もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

オルゴールを鳴らすまで(動画はない)

 前回は説明書の一切ないところからオルゴールを組み立てるまでを書いたのだが、それから譜面を作ってみたので記録しておく。

 ちなみに私が購入したのはこのムーブメント。中国製の30音(一応参考までに)。

  で、まず困ったのは付属のシートにある音名と実際の音が違うということ。このズレでなにが困るかと言うと、音域のなかで作ったつもりが高低はみ出たり、半音が鳴らないということになってくる。

 付属のシートでは最低音がC(ド)と印字されているが、実際にはF(ファ)から始まる。また完全に半音階と言うわけでもない。このオルゴールの実際の音域と音階は以下の通り。

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オルゴールの音域、音階

 実際にはオクターブ高くなるのかな? そこはいい感じになるように修正して頂くということで……。半音階が使えるのはF4-F6の2オクターブ(第1線から上第3線)だけで、それもF4-F5は完全ではない。

 で、このなかで音が鳴るように、Musescoreで譜面を作ってみた。

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ショパン作曲、夜想曲第2番

 まず、音域を最大限に使うために変ロ長調にした。どちらかを合わせて妥協しようと思ったけれど、最高音と最低音が一致してくれるなんて! 8分の3拍子なのは、「楽々オルガニート」で読み込めるようにするため。(これを書いている時点で)8分の12拍子には対応していないので、エラーになってしまう。

 あとは、音をなるべく削る作業に苦労した。強弱があるわけではないので、伴奏がガチャガチャしているとメロディが聞き取れないし、たぶんモーターにも負担がかかって再生できなくなったりする。基本的にはメロディを響かせるように音を選んだつもりではある。

 で、これをMIDI形式で書きだし、「楽々オルガニート」で読み込んでなんだかんだ調節して、譜面シートを印刷。そしてカッターで裁断して、そのとおり穴をあけていった。そしてこのツイート。

 実際にはすごく雑で、弱起の設定を忘れてシートの小節線とずれてしまったり、つなぎ目はセロテープでくっつけただけだったりという問題はあるのだけど、一音も欠かさず(たぶん)、鳴るにはなったので大感動した。あとになって、ターンの部分(5連符の部分、実際の譜面には反映させなかった)も鳴るのではないかと思ったので、作ってみたい。

 ちゃんと箱を作って、動画を撮る技術を導入出来たら、動画にしたい……。

シート式オルゴールを組み立ててみた

 シート式オルゴール(オルガニートとも)を工作してみた。30弁の電動タイプのオルゴールに、モーターのスピードコントローラーを装着しただけの工作ではあるのだけど、実際に動いた瞬間はさすがに興奮した。

 シート式オルゴールというのは、譜面となる穴の開いた紙を読み込ませて再生するオルゴールのことで、譜面を自作して演奏できるという、最高のおもちゃ、あるいは楽器である。そして白鍵2オクターブ少しの20音タイプと、半音もいくつか含めた30音タイプ(あるいは33音)がある。半音が加わることで表現の幅が広がるのはもちろん、価格もぐんと高くなる。

なにがたのしいか(宣伝)

  • オルゴールの音色が落ち着く
  • 自分で好きな曲を再生できる!
  • 自分でつくった曲が音になる!
  • 手回しではなく電動なのでラク

用意したもの

  • ムーブメント(本体)
  • 電池ケース(単3×3)
  • 単3電池3本
  • PWMモータースピードコントローラー

 モータースピードコントローラー以外はアマゾンで調達。モータースピードコントローラーは別の店から取り寄せた。ムーブメントが約5000円、すべて含めて6000円程度(送料等含む)。

下調べ

 私は以前からこのオルゴールの存在は知っていたのだが、価格がネックで買えずにいた。どうせなら33弁が欲しい。だけれども33弁は3万円ほどだった。一から手作りされているとのことで当然の価格なのだけど、私は裕福でもないので、ちょっと手が出せなかった。

