もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

散歩という変な趣味について

 散歩というのも、変な趣味だと思う。一日中ただ歩くだけ。距離にして10Kmから20Kmくらいは毎回歩いている。例えばある一日。

  • 朝起きて、ベランダに出たら、青空と暖かい風が気持ちよかった
  • こんなにいい天気だったら、善福寺公園の池に行ったらいいだろうなあ、と思う
  • 地下鉄路線図の端っこの地下鉄成増駅から歩こうと決める(約10Km)
  • メシは現地調達(コンビニは不可)
  • 善福寺公園に着いたら、もっと行ける気がしてきたので、新宿に行くことにした(10Km以上)
  • 着いたら夕方になったので、電車に乗って帰宅
  • その夜よく眠れる

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ある一日

 という具合だ。自宅から出発することもあるが、基本的にはその日の気分で出発地と目的地を決めて、なんとなく歩いて、なんとなく帰ってくる。ただ出発地や目的地はどこでもいいというわけではなくて、なんとなく「今日はこの場所ならよさそうだな」という気分がある。それも実際の経験などに基づくものではなくて、その場所の風景を自分勝手に想像しているのだ。行ったことがない場所でも、そこにいる自分を想像するのだ。

 こういうわけだから、自分の想像と違う散歩になることもある。つまり「ここなら今日は気持ちいい風が吹いているだろうなー」と思っても、実際行ってみたらはめちゃくちゃ寒くて鼻水を垂らしながら帰ってきた、ということも珍しくない。

 その予測不可能なところも、散歩の楽しみのひとつだ。目的地などあってないようなもので、ただ歩くこと自体が目的なのだ。場所にこだわりはない。しかしある。まったく変な趣味なのである。

 この散歩は、まず恐ろしいほど暇でないと成り立たない。体力がないと成り立たない。これといった充足感もない。ただ一つ楽しいのは、普段電車で何気なく通り過ぎる街と街が「道」というもので繋がっているという、ごく当たり前の事実を実感することだ。知っていることを、実際に感じる。このときの感動は、やはり歩いた人でないと分からないだろう……と、20.5Kmの散歩が無意味ではなかったと信じたい私は書かざるを得ない。

 ――蛇足だが、実際のルートは画像のルートよりも細道を歩いたりしている。近隣の方ならご承知だろうが、これといって変わり映えのしない街並みであると言わざるを得ない。そして土地勘のある人ならば、このルートを歩く私がいかに暇人かが分かるだろう。ほとんどは住宅街、新宿付近は低層から超高層のビルだらけである。それでも、ただ歩いているうちに荻窪付近には暗渠を埋め立てた緑道があったり、おしゃれなカフェがあったりして面白いものだ。通りすぎながら料理教室がやっているのをちらっと見て、「ああ、こんな場所でも人が生活しているのだなあ」と思ったりするのも楽しい。そして地図上にある「吉祥天」は、私が行こうと決めていた、それなりに有名な饅頭屋である。実はこの散歩には、(主目的ではないが)目的があったのである。

今日の夢

 祖母の家の屋根裏から外に逃げ出す夢。私は仕事でパソコンの初期設定かなにかをしているが、どうにもソフトのインストールができない。普通ならディスクを入れればスムーズに進むはずが、出来ない。それを責められた私は脱走を決意する。階段を上がり、二階の小部屋から屋根裏にあがって、隅の方をばりばりと剥がすと、外に出られた。しかしすぐに見つかってしまった。家に戻った私を、上司(現実とは違うが、そう認識している)が優しい笑顔で待っている。

 その家の居間で、女性が糸の球をひたすら回している。ハサミの切れ味が悪く、切れないのだと言う。私も試してみたが、せいぜい頑張っても繊維がバラバラになるだけで切れない。小さな棚をひっくり返して青い柄のハサミを見つけた。それで切ったら切れた。

 屋根裏に上がろうとするが、今度はさらにその上があるらしい。押し入れから短いはしごを探して、天井裏に掛ける。天井に掛かっているだけで地面についていないから上れるはずもないのだが、なんとか上る。その先は狭い空間で、神棚のようなものの先に天井裏の入り口があり、これが板で封じられている。私はそこに頭を突っ込んで、突き破る。家の外で、鎧をまとった子どもたちが騒いでいる。どうやらそういうイベントだったらしい。私は、この大掛かりなイベントは、この家を壊すようなものだから、二度とできない、と周りに宣言した。

 蔵にラップで包まれた肉がたくさんある。ここは歴史もののゲームの世界で、これは食材だと認識している。私はその一つを手に取り、フライパンを探す。棚は天井に備え付けてあり、高さ的に横からしか見えない。それらしきを手に取ったが、小さな取っ手の両手鍋だった。肉を焼くには蓋も欲しかったが、厨房からサーブするときにデザートに被せるような、ガラスの小さな蓋しかなかった。私は火をつけて、弱火にする。どこかから、今回のテーマはスープであると聞こえてきた。テーマと全然違うじゃないか、肉を焼くだけでいいのか、とも。何かを探して、意気揚々と厨房を後にした。

 制服をやめようか考えている。こんなものは所詮集団の迷信に過ぎないと上司が言う。作業時の室内の温度から言っても、それがいいのだ。そんな話をしているなかで、おばさま方が騒いでいる。そこに何かが落ちてきて、上司は怪我をした。目を腫らして、「ハサミが落ちてきた」と言う。刺さってはいないが危ないことだ、と思いながらも、上司が苦笑いしながらも仕事をしようとしているのを見ると、こんな(会社に対する)奉仕の精神は、私には持ち得ないものだな、とも思うのだった。

