もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

小さなブーメラン

 自分が年老いたときのためにブーメランを投げておこうと思う。

 年老いたわたしよ、くれぐれも過去の自慢話はしないことだ。若い人は、「今」のわたしの生きざまを見ている。立派に生きたのなら、若い人のほうからその自慢話について尋ねるだろう。過去の自慢話をしたところで、「今」のわたしが酷い体たらくならば、それは何の意味もない。それらは自慢とせず、必要なときに、必要な事実として明かせばよい。

 同様に、年を取ったということを誇らないことだ。人間年を重ねただけ進歩してゆくなど、楽観でしかない。年を取ったから人生や人の世が理解出来たなどと考えないことだ。若者に説教をしないことだ。思い上がらぬよう戒め、それまで得た知識や経験が自他に役立つようにすべきだろう。

 言葉を語るなら、飾らないことだ。自分をよく見せようとしないことだ。本心から出ていない言葉を、若者は見抜く。

 自分に自信が無いから、自分をよく見せようと虚飾をする。けれどその虚飾のために人びとの信望を損ねる。恥の上塗りでしかないのだから、せめて恥のまま上塗りすることなく黙っていればよい。若かりしわたしは、恥ずかしい人生であってもそれを自覚し開陳する老人のほうが格好いいだろうと考えた。

 老いは身体能力の低下のみならず知的能力の低下ももたらす。悲しいが当然の事実として受け入れなければいけない。諸事の判断に対し、自分の知的能力を疑い、限界を見極め、よくよく熟慮することを薦める。「自分は正しい」と思ったときから誤りが始まる。 

 自分の知ることすべて(知識や経験)について、それを絶対視してはならない。それらはすでに古いものとなっているかもしれない。

 他人を自己と同一視してはならない。老いは他者への想像力の低下をもたらす。孤独であればなおさらだ。自分と他人を分かつ隔たりを忘れず、人的要因と状況要因それぞれに注意を払うこと。

 人びととともに、平生笑顔で過ごすこと。

 書き途中。

わたしの日常世界

 この日記からわたしの世界を再構築しようとするとき、わたしの日常生活のほとんどは回転寿司と雑踏と電車で出来ていることになってしまう。ところが今日はそこにモスバーガーを加えて、これらのことを書いてみよう。過去記事をかえりみるほどこのブログの中身があるとは思わないけれど、わたしの世界の矮小さを自覚するにはまとめて書くのが一番いい。

回転寿司

  以前に書いたのは、声をかけて注文するかたちが当たり前だと思っていたのが、タッチパネル式になっていて驚いたという話。これはとても便利だったが、声をかけて注文するのも楽しかったなあ、と懐古もしてしまう。

 いまでは紙で注文するタイプの店も多いように思う。理由としては、注文での気恥ずかしさの解消、板前さんの負担軽減などが想像できる。だが紙という方法はどうなのかとも思う。これについてはまた考えてみたい。

雑踏

 人の居る場所で人を見ているのが好き。やることのない人間、そして人と触れ合うことに一抹の怖さを感じる人間の趣味だと思う。これについては一度書いたきり、空想でちょこっと書いてから書いていなかった。凡人がやることに追われると、生活にすき間が無くなってしまって、観察する心も忘れてしまう。心の栄養不足。味気ないことだ……。

電車

 モーツァルトが人生の大半を旅に費やしたというのなら、わたしは人生の大半を電車に費やしたと言ってもよいのかもしれない。なんと悲しいことか。通学、通勤、旅行などのありとあらゆる移動。そしてまた、わたしにとって本を読むのに快適な環境の一つが電車だった。白状すると、本を読んでいたら何駅も乗り過ごしていた、なんてことが数えきれないくらいある。なぜそれほど電車での読書が快適なのかも、考えてみたい。

モスバーガー

 もっともよく行くハンバーガー屋。けれど、先日行った店のお姉さんはなんだか笑顔の仮面を貼り付けたような違和感のある対応だった。これは悪いことではなく、自分の心を守るための防衛手段なのかもしれない(例えば、銀行のお姉さんでも冷たい人がいるとそう思う。やる気がないと言うより、心がすり減ってしまったのだろうなぁ、と感じることのほうが多いのだ)。であれば、わたしはレジというのは自動でよいではないかと思う。

 メリットとしては、平均的な会計時間の短縮(戸惑う客もいるとは思うのであくまでも平均)、注文の聞き間違いや釣り銭間違いの減少、外国語対応、スタッフの負担軽減あたりか。レジでの触れ合いは失われるかもしれないが、作業が減れば余裕ができる分別の部分で触れ合うことが可能になるだろう……と、素人的に楽観してみる。

 調べたら、やっと試験導入がはじまるとのこと。こんなのはずっと前から思ってたぞ、遅いぞ~!