 それでつい最近それを思い出してアマゾンを覗いてみたところ、30弁のものが5000円以下で出ていた。安い。が、買ってみてビックリ。ムーブメント(本体)だけで木箱もなにもないのは知っていたのだが、説明書も何もない。モーターから銅線が丸出しになっている。「あとは自分でやれ」と言うことらしい。

 それで、電子工作などやったこともないのだけど仕方がない、いっちょやってみるか、と思って、届いた翌日に部品を買いに走った。

買うまで

 図面もくそもない。とりあえず、電源を電池にすることにした。ACアダプターが同梱されていたのだが、コンセントから電源をとるのでは持ち運びが面倒になるのは必至。また、再生速度を多少操作したかったので、DCモータースピードコントローラーをつけることにした。これはつまみがついていて、それを回すことでモーターの速度をコントロールできる。

 電池は単3電池3本で4.5V、それに対応した低電圧のPWMモータースピードコントローラーを用意した。コロナの騒動で中国から部品が入ってこないとのことで、国内のセレクトショップから取り寄せたので200円高くなった。こうした電子部品関係では影響が大きいだろうなと、改めて実感した。また電池ケースはアマゾンよりも秋葉原のほうが破格に安かった。アマゾンでは300円近くしたけれど、電子部品の店では100円以下で売っていた。定期券が利くので交通費も無し。足を使う大切さを知った(笑)

動かした

 で、あとはこれをはんだでつなげるだけの簡単なお仕事ではあった。あとは適当に穴をあけた試作の譜面を作り、試奏する。電池をセットし、感電しないようにビビりながら、つまみを回す。少し回したところでモーターが動きだし、紙を読み込む。おおっ、動いた、鳴った! 手回し式でも楽しいのは間違いがないが、やはりモーターで回すほうが楽だ。

 そんなこんなで、あとはこれを入れる箱を何とかしたいのと、絶縁すべきかどうか。モータースピードコントローラーの基盤が丸出しなので、素人的には感電が怖いのだ。

 箱については、小物入れの木箱に、譜面を通す穴をあけないといけない。それはシートがぴったり入る幅で、しかもオルゴールの読み込み口にぴったり一致しなければいけない。もちろん、紙の出口も同じことで、とくに箱のなかで詰まってしまうと間違いなくシートを破損するから、間違えるわけにはいかない。これが素人にはちょっとハードルが高い。どうしたものだろうか。

コーヒー

 いつの間にかコーヒーが飲めるようになっていた。砂糖なしのコーヒー。他人からすれば「あっそ」という話に違いないけれども、これは私のなかでは革命に等しい出来事だった。つまり、それまで「私」だと思って疑わなかったものが、じつは違うなにかになっていたということなのだ。よく、「人間の細胞は絶えず入れ替わっていて、数カ月で全てが入れ替わっている」などと言う話はいるけれど、それでも自分は自分だと思っていた。

 私にとってブラックコーヒーは「大人」の象徴であり、私には関係のないものだと思ってきた。あんなに苦いものを飲めるはずがないと思ってきた。この確信の強さは、おそらく他の人には分からないほどに、強固なものだった。

 だからこそ、何気なく出されたコーヒーを不味さも感じずにいる自分がいることに気がついたとき、私の空っぽの脳みそにひとつのクエスチョンマークが浮かび、それから「歳をとったのだ」という実感と、それに対する戸惑いと悲しみが、ゆっくりとやってきた。

 コーヒーの苦味は、人々に人生や恋愛のほろ苦さを連想させる。けれど、やがては、その苦味すら感じなくなってゆくのではないか。悪魔のように真っ黒な、地獄のように熱いコーヒーさえ、何とも思わないようになるのではないか。

