もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

もしも語彙力が無かったら

 ふと思った。言葉が思いつかないとき、それを他の言葉で言い換えることは間々ある。では、もしそんな言い換えだらけの文章だったらどんな文章になるだろうか。

 例えば、「昨日の夕方にちゃんこ鍋を食べた」という文があったとして、「ちゃんこ鍋」という言葉を忘れてしまったとする。これを辞書的なワードで補足してゆく。

レベル0(原文)……昨日の夕方にちゃんこ鍋を食べた

 まずは「ちゃんこ鍋」を辞書で引いてみよう。

レベル1(日常的な言い換え)……昨日の夕方に力士料理の鍋料理を食べた

 さらに、「力士料理」と「鍋」を辞書で引いてみよう。

レベル2(説明)……昨日の夕方に大鍋に季節の野菜や魚・鶏肉などを入れて煮立て、つけ汁やポン酢で食べる力士料理の鍋料理を食べた

 さらに「大鍋」と「季節」と「野菜」と「鶏肉」(魚は”うお”としか出ないので省略)と「力士料理」と「鍋」と「料理」を辞書で引いてみよう。

レベル3(説明の説明)……昨日の夕方に、大型の鍋に1年を天候の推移に従って分けたときのそれぞれの区切りの、食用とする植物の総称や魚・食用の鳥の肉などを入れて煮立て、つけ汁やポン酢で食べる相撲取りの、材料に手を加えて食べ物をこしらえたものを食べた

 結論。うむむ。むしろ語彙力ありすぎなのでは?

今日の夢

 自宅にいるが、ある曲のギターのコードが分からずに居る。譜面を探すが見当たらない。出そうとした紙類のゴミのなかを探すが見当たらない。父はものを溜め込む人だったが、捨てすぎるのも考えものだと思う。外に出ようとするが、姉に聞こうと思い一度戻る。姉も知らないというので外に出る。2階建てのアパート群から公園にかけて、途中までレンガ敷にしたばかりの痕跡がある。かなりずさんで手作り感がある。どうやら近隣の地主夫妻がこつこつと作っているらしい。公園の左右に曲がりくねった道もレンガ敷にしつつあって、それを見た若手の社長が「うちのほうまでやってくれ」と頼んでいた。これは事業になりそうだ。

 図書館の広場か、スーパーの広場に居る。私は自転車を押していた(前にいた関西人のおじちゃんに何か褒められた気がするのだが、よく覚えていない)。

 特殊メイクによるマスクを何枚も剥がすと、庵野監督の顔が現れる。得意げに「私を忘れたのか」と言う監督に、私もまた得意げな表情で「何か生命に対する冒涜のようなものを感じます」と言い返す。そこは学校の教室で、私たちは最後列に居た。先頭列に宮崎駿監督が居て、こちらに向かってにやりとする。私と友人(と認識しているが、実際には某芸人)は大はしゃぎで教室を飛び出る。宮崎駿監督が教室から出てきて「私の授業を受けてほしい」と言う。隣の教室に入り、小さなデスクのついたイスに座る。「日時を変更したので誰も居ないが、気にしないでほしい」と言われる。確かに予定より一時間も早い。また日付と曜日も一致しない。配られた紙に日付を書こうと、近くの事務机から鉛筆を取る。鉛筆はナイフで削られていて、懐かしい肌触りがした。

映画「マンハッタン」「魔女の宅急便」

マンハッタン

 7/5 TOHOシネマズシャンテにて鑑賞。ウディ・アレンによる1979年作の映画。オープニングの「ラプソディ・イン・ブルー」と、ブルックリン橋の場面が有名だ。改めて見ると粗野でいて夢と希望に満ちた輝かしい街ニューヨークの情景に、音楽がピッタリマッチしている。

 物語としては雑多な時代を感じさせるというか、清潔(背徳を排除する)になった現代からすると全く共感の余地は無い(笑) 破天荒で魅力的な中年男が未成年の少女と交際し関係を持ち、しかも友人と不倫相手が破局すれば口説き落とし、成功すると「やっぱ未成年は無いよな」と少女を切り捨て、不倫相手にフラレればまた少女のところに戻って縋り付く……本当にどうしようもない男である。それでもそこに魅力を感じさせる泥臭い人物造形が不思議と共感を呼ぶ。それは本作が自叙伝的な内容になっているからこそなのだろうと思う。

魔女の宅急便

 7/13 TOHOシネマズ日比谷にて鑑賞。1989年公開の言わずとしれたジブリ作品で、リマスター版がやっていた。思い出補正というやつか、冒頭のキキの子ども的な振る舞いすら、鬱陶しいと思うどころか忘れていた新鮮な気持ちを呼び起こさせられるようだった。

 子どものころに観たときの記憶で、最後の救出劇だけを覚えていた。この場面は言わば観客へのサービスとして後から追加されたものだそうで、大衆への迎合と言えばそれまでだが、芸術性と大衆性のあいだでバランスを取ることで多くの人の記憶に残る作品になったとも言えるのではないか。

