もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ポジティブさについて

 ポジティブであることを嫌う人がいるけれど、結局は寄り添っていないことが問題なのではないかと感じる。つまり、落ち込んでいる人の心(落ち込んでいる事情など)をすっ飛ばしてポジティブを押しつける。ポジティブそれ自体ではなく、そういうやり方が嫌われるのだ。

 たとえば、病気で大変な思いをしている人に「頑張れ」と言ってしまう人が典型的だ。その人はつねに痛みやつらさに耐え忍んでいる。にもかかわらず、そんな患者のまえに気まぐれに現れて「頑張れ」という綺麗事を空高くから投げ棄てる。そして去ってゆく。それが善意だとしても、言われる側にはとうてい受け入れられるものではないだろう。

 正論や一般論が嫌われるのもこれと似ている。そんなことは分かりきっている。問題は、現実において「頑張れないのはなぜか」とか「正論が貫けないのはなぜか」ということだ。それを無視して分かりきった空論(それも自分の言葉ではなく一般論にすぎない)を投げつけて、本人は「アドバイスしてやった」と悦に入る。他人を軽視しているから、問題を単純に捉えてしまう。

 わたしの読んでいるブログで、病気でご飯を食べられない人に「ご飯を食べないと元気になれませんよ」と声をかけた人がいた。それは正しい。だが、その人がご飯を食べられないのはやる気や根性の問題ではないということは明らかだった。

 善意だからと言って許されるものではない。ここは断罪する場ではないけれど、本人やその経緯を見ていた人から嫌われたであろうことは間違いがない。

 人間関係において(つまりこの独り言記事はその範囲ではない)、言葉や態度について問題になるのは自分の動機ではなく「相手にどう受け取られたか」ということだ。「自分は善意で言ったのだ」と弁解しても、もはや取り返しはつかないこともある。裏を返せば、言われたその人が「この人は自分に寄り添ってくれている」と思うことが出来たなら、「頑張れ」というようなポジティブなアドバイスも受けいれられるかもしれない。

 だから結局は、ポジティブに考えるにしても苦しみやつらさといったネガティブなところに対する感受性は大切だと感じる。

 

『ショパン全書簡 第一巻』についてすごくざっくり

 

 『ショパン全書簡 第一巻(ワルシャワ時代)』を借りてきました。買うのはいつか絶対買うのだけど、まだ自分が手を出すには早い気がして手が出ません。なにがすごいかって、情報量も信憑性も読みやすさも半端じゃないです(語彙力)

 ひとことで言ったら、最強のショパン本です。ピアニズムというだけでなくて、人となり、思想、何を見て、何を感じて、どう生きたのか、というようなことを知りたいと思ったとき、この本ほど頼りになる本はありません。そしてなにより面白い。

 すこし関心のある方には知られた話ですが、既存のショパンの書簡に関しては信憑性が疑問視される部分もありました。過去にでた書簡集は、伝記作家、出版者、編集者、引用者、あらゆる人の手をとおるあいだに恣意的に改変されることもあったんですね。たとえば、青年ショパンが療養先から家族に向けて書いた「シャファルニャ通信(当時ワルシャワで読まれていた新聞を模した、ショパンの遊び心にあふれた手紙です)」のなかで「ユダヤ人」に関する記述が削除された可能性がある(というかほとんど黒……)ことが指摘されていることは有名です。ショパン亡きあと、ショパンポーランドの民族性の象徴とされました。そのため、ショパンユダヤ人やユダヤ文化との接点を覆い隠そうという意図が働いたのではないか、と言われています。

 長年ショパンに関する伝記がこの問題にぶつかっていたなかで、風穴を開ける一冊です。しかもさらに進んで、ショパンが手紙に込めたすべてを読み解こうという強い意欲を感じる一冊です。人物はもちろん、語彙に関してもいちいち注がついています。たとえば、ショパンがある手紙で「この店で楽譜を買ってください」となどと書いていると、その店は誰が経営していて、どこにあっていついつ移転して……ということが書いてあります。ほんとうに素晴らしいし面白い。