 そんな不安をかき消すように、カフェオレに大量のはちみつを入れて、飲み干した。

K先生

 人にはいろいろな思いやりのかたちがある、ということが分かったのは、意外と最近のことかもしれない。

 小学校のときに、Kという先生がいた。私が小学1年生のときに3年生の先生だったか、とにかく「上の学年の先生」として覚えていて、ほとんど関わることはなかった。その見た目は「クレヨンしんちゃん」の組長……ではなく園長先生そっくりで、髪形もメガネもよく似ていたから、当時から「園長先生だなあ」と思っていた。ただ、ハキハキしていてはっきりものを言う先生だったから、引っ込み思案の私にとっては怖い先生でもあった。

 あるとき、遠足で葛西臨海公園へ行くことになった。関東では珍しくもない。

 その日は朝から雨が降っていて、私はとても気が重かった。私はずっと電車が好きだったし、バスのにおいが大嫌いだった。朝7時、雨のなか100人以上の児童と教員や保護者らは小学校を出て、バスが待っている大きな道路へ向かった。足取りが重たかったのをよく覚えている。

 私は何を思ったか、小学校を出る前にかっぱを着ていた。傘をさすのが面倒臭かったのかもしれない。けれども、バスに着いたらかっぱは必要なくなる。かっぱを脱いで、しまわなければいけない。かっぱを器用にちいさく畳んでカバンにしまうのは、大人でもなかなか難儀する。小学1,2年生の私に出来るはずはなかった。

 それで、見つからないようにと願いながら、かっぱを着たままバスに乗りこみ、最前列の補助席に座った。そして目の前にK先生がやってきて、バスは出発した。

 高速道路のカーブのところだったから、おそらく出発してから10分から15分くらいは経っていただろう。どんな話の流れだったかは思い出せないのだけど、K先生が「かっぱなんて着てるやついねぇだろうな!」と言った。

 私は顔を真っ赤にして、目のまえに縮こまっていた。

 「おい、目の前にいるじゃねぇか!」

 そうK先生が言うと、バスのあちこちからひそひそと笑い声が聞こえた。

 ……と、これは自分にとって長いあいだ思いだすのも恥ずかしい記憶だった。けれど、最近思い出したのだけども、K先生はそのあとなんだかんだ言いながらも、かっぱをたたんでくれたのだ。当時の私は「いやだいやだ」と思っていたから、そのあとのほとんど記憶は無いのだけど、そのままバスは葛西臨海公園に着いた。そしてそこの浜辺で鳩が私の卵焼きをついばんだことも忘れられない。追い払う度胸がなかった。

 とにかく踏んだり蹴ったりの遠足だったから、当時の記憶のなかでもより早く薄れてしまったのかもしれない。ただ、今思い返すと、あれはK先生なりの優しさだったのだなあと、しみじみと思う。こういうふうに、10年20年と経ってから物事の見え方が変わるということがたびたびあるので、生きることはなかなか楽しいものだなあ、と感じている。

鼻うがいを始めてみたのでメモ

 ※個人的なメモです

 頭重感(ずおもかん)対策の一環として、鼻うがいを始めてみた。どうも鼻の奥から重たい感じがしていたので、気持ち的に楽になるだろうと思ってやってみたところ、なかなかいい感じだった。0.9%の食塩を混ぜたぬるま湯を使ったところ、痛みもまったくなかった。

 ただ、鼻うがいのの効果とリスクについては、ネットで耳鼻科のサイトを調べたところ、賛否両論見受けられる。印象としては推奨が多数、非推奨がかなり少数というところ。

 鼻うがいをする場合の注意点としては、(1)使用する水と容器は清潔なものを使用すること、(2)鼻うがい後は鼻を強くかまないこと、(3)鼻うがいをやりすぎないこと、あたりだろうか。

 とくに(1)水と容器に関しては、「水道水を使っていいのか?」という点でネットでも様々な情報があって困った。とくに「死に至る危険があるんです! なので専用の商品を買ったほうがいいです!」と、不安をあおる商売のにおいがプンプンするような記事も見受けられるのにはため息が出る(個人の感想です)。