 ぼーっとしていると、向こうから大声で呼ばれた。マラソン大会が始まるという。走り出した私は、大学のゼッケンをつけて、トップからかなり遅れてスタートした。しかし、私は追いつけると確信しながら、目の前の選手たちをごぼう抜きにした。

打ち込み日記「行進曲」

 音楽に関することは別のブログに分けようかとも思ったのですが、音楽については大したことを書いていないということに気がついてしまい、結局ここに戻ってきました。

 以下、どうでもいい細かなお話です。一般に音楽を言葉で語るのは野暮だと言われるものですが、ここはわたしの日記ですし、そういう立派なものでもないので平然と語ります。(ここまでテンプレ文章)

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銀座の人混み

 土曜日に仕事で銀座(正確にはほとんど有楽町だが)を通ったのだが、人の多さにびっくりした。平時よりは明らかに少なかったが、それでも混雑していた。カフェやブティックなどは見事に三密となっていて、コロナ禍の見通しにも不安を感じざるを得ない光景だった(私にとっては)。

 正直に言えば、こういう行動をとる人たちがこれだけいるという現実は、私をいくらか厭世的にさせた。…………小難しい言葉でごまかそうとしたが、やめよう。本音を書けば「どいつもこいつもバカばっかりだ」と思っている。そしてその刃が自分にも刺さっていて苦しくもある。仕事だからと外出している私もまた、私が軽蔑する彼らと同じなのではないか。

 とはいえ、行楽に及ぶ彼らは、仕事や生活で「外出せざるを得ない人」では決してない。しかも三密という、最低限にして最も有効な対策さえも平然と破り捨て、堂々と街へ繰り出している。そしてまた彼らが恐ろしいのは、彼らが無関心であるということだと私は思っている。彼らは「自粛」要請への反対を主張して外出しているのではない。そもそも彼らは賛成―反対の判断すらしておらず、ただコロナ禍以前の過去の行動パターンを繰り返しているだけのように思える*1。それで身近な誰かが亡くなったところで、彼らは自責の念を持つだろうか。政治のせいだ、社会のせいだ、ウイルスのせいだ、病院のせいだと言うのではないだろうか。自分の行動が社会にどのような影響を与えるのかを想像できないのだろうか。

 もちろんこれは、一つのバイアスがかかっている。私が外に出れば、外に出ている人だけが見えてしまうのは当たり前だ。その裏には、コロナを恐れ、自分や身内をその猛威から守ろうと考える人たちが間違いなく居るが、それは見えないのだ。私自身も、仕事以外では外出しないようにしている。もっとも私の場合には、自分や他人を守るということと同時に、上記のような、自分の心を搔き乱す現実をもはや見たくないということもあるのだが。

 私は私自身にできることをやる、と思ってやってきた。けれど世の中はそれとは反対の方向に動いてきた。経済のためといい社会移動を増やし、さらにハンマーをためらい、ついに重症者が増え、死者が増え、ということになっている。既存の医療が圧迫されている。それはデータとしてもそうだし、私自身も聞いたりする。寛解しないなかで退院を余儀なくさせられたり、入院や手術が延期になった、というケースが出ている。それは治療の必要がないからそうなったのではなく、病床確保のためにせざる得ないからそうなったのである。

 しかし、街なかの人混みさえ見なければ、自宅にこもっていても楽しめることはたくさんある。読めていない本もたくさんある。それに、多くの人が私と同じかそれ以上の懸念を社会に対して抱いているということも思い起こさないといけない。孤独になると見えにくくなるけれど、実は私たちは無言の多数派なのかもしれない。見えてしまっているものだけが現実ではないと、いまは信じることにしよう。

*1:もちろん、コロナ禍の不安や孤独感の反動ではないかとか、いろいろ考えられるけれど。

目覚まし時計

 最近になって、目覚まし時計はアナログのほうがいいなと気がついた。とにかくアナログのほうがアラームの設定が楽なのだ。デジタルだとアラームを6時から17時に再設定するのはかなり面倒なのだけど、アナログならば1時間戻すだけで済む。片側にしか回せないタイプでも一周回すのはさほど苦労しない。その代わりにアナログ時計では午前午後の区別がないのだが(24時間計でもない限りは)、12時間以上寝ることなどまずないからあんまり関係がない。

 またアナログ時計の良さをあえて理屈っぽく考えるなら、時間を視覚的に把握できるというのも一つ挙げられるだろう。例えば9時から15時と言ったときに、アナログ時計ならパッと見て6時間だとすぐに分かる。あるいは長い時間だなとか短い時間だなというのも視覚的に分かる。

  デジタル時計は、現在の時刻を知るという点では優れているのだが、一日24時間を一区切りとする「時間」を見たり考えようと思ったときにはアナログ時計のほうが分かりやすいし、目覚ましとしてもアナログ時計のほうが設定がしやすく便利だと思う。

 さらに私の使っているデジタル時計の残念な点をいえば、ボタンの反応がかなり悪くなってしまっているところだ。アラームの時刻を設定しようとしても、力いっぱい押し込まないと反応しない。これではアラームの時刻を設定するだけでもかなり面倒だ。なんならアラームを止めるボタンの反応も悪い。横長のボタンで、両端を両方の親指でグッと押し込まないと反応しない。

 結局のところ、それは私が使っているデジタル時計が劣化しているというだけの話ではあるのだが、それでもアナログ時計のほうが私にとっては時計らしい感じがするし、アナログ時計のほうが「時間を刻んでいる」という感じがして好きなのは確かである。

 しかしこんなことに気がつくのに10年以上の時間を要して、最近になってハッと思いついたというのだから、まったく今日まで何をして生きてきたのかよく分からないなと、自分でも思ったりする。