 少しずつ読んでいますが、やはり印象に残るのは家族宛の手紙のなかのこの一文です。

 ただ、僕の弾き方が弱かった、というより、叩きつけるようなピアノ演奏に慣れたドイツ人にはあまりに繊細過ぎるというのが大方の意見です。ある編集者の娘などが楽器を恐ろしく殴りつけていることを考えると、〔僕の弾き方に対する〕そういう非難が新聞にも書かれるだろうと覚悟はしています。別にかまいません。不満が一つもないというようなことはありえないし、弾き方が強すぎると言われるくらいなら、むしろ弱いと言われた方が、僕はいい (p. 251)

 ショパンのピアノ演奏に対する根本的な考え方と、聴衆が望んだ叩きつけるようなスタイルの違いがよく現れていると思います。このとき演奏したロンド・ア・ラ・クラコヴィアクは管弦楽付きの演奏会向けに作られた作品、そうした作品を演奏する場合でさえ繊細過ぎると考えられていたんですね。もちろんこの箇所だけでは分かりませんが、それはおおむね全体を通じて一致しているように思います(その弾き方ゆえに女性に気に入られたりもしているのですが)。

 少し余計な話をしてしまいました。この本、ポーランド語の原著は2017年にワルシャワ大学出版会から第2巻(パリ時代)が出ているようなので、こちらも翻訳が待たれます。第1巻は外国語最初の翻訳はこの日本語版でしたし、第2巻も待ち遠しいです。

 そんなわけで、引き続き第1巻を読み進めています。

今日の夢

 部屋のクローゼットでセミが鳴いている。蛾が飛んでいる。わたしはあわてて虫取り網を探すけれど、どこにもない。追い出せないと思ったわたしは、部屋のドアを閉めた。

 インターホンがなり、玄関へ向かう。脇の棚に貝殻のような模様をしたプラスチックのおもちゃがおいてある。いたずらかと思い閉めようとすると、ドアに足が挟まれ、小池都知事が顔を覗かせた。選挙で回っている候補者の応援をしているらしい。

 小池氏は、A3版のアンケート用紙を差し出して、「これにサインして」という。回答などがすべて書いてある。「まずいのでは?」と思い迷っていると、うしろから背の高い女性が顔を覗かせた。この藤色の変なドレスを着ているのが候補者本人らしい。「このあたりの会議所も行ってきたんですよ」と言うので「そうですか」と答えたが、内心では「普段来ないくせに」と思う。

 しかたがないのでサインをすると、彼女たちは立ち去っていった。去り際に「ちょっとおしり触らないでよー」という笑い声が聞こえる。なんとも子どもっぽいところもあるではないか、と思った。廊下には子どもの遊ぶ声が響き渡っていた。

好きなものについて話すこと

 よく「好きな小説家(作家)」なんて話が出ることがあるけれど、これが悩ましいのだ。今回は本の話をするけれど、音楽でもなんでも同じことだ。

 「どう答えるべきか」という問題がある。何が求められているのか。正直にマイナーな作家の名前をあげて微妙な空気にするか、うそでもメジャーな作家の名前をあげるべきか、ということだ。森類と答えるべきか? たった一度「秘密」を読んだだけでも東野圭吾と答えるべきか?

 問題は、東野圭吾と答えて相手が東野ファンだったら、わたしは何も語ることが出来ないということだ。そうなればウソつき認定をいただくのは間違いがない。ならばそんな土俵に立たずに他の作家を挙げればよいのではと思うが、ほんとうに最近誰もが知るような人の本を読んだことがない。最近読んだのは「戦国時代と分国法」で、勝手に出撃する家臣に頭を抱える戦国大名の姿などが想像できる面白い本なのだけど、じゃあ戦国時代が好きなんですかというとまったく詳しくない。これはにわか趣味でしかない。器用貧乏そのものだ。ほんとうに好きな人には遠く及ばず、関心の無い人からはオタクとみられる。音楽にしてもそうだ。

 そもそも、無数の作家がいるのに好みが一致するわけがない。だから「好きな作家」を尋ねるのなら、知らないものを教えあうくらいの気持ちで聞いてほしいのだが、そこまで覚悟して突っ込んでくる人は多くはない。たいていはなんとなしに、「本読むんだ、どんな人を読むの?」というような、何気ない好奇心なのだ。だがその好奇心がどのような結果を招くか。たとえば「森類です」などと言ったらどうなるだろう。わたしに対する評価が急落するとは言わずとも高まることはないだろう。「え~? 知らないと思いますよ~?」などとクッションを入れるのは小賢しいうえに、「やっぱり知らなかった」としかならない。もちろん、知らない世界を知りたいという気持ちがあるのならいい。だが、一致することを求めてこの質問をするのはあまりにも危ない橋だとわたしは思うのだ。