 話がそれた。で、そうした脅迫的健康商法のいう「死に至る危険」とは何かというと、塩素消毒済みの水道水で鼻うがいをした人がアメーバによる脳炎を引き起こして亡くなった事例が、米国で2件報告されているというもの (PMID: 22919000)*1。こうしたことを受けてFDAアメリカ食品医薬品局)も消費者向けに蒸留水、滅菌水、いちど煮沸した水を使用することを薦めている*2

 こうした情報を見たうえで、あくまでも私個人の判断だけれども、水道水中にこのアメーバが混入しているリスクはごくわずかではあるけれども、リスクとして認識はしておく必要はあるのだろうと思う。万全を期すなら、上記のように処理をした水を使用すべきだろう。ただ私は、水道水のノズルの清潔、そして容器の清潔のほうに気をつけたい。

 で、さらに言うのなら、鼻うがいのリスクとベネフィットについてはさまざまな文献があるようなので、だれかが紹介してくれたらいいなーと思っている。これは検索結果があやふやな情報ばかりだったのでやむなく無能な自分がググった痕跡です。

*1:ほか、滅菌されていない水での鼻うがい、また鼻うがいではないものの水道水によるとみられる原発性アメーバ性髄膜脳炎で死亡したケースは複数あるようだ。詳しい話は詳しい人に教えて頂きたい……。

*2:Is Rinsing Your Sinuses With Neti Pots Safe? | FDA

パーティーにやってきた酔っぱらい

 うろ覚えなのだけど、ポピュリズムはパーティーにやってきた酔っぱらい客のようなものである、という旨の言葉を思い出す。ただそれを思い出したきっかけは、ポピュリズムの話ではなくてもっと低次元での出来事だ。

 ここでいう「パーティーにやってきた酔っぱらい客」というのは、招かれざる客でありながら、周囲の人びとが抱えている「言いたいけど言えないこと」を言ってくれる存在ということだ。言いたいけど言えないことというのは誰にでもある。並んでいた行列に割り込まれて「ふざけんな!!」と思いながらも言えないかもしれないし、店員から粗雑な対応を受けてもそれを指摘することはできないかもしれない。じつは不満を上手に発散することは必要なことなのだろうが、悪い人(クレーマーなど)に見られたくないがゆえにそれも出来ない、というところに葛藤が生じる。

 ちょうど先日そんなことと考えさせられる経験をした。

 街を歩いていたら、後ろから、男の悲鳴にも近い叫び声がした。よく聞くと、「歩きスマホはやめろっ!」と叫んでいるらしかった。私はそのおじさんの周りの人を観察してみた。すると彼の叫び声は明らかに効果があったとみえて、彼の周囲だけスマホを引っ込める人がちらほらいたのだ。

 そのおじさんは、周囲から自分が異常者であると見られることと引き換えに、自分の周囲だけとはいえ、自分の満足する秩序をいくらかは取り戻した。だが彼はそれでも満足しなかったようで、「歩きスマホはやめろっ!」と叫びながら去っていった。

 彼のように、自分のなかにある「世界のルール」に他人を従えようとする行動力を持っていたら、どんなにいいことだろう。通勤ラッシュに身を投じる戦士たちは、歩きスマホがいかに邪魔であるかを日々知っている。彼のように怒りをあらわにすることはなくても、本当は彼のように「歩きスマホはやめろっ!」と怒鳴り散らしてやりたいと思っている人もいるはずだ。そして私の印象では、怒鳴り散らすおじさんの存在は「歩きスマホはやめましょう」というポスターよりも歩きスマホをやめさせる力があったと思う。

 もちろん、これはパーティーにやってきた、招かれざる酔っ払い客なのだ。その酔っ払い客は作法は極めて不適切で礼儀もへったくれもない。だけどもその言うことは少なからぬ人びとが心に秘めている不満(本音)を代弁していて、その行動力はたしかに宣言どおりの成果を挙げた。もっとも、社会というパーティーが酔っ払いだらけになってしまうというのは、考えるだけでも恐ろしいことではあるのだけど。