電車の割り込みに遭遇したときの心の動き

状況

 電車の始発駅。からっぽになった電車のまえで、座席を狙う人たちが待ち構えている。わたしもその列にいる。

 と、わたしたちの列のとなりに女の子がぽつんと立った。その足元には目立つように「ここは狭いから並ばないでください」みたいなことが書いてある。この文章を見ていないか、見たうえで無視している時点でまず嫌な予感がした。友人同士買い物帰りと見える目の前のおばあさんらも、チラっとその女の子を見た。

 電車が来た。と、その女の子のうしろに男の子がさっと並んだ。たぶん大学生だ。なぜ分かるのだろう。そして同じく嫌な予感がした。「やめろ、やめるんだぞ」と心のなかで念じた。

 乗客が降り、からっぽになった電車のドアが開く。と、案の定、彼らは割り込んで乗車、自分の座席を確保した。

感想

 こんなありきたりな行為を糾弾するつもりはない。糾弾するくらいなら「並んでください」と言えばよいことだ(ま、実際に言ったところで無視されることが少なくないのだけど、刺されないだけマシか)。この一連の流れのあいだに、わたしはこの女の子と男の子に対して、心のなかで評価をしていたことに気がついた。

 まず、「並ばないで」と書いてあるにもかかわらず並ぶという行為。「彼女は気づかなかっただけか?」と心のなかで問う。「いや、注意書きを見ている可能性は高い。足元が違う色になっていて目立つし、彼女はスマホもなにも見ていない」「であればなぜ彼女は注意書きを守らないのか」「座席に並びたいからだ」。

 次に、彼女の身なりを見る。なんだか黒いもこもこした上着を着ていて、化粧の感じもけばけばしい。「ああ、いかにも遊んでそうだな」と感想を抱く。そして、「自分さえよければいいタイプのお子さま」というジャンルにカテゴライズする。そして、「ああ、この顔つき、これはこういうことをする人ですわ」と思い込んで勝手に納得する。

 このようなことをごく一瞬で行なった。うしろの男の子に対しても同じだった。なにも彼・彼女を凝視したり、考えようと思って考えたわけではない。実際には、ちらっと見て、カテゴライズ、というぐらいの早さだった。

 そしてカテゴリーに分類したあとは、それを確信するように彼・彼女の外見的な情報を認識していった。そして「やれやれ、それなら仕方がないな」と勝手に納得し、暇つぶし用の本を取り出す。隣のおばあさんたちが「やあね、信じられない。わたし言おうかと思ったのよ」と言っていた。

「読書の秋」

今週のお題「読書の秋」

 秋は外で本を読むのがとても楽しい。冬だと寒すぎて鼻水が止まらず、春だと暖かすぎてあくびが止まらない。夏は言うまでもない。だから読書の秋と言うのはその通りだと思うのだけど、近頃秋というものをとても短く感じる。秋に読める本は少ない。年老いたのか、気候が変わったのか。

 だから、読書の秋にはお気に入りの本を読む。その一冊が秋山徳蔵さんの『味』という随筆である。西洋料理に憧れた少年が天皇の料理番のトップ(主厨長)にまでなるというのだから、夢を叶えるとはまさにこのことなのだろうと思う。懸命な努力、拳での指導、昭和天皇や福羽逸人(とくに新宿御苑の造営で知られる)といった人物、この本を読むだけで懐かしい時代に逆戻りしたような気がしてくる(などと言って、わたしは生まれてすらいないのだが)。

 ところがわたしはそんな話よりも、秋山さんが幼少時代に乞食の金玉を棒でつつくいたずらをしたという話の方がやけに頭に残っている。まったくこの時代の悪ガキはとんでもないことをするものだ。いや、秋山さんだけか?

 そんな冗談はさておき、この本は大切なこともわたしに教えてくれる。料理というもの、そして生き方というものにもっとも大切なのは、心あるいは魂であるということ。こんなことを書いても「なにを」と思うかもしれないが、わたしはこの本を読むたびにそのことを肝に銘じようと思うのだ。

 秋山さんは、そもそも家庭の料理はプロの料理とは違うのだと言う。それはシロウトにはプロのマネなどできないということでは無くて、むしろ家庭の料理こそは、プロである著者が本当に美味しく食べることができる料理なのだと。

 それは何故か。そこには真心がこもっているからだと言う。

 ところが、ほんとうに良人を愛している女房は、たとえ料理は下手でも、どうしたら美味しく食べて頂こうか、これでは食べにくいからこうしておこう、汁が浸み出して手でも汚してはいけないから、紙を一枚入れておこう――そういった深い心遣いをしながら弁当をつくる。これが良人の心に響かぬはずはない。