 さらに、この知的な話題はすごく難しいことだ。何かについて語るということは立派なアウトプットであり、自分の理解と無理解をさらけだすということだ。これは書評を読むとすごく分かる。要約は的確にされているか、筆者の主張をどうとらえているか、どう引用しているか、ありとあらゆるところで読解力が野ざらしになる。しかも頭の良さ悪さだけでなく心……人間性まで見えてくることさえある。たとえば筆者の主張をねじ曲げて自説の主張のために我田引水するような読み方は、読書の不誠実さどころかその人の愚かさすらも詳らかにしてしまう。ほんとうに恐ろしいことだ。だからわたしは、その恐ろしさのうえで踊り狂いながら自分の愚かさをさらけ出して、自分の好きなものの話をしている。我ながら、なんともけなげな覚悟ではないか。

カツ丼

 カツ丼を見ると、中学校の遠足(?)のことを思い出す。鎌倉に行った。スキー用の手袋をしていったのに、指先までしびれるほど寒かった。北鎌倉駅から隧道を通り、建長寺へ行ったと思う。それから鶴岡八幡宮へ行き、江ノ電高徳院の大仏を見に行った。このあたりはもう覚えていない。というか、もう班の仲間が誰だったかすら覚えていない。

 ただ高徳院の駅のそばでカツ丼を食べたのははっきり覚えている。店主のおじいさんがひとりで注文をとっていた。そのお店には鎌倉丼といういかにも観光客向けのメニューもあってそれを頼んでいた子も多かったのに、なぜかわたしはカツ丼を頼んだ。体の芯まで冷え切っていたので、特別美味しく感じた。

 わたしは根っからの貧乏性で、わずかなおかずでご飯を食べる習性が身についてしまっている。カツ丼を頼むと必ずカツが三切れ四切れと余る。ヒレカツなら2つくらい余る。だけどそのときだけはカツは余らなかった。

 それから何度も鎌倉を訪れた。遠足のつぎに訪れたのは高校生のときで、当時行けなかった建長寺裏のハイキングコースを歩き、鎌倉文学館などを訪れた。そのときはカツ丼の店のことなどすっかり忘れていたのだけど、25歳くらいになってふと思い出した。あの頃から10年が経っていた。縁結びで知られるらしい葛原岡神社などひとけの少ない山道を歩き続け、山の方から高徳院へおりていったのだが、カツ丼の店は無くなっていた。かわりに見慣れない横文字っぽいオシャレスイーツのお店やらアクセサリーの店やら(?)が出来ていた。けれど土産物屋と大仏だけは相変わらず存在感を示していて、なぜか安心した。

アニメ「ドメスティックな彼女」

 自省は大切だ、と思わぬところで教わった。映画やドラマ、アニメを見ていると「こいつバカだなあ(汚い言葉で失礼)」と思う瞬間があるけれど、そこで思考を切り捨てないで、「じゃあ視聴者であるこの自分はどうなのか?」と考えてみると、さらに物語は面白くなる。

 「ドメスティックな彼女」というアニメを、わたしは最初ただの昼ドラだと思ってバカにしていた。高校生の主人公が密かに思いを寄せていた先生と、ひょんなことから一度限りの関係をつくった女子高生が姉妹で、父親の再婚を機に姉妹とひとつ屋根の下で暮らすことになった、という荒唐無稽な前提はさておく。その姉妹の二人はもちろん、他の女の子たちもひょんなイベントによって主人公に好意を寄せているという、主人公補正もどうでもいい。

 問題は、主人公の愚かさだ。自分が好きだった先生(姉)には恋人がいて、しかもその人は不倫恋愛だった。そこで主人公は妹とともに浮気相手の男を問い詰める。この浮気相手の対応がまあ酷いのだけれど、ともかく、主人公は「浮気なんてなに考えてるんだ!」と浮気相手を責める。それは先生を”アイツ”の手から取り返したいという気持ちであったり、浮気は許されないという正義感でもあっただろう。