「交通事故はなぜなくならないか」

 いつも(というほど書いてないが)の誤読メモ。

 自動車の交通事故について、リスク・ホメオスタシス理論 (Risk Homeostasis Theory : RHT) という考え方があるという。誇張して言えば、安全対策をしても、そのぶんだけ人びとは油断して危険な行動をとるから、無意味だよね、という話だ。もちろんこれは誤解で、実際にこういう誤解から「不幸保存の法則」などと揶揄する専門家もいたようだ。実際にはこんな単純な話ではない。

 ともすれば、人は「交通事故に対して法律や工学的なアプローチで解決するだろう」と考えてしまいがちではある。危険運転を厳罰化しろとか取り締まりを強化しろだとか、車体を強化しろとかエアバッグをつけろだとか。

 ところがリスク・ホメオスタシス理論は、巨視的なレベルで見ると、それらはさほど効果がないか、逆効果になりうるということを指摘している。素人目にはちょっと驚く話だ。え、じゃあ事故対策って意味ないやんけ、っていう。

 リスク・ホメオスタシス理論は、運転行動において人びとは、個々の内面にあるリスクの許容水準のなかで、利潤を最大化しようとする(リスク最適化)と考える。危険な運転をする損得と、安全な運転をする損得を考え、それが均衡する許容水準に合わせようとする。

 ざっくり言えば、かっ飛ばして事故を起こす(またそのことで罰金を科されたり免許停止になる)危険と、早く到着できるという利益などがある。事故は避けたいが早く到着したい。ここで大切なのは、人はそれを比較したうえで、リスクを減らそうとするのではなく、許容水準に近づけるかたちで最適化を図ろうとする

 リスクを減らすのと最適化するのは、似ているようでまったく違う。従来の事故対策が施行されると、人びとの主観的なリスク評価は下がる。だがリスクの許容水準が変わったわけではなく、リスクの評価と許容水準の差は広がることになる。そこで、この広がった差を埋め合わせるかのように、人はそれまでよりもリスキーな行動を選びやすくなる、という。これが、最初に述べた「安全対策をしても、それだけ危険な行動が増える」ということだ。

 内容だけかいつまめば、おおよそこういう話になる。

 ふつうの人は「危険運転に対する罰則を強化しました、人が目の前にいるときに自動でブレーキをかけるようにしました、これで事故は防げる!」と考えてしまうけれど(そんな能天気はいないか)、リスク・ホメオスタシス理論は「ちょっと待てよ、それは人びとの安全運転に対する動機付けになっているのか?」と問いかける。

 じゃあ、どのように対策したらいいのか?

 著者が交通事故対策のアプローチとして指摘するのは、人びとが「受け入れよう」と思うリスク許容水準を下げることだ。先に書いたように、法律や工学的な事故対策をしてリスク評価を下げたところで、人びとはそれを埋め合わせるようにリスキーな行動をとりかねない。ならば、許容水準自体を下げてしまえばいい。要するに、安全運転への動機づけで、それも懲罰ではないほうがいい。小さなアメは大きなムチに勝る、というわけだ。人びとの行動を動機付け、自然と人の行動を安全な方向に誘導するように、制度的なデザインが求められるということだろうと思う。思えば、「シンプルな政府」という本でもそういう話があった。強制力をもって規制するのではなく、人びとの行動があくまでも自発的に望ましい方向になるようにデザインするのだと(ナッジ。肘で押す、という意味らしい)。けれど、リスク・ホメオスタシス理論は80年代に唱えられているからかなり早いと言えるだろうか? 当時の論調を知らないので分からないけれど。

 いずれにせよ、このように人間心理に注目した対策を実現するには、事故対策を根本から見直すことが必要で、でも政府はそこまで交通事故対策に入れ込んでやろうとはしないよねー(雑)みたいな話で終わる。

 人びとの意識に注目するこの考え方がどれくらい実証されているのかは私ごときには分からないけれど、その意外な切り口を面白く思いながら読んだ。

 

交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学

交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学