 このように、料理を作る心は、世の中のすべてに通ずると、私は信じている。政治も料理だし、教育も料理だし、商売も料理である。

 この一文をわたしはたびたび思い出す。はじめてこの一文を読んだとき、わたしは胸が熱くなった。それは、なにも忙しい主婦のための時短テクニックや冷凍食品や出来合いの弁当を否定したいわけではない。大切なのは、自分の大切な人に、真心を持って接すること。そして真心を感じる心を持ち続けること。下手な料理を見て「下手だなあ」と思うだけではいけない。そこに真心があるかどうかを感じること。それが、料理一筋に生きた人が人生万般のことに見出した普遍的な教え、奥義とでもいうべきものなのではないか……。

 ひとつひとつに心を持って向き合うのは時間のかかることだけれども、その非効率さは必要なものなのだと、わたしはこの本を読むたびに教えられる。

 

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今日の夢

 学校に居る。窓の外から、遠くの小高い丘の上にある学校の校舎が見える。その校舎の一室、教室のなかで、生徒たちが黒板の横の棚にあるラジカセを投げるか何かしているのを見て、わたしは「おかしい」と思う。やがてカーテンがひらひらとはためき、中は見えなくなった。

 自分のいる教室をながめる。同級生が居る。周囲は静まり返ってひとけが無い。そのまま数時間数日が経った。美術の教師が外にやってきて、入れまいと抵抗したが不思議な力であっさり開けられてしまった。やむなく中に迎え入れる。何かが起きているらしいこと、安否などを話したが、「ここでなにが起きているのか」と聞くと、目を見開き、つばを飲み込んで、ふらふらとどこかへ消えてしまった。

 さらに時間が経ち、壁の一角、黒板の横にすき間があるのを見つけた。爪を入れて引き出すと、板の裏に隣にある準備室(物置)への扉が出てきた。外からは入れないので、格好の隠れ場所だと一同で盛り上がった。

 それから数日が経った。ふと腹部を見ると、体操服に砂のような汚れがついていることに気が付いた。外の邪気とでも呼ぶべきなにかが入り込んできている。わたし自身もその影響を受けつつある。ほかの人も同様らしく、そのままおかしくなって数人が外に消えていった。

 やむなく最後まで残ったわたしと友人S君は外に出た。廊下を出て、突き当たりの階段まで行き、降りてゆく。そこに小さな女の子が現れた。女の子というにしては、顔が四角く、アニメのような容姿をしている。pixerのスタッフを名乗る彼女は、自分たちのアトリエであれば影響を受けていない、そしてそれは給水塔の3階(意味は謎だがそう聞こえた)にある、と言った。

 わたしは何を思ったか、S君と別れ、彼女についてゆく。来た道を引き返し、わたしのいた教室のまえを通り過ぎて反対側の階段を上がる。何度階段を上がったか、3階ではなく13階ではないかと思いつつも、ようやく踊り場に出てそこにさらに細い階段があるのを見つける。そのさきに彼女たちの部屋があるらしい。彼女はそこへ入っていった。

 ここならば安全なのか、と思って階段へ一歩を踏み出す。するとたちまちその先は真っ黒に染まり、死角となって見えなくなっている部屋の入り口から、黄緑色のペンキらしきものがどばっと吐き出され、ぶちまけられる。狂気の笑い声がする。わたしは全身ぞっとして駆け出し、来た道をまた戻りながら「S君についてゆくべきだったのだ、あの手を離してはいけなかったのだ」と思った。

電車の座席を、ひとはどのように選んでいるのだろう

 電車の座席を、ひとはどのように選んでいるのか。電車に乗るたびにこのことを考える。ここでは最も基本的なことを考えようと思う。まず、座席は7人掛けの長椅子タイプの座席(ロングシート)が完全に空いている場合を考えてみる。

 さらに基本的な考え方となるのは、人は、他人と接触することを嫌う傾向にあるということ。この考え方にもとづけば、座席の埋まり方は大ざっぱに4段階に分けられる。

  • 第1段階……両端が埋まる(残り5席)[●○○○○○●]
  • 第2段階……中央が埋まる(残り4(2×2)席)[●○○●○○●]
  • 第3段階……両端と中央のあいだどちらか1×2席が埋まる[●○●●○●●]
  • 第4段階……残った2席が埋まる[●●●●●●●]