 それから数話進むと話がなんだか変になってきて、主人公は先生が好きなのだけど、その妹(最初に関係を作っている)やら他の女の子やらにも気を引かれ、そのあいだをさまよいながら姉妹の両方ともそれなりの関係に進んでしまう。視聴者からすれば「いやいや、キミ数話前であんなに浮気を糾弾してたやないかい!」というお話だろう。男目線で見ても、女目線で見ても肯定しようがない。彼は自分の行いを顧みて、自己嫌悪に陥るのだろうか。

 正直こうした展開自体は「あぁ、よくあるドロドロだなー」と感じるしあまり興味がない(いや、そこを楽しむアニメだと思うのですが)。むしろ主人公の「こうあるべき」という理想に対する若さゆえの妄信、そしてその理想とは裏腹に自分が手を汚してしまうという現実、この落差がとても人間らしいと感じた。とはいえ、人間らしいからと言って、こんな他人を侮辱するような行動はとうてい共感できないのだけど。自分の言動と行動がどうか、という自省を欠くと、自分の知らないうちに最低な行動をとってしまうものなのかもしれない……と恐ろしくなった。

日常にちょっとした変化をもたらすこと

 日常にちょっとした変化をもたらすこと。それは誰にも理解されないわたしの楽しみでもある。レストランの注文のように、世のなかには決まりきった「流れ」というものがある。そしてわたしたちはそれを嫌というほど知り尽くしている。店員に対して被せ気味に返事をすることなど、その最たる例だ。「いらっしゃいませ。何名さ」「ひとり」「おたば」「吸わないです」という具合だ。おそらくこの店員が何を言おうとしていたか、これだけでほとんどの人には分かるだろう。

 以前にモスバーガーのレジの話で書いたのだけど、これだけ会話の型が決まりきっていると、ほとんどの部分は機械でも出来るのではないかという気がしてくる。某ラーメン屋などがそれで、店舗全体の空席を示すインジケーターが入り口すぐにあって、客はそれを見て空席に勝手に行く(混雑時は店員が割り振るが)。わたしなどはそれを見てブロイラーの鶏になった気分になるのだけど。

 人間の機械化とでも言おうか。これは使い古された話でもあると思うが、それは客と店員どちらにとっても便利だ。だがその一方で、店員の彼らは本当に人間なのかと思ったりもする。だからわたしは彼らが人間であると知るととても楽しくなる。

 たとえば、カフェで店員同士が雑談をしているのなどがよい。男性の店員1人と女性の店員2人がいる。みな20代くらいだ。そしてこの女性の一人と男性が仲が良いらしく、ずっと喋っている。人間関係が垣間見えて面白い(だがテーブルを拭いたりはしてほしかった。経営者からすれば彼・彼女がイチャつくのは怠慢に他ならないし、穏やかではない話かもしれない)。

 あるいは、夜11時ごろに閉店間際のカフェを訪れたとき、メガネをかけたおとなしそうな男性店員がモップを持ちだして、「あいつすっぽかしやがった、ッざけんなよ!」などと言いながら厨房に入っていったのも面白かった。ふつうの人だったら評価を下げるだろうしわたしも評価は下げるが、人間らしさが見えるという点だけでいえば面白い。

 ただ職務に対して人間らしさの度合いが行き過ぎると、某企業の問題のようになる。予測可能性が成り立たないとはまさにこのことで、「この私の食べるパスタのトマトは、彼が今しがた口に入れて吐き出したものではないか」など、すべての店員を疑わなければならなくなる。ある仕事を「誰でも出来ること」がそのまま危機に直結する。それは恐ろしいので、そこまでの破綻は望まない。あくまでも表面上は形式を守りつつ、その裏で形式から逸脱する、というのがよい。勤勉でありながら、裏ではちょっとだけ怠惰でもある。それくらいの塩梅がいい。

 そしてこうした話とは別に、雑談というものがある。これは決まりきった型にもさまざまなパターンがある会話で、「いい天気ですね」あたりから入る軽やかな会話で、わたしはあまり得意ではない。けれどたまにその人の考え方が分かる質問を入れてみたりする。「うさぎとカメ、どちらが好きか?」などだ。これも、日常のちょっとした変化、遊びということになるだろう。

 このような具合で、他人に対する興味は尽きないものだ。