温まった心を守るように抱きしめながら、家路についた。

寿司屋の「おあいそ」と、スタバの「呪文」

 寿司屋で「おあいそ」と言う人は未だに居るけれど、上島珈琲店で「ラージ三糖ワン」と注文する人は居ない。このことから、寿司屋で用語を使うことと、上島珈琲店で用語を使うことは何かが違う、ということを想像することが出来る。

 普通、上島珈琲店にあまり行かない人ならば、メニューに従って「リッチミルク紅茶の和三蜜を、ホットで、ラージサイズで」なんて言うかもしれないし、もう少し慣れた人なら一息で「ホットの和三蜜ミルク紅茶をラージサイズで」と言うかもしれない。それでも、通ぶって「ラージ三糖ワン」と言う人はまず居ない。

 そう考えると、スタバは特殊だ。スタバには呪文を使う人が居るからだ。カスタマイズの内容によっては40文字を超える場合もあるという。そんなものを頼む人が実在するのかは分からないが。

 寿司屋の「おあいそ」とスタバの「呪文」は、(出典は分からないが!)どちらも店員の符丁に由来する点では共通している。それでは、その違いは何だろうか?

 少なくとも、スタバの「呪文」は「おあいそ」よりは実用的な気はする。「おあいそ」を「お会計」と言い換えてもほとんど省略にはならないが、「呪文」はかなり省略されるはずだ。もっとも、「呪文」が正しく円滑に伝わるとすれば、という前提は付くが。

 とすると、上島珈琲店で「ラージ三糖ワン」と頼むのも、メリットはありそうなものだ。「ホットの和三蜜ミルク紅茶をラージサイズで」と言うよりも、「ラージ三糖ワン」と言う方がはるかに簡潔だ。それでも、「ラージ三糖ワン」と言う人は居ない。

 それは何故かと考えると、店員の符号を客が使うのは越権行為だという認識があるからだろう。それはある種の術語であり、特定の役割を持つ人たちだけが使うべき言葉なのだ。むしろ、「おあいそ」や「呪文」のほうが特殊だ。「おあいそ」も「呪文」も、これほど一般化された越権行為の例が他にあるだろうか?(こうした符丁が一般化した例を知りたいな、とふと思った)

 「おあいそ」に対しては、「店員の符丁であり、客が用いるべきではない」と異論が唱えられるようになってきたと思うのだが、「呪文」も同じ道のりを辿ることになるのだろうか。「客は呪文を控えるべきである」という言説がどれだけあるのだろうか。そもそも、「呪文」を実際に使う人がどれだけいるのだろうかとも思うが。

 ともあれ、こんなことを考えて、寿司屋で通ぶる人たちの姿に、スタバで粋がる人たちの姿が、時代を超えて重なるような気がして、思わず黒い笑いを浮かべてしまうのである。