 もちろん第2段階で1つおきに座るなど、別パターンも当然あり得るのだけど、まずはこの埋まり方について考えてみる。

 この第2~3段階にやってきた人は、ここに座ろうと思う限り誰かの隣の席を選ぶしかない(あるいはあきらめて立つか立ち去る)。どちらを選ぶかはいろいろな条件で変わってくると思う。

 この埋まり方はもっともよく見られるパターンだと思う。もちろん両端よりも中央を好む人も居るだろうし、本来第3段階で埋まるであろう席を最初に目指す人もいるだろう。例えばわたしは、ラッシュ時で列の先頭であったならまず中央を目指す。こうすれば後続する人びとも入りやすい。そして、ラッシュ時の両端は、横にある手すりの棒なり仕切りに人が寄り掛かってくるので、圧迫感が大きく快適ではないことが多い。

 これは、「他人と接触することを嫌う」ことを前提にしているから、「誰かの隣の席は(座ろうとしている人にとって)もっとも価値が低い」と考えている。そこは座らざるを得ないから座るのだと。裏を返せば、このもっとも価値の低い席をいきなり目指す人には怪訝な目が向けられる。それで人は、この理解しがたい行為に対して、別の理由による説明を探し求めたりする。

 例えば、女性がどちらかの端に座り、いきなり隣に男性がやってくるということはしばしば起こりうる(わたしも数日前みた)。問題になりやすいこの場合を考えてみる。女性はこれをおかしいと思い、そこに性的な理由による説明を見出して嫌悪感を抱くかもしれない。

 男性としては、また別の理由から優先順位の変更が生じたのかもしれない。 例えば、端を狙っていたが座られてしまい、中央は隣に座りたくないような人(はっきり言って変な人)がいる、となるとやむなく女性の隣を選ばざるを得ない、というようなことが考えられる。

 しかしその場合にも、女性の隣に座れば怪訝な顔をされることは容易に想像がつく。だから、わたしの場合はそんな窮地に遭遇したのならおとなしく立つことがほとんどなのだけど、平然と隣に座る男性もいる。

 目の当たりにした時、なんとなく「自己評価が高いからではないか、女性の隣に座る資格があるという自信があるのではないか」と思ったのだけど、それ以外の場合も考えられる。いずれにせよ、その理由はいくつかにパターン分け出来るのではないかと思う。(1)単純に怪訝に思われるであろうことに気が付いていないか、(2)気がついてはいるけれども意に介していないか、(3)気がついてはいるけれどもやむを得ない事情(具合が悪いなど)があるのか、のいずれかではないかと考えているけれど、どうなのだろう。

 この話をご飯中などの雑談でしたいのだけど、こんなことを無駄に考えこんで話せばドン引きされてしまうことは間違いがないので出来ずにいる。あなぼこだらけのこの空論に付きあってくれる人が現れてくれたら、ご飯も美味しくなるに違いない(笑)

券売機にお金を入れたのに、硬貨が詰まった記念日

 立ち食いそばでも食べるか、と思って券売機にお金を入れたのに、硬貨が詰まった。

 戸惑った。ボタンを押しても反応が無い。わたしが選んだ「天ぷらそば」のボタンをじっと見る。ランプが光っていない。金額が足りなかったのだろうか、しかしわたしは500円を入れた。それから目線を落とし、金額欄を見る。金額が表示されていない。ここまできてようやく硬貨が詰まってしまったのだと気が付いた。

 これは再現性があるのだろうか、と思ってもう100円入れてみた。あるバグを偶然に見つけて、そこに再現性があるかを確かめずには居られないのがプログラマー(?)だという話を思いだした。やはり100円も吸い込まれたままだった。

 もっとも忙しいであろう昼時、店員さんに事情を話すと、「券売機の前で待っていてくれ」と言われた。と、あとから来た女性が1000円札を入れようとしている。「ダメですよ」と言おうかと思ったが、1000円札では確認していないのでわたしは何も言えなかった。結果、その1000円札はきちんと認識された。呼び止めないで良かった。

 それで店員さんが来て、機械のあちこちを手早くいじりながら、硬貨が詰まったらしいことを確かめてくれた。ようやく600円が返ってきた。

 思えば、硬貨というのは精巧に作られている。気が付かないようなごく微小な傷みであったり、人の皮脂による影響もあるかもしれない。機械は、そうした誤差を許容できるようにしつつ、硬貨を正確に認識しなければならない。これは思った以上に大変なことだと思った。

 このコストを考えると、機械で現金を取り扱うというのは、そこまでして維持すべきものなのだろうかと、ふと思った。いまやモノとしての現金という仕組みそのものが不要であるという電子化急進派とでもいうべき人びとも居るなかで、たしかにその極端な主張が穿っている問題もあるのだと考えさせられた。