 大人になってから観ると、この物語が単なる冒険譚ではないことを理解する。すごくピュアで、ちょっとだけ才能のある少女の内面的な成長、そして一つのコミュニティに受け入れられるまでの物語だったのだと理解する。

 ジジは何故言葉を話さなくなったのか? こういうことをあまり考察しすぎずに気楽に見るほうがよいと私は思っている。強いて言うなら、ぬいぐるみ的存在だったのが自立することで不要になったのだと理解している。デッキブラシで飛行するときの真剣な目を見れば明白で、冒頭と全く違う少女の姿がそこにあることは間違いがない。大切なのは、キキが仕事のつらい一面にぶつかり、それを乗り越えたということなのだろう。

 労働とは何か、才能とは何か、というような問いもありながら、それでも見知らぬ土地でひたむきに懸命に生きようとするキキの姿にハッとさせられるのは、子どもよりはかえって大人たちのほうではないか。見返してよかったな、と思った。

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「何もしない旅」に行くようになった

今週のお題「最近変えたこと・変わったこと」

(大分冗長だったので 7/21 に再編集した)

 そもそもを言えば、散歩や映画、音楽、読書など、ほとんどの趣味は「最近変えたこと」を無数に積み重ねることだと言える。例えば散歩なら、訪れたことのない場所へ行く。あるいは同じ場所でも歩いたことの無い道をあえて選んでみる。他の趣味、映画や音楽、読書にしても同様で、実は同じ日常から自分を脱却させることに他ならない。自分とは違う世界観に共感し、あるいは感銘を受け、それを生きる気力に変えてゆくのである。日常に刺激を与えるという意味では、あらゆる趣味は自分を変え続けるためにしていることだと言えなくもない。

 ……そんな屁理屈みたいな話は要らない、と言われそうである。それでもこんな話を書いたのは、最近国内旅行に行きまくっているからである。つまり、最近日常変えまくりなのである。最近は2連休以上あればどこかへ行く。準備と言えば下着を持ってゆくくらいで、ガイドマップも見ず、ただグーグルマップで地理関係だけは軽く把握しておく。

 いわば「何もしない旅」。それもデジタルデトックスや湯治みたいな立派な目的を持った静養ですらなく、ただただ住民気分を味わう旅(それは旅なのか?)。例えば今年の初めにはなけなしの有り金はたいて神戸へ行ったが、異人街をなんとなくぶらーっとして、商店街の喫茶店に入っただけで終わった。乗りたかった新快速には乗ったので大満足である。

 こんな無意味な旅をすると、誰もが当たり前に過ごしている日常ですら、外部の人間からすればとても特別な体験なのだということをひしひしと感じる。これは無意味な旅だからこそ感じられることである。

 東京にいる私にとって神戸の日常(エスカレーターの乗る位置とか、レジでの方言とか、東京と違うホームドアとか……)は特別な体験だったし、逆もおそらくそうだろう。そんなことを考えるのは私含めよほどの夢想家、ロマンチストだけではないかと思うが……無意味で面白くないと思うのが普通だとは思うから、変な趣味であることは自覚している。

 もちろん観光で行く旅行もするのだが、私にとっては何もしない旅も気楽で楽しいものである。私は「世界ふれあい街歩き」というNHKのお気に入りの番組になぞらえて、「世界誰ともふれあわない街歩き」と呼んでいる。

映画「サンキュー、チャック」

 6/8 アップリンク吉祥寺にて鑑賞。

 世界的に続発する大災害。カリフォルニアは沈み、ドイツでは火山が噴火する(注意!)。どうやら世界の終焉が近いらしい。そんななか、いたるところに「サンキュー、チャック」という広告が現れる。さて、この広告は何なのか? そしてチャックとは何者なのか?

 最近の私には、当たり前の生の尊さをテーマにした映画や小説がよく刺さる。本作もそうで、ファンタジックでありながら深い共感を呼ぶ物語と言える。

I am large, I contain multitudes.

私の中には無数の人が存在する

 このセリフから分かるのは、本作において世界は客観的なものではなく、一人の人間のなかに主観的に作り上げられるとして描かれているということだ。従って一人の人間の死は「世界から私が消える」ことではなく、「私という世界が消えること」だと言える。石原慎太郎が「死などというものはありはしない。ただ俺だけが死んでゆくのだ」というアンドレ・マルローの作中の言葉を引用していたのを思い出す。

 本作で世界の滅亡以上に大切なことは、チャックはそれでも生を選んだということ、しかもそれがラストに描かれているということだ。死を見つめてなお、最後の時まで生きてゆく。人生にほんの一瞬だけ訪れる、輝ける瞬間のために。

 私たちは、最後の最後になってようやくこの物語の全貌を知る。最後の時まで、彼の世界は秩序を保とうとしていた。だからこそ、見終わってひと言、「サンキュー、チャック」と、私たちもこぼさずには居られない。