もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

三尺三寸箸

 ふと、三尺三寸箸の話が思い浮かんだ。「柄の長いスプーン」の話としても知られている。それはこのような話である。

 天国と地獄というものは、どちらも似ている。どちらにもごちそうがあって、それを取り囲む人びとがいる。そして、どちらも三尺三寸、1メートルを超える長い箸をもって、ごちそう(あるいはスープ)を食べようとしている。おそらく、ごちそうは地獄の釜のように、とてつもなく深い鍋の底にあるのだろう。ごちそうにありつくためには、この箸で食べるしかない。

 ところが箸が長すぎるからそのままでは自分で食べることができない。ここで天国と地獄の違いがでる。

 地獄では、だれもが自分の分を自分でとろうと躍起になり、争い合う。争いが続くほど、飢えの苦しみが増し、互いの憎しみも募ってゆく。しかし天国の人びとは、互いに食べさせあうことでこれを解決し、争いも飢えもなくおだやかに過ごしたという。

 細かい点は違うと思うのだけど、だいたいこのようなお話である。同じ状況でも、そこに居る人間の動き、あるいは心というものが、その状況を天国にも地獄にもするということを示す話だと思う。

 いまこの話を思い出したというのは、ある人が対談のなかでこの話について言及していたからだ。その方は「伸縮できる箸」を作れたらどうだろうか、と考えを示している。もちろんこの話の趣旨を理解したうえであえて「技術屋としての視点」に立っているのだけど、わたしにはこの考え方が面白かった。現実のことを考えてみよう。

 もちろん技術的に解決されれば便利にはなる。だが、技術的に解決されてゆく裏で「こういう配慮がされている、あとは自力で出来るよね」というような考え方をするような人が増えているような気がしている。よく言われる「ハードとソフト」の問題だ。  例えば、バリアフリーなどと言って、どの駅にもエレベーターの設置が進められたりする。これはハード面での解決策としよう。もちろんエレベーターが出来れば歩行が難しく車いすを利用している人などが自力で地上と地下を移動できるようになる。

 こうした整備が進む一方で、「エレベーターがあるんだから、自分で移動出来るよね」と考える人が増えているのではないか、と言うことだ。これはわたしの勝手な感覚であり、ささやかな問題意識に過ぎないのだけど。

 電車の移動などを見てもそうだ。ベビーカーや車いす、杖をついた人、妊婦、などなど、こうした人が乗ろうとしても何ら譲ろうとしない。明らかに顔色が悪い人がいても知らん顔をしてスマホとにらめっこしている。車いすでさえ、駅員が介助するのを気まずそうに見つめ、嫌々スペースを作っている光景をよく見る。

 バリアフリーということを考えたときに、ハードに対するところのソフトというのは人間の心に他ならない。いわば心のバリアフリーはどうだろうかと考えてしまう。端的に言えば、どれだけ設備が充実しようと、社会の主役は人間にほかならない。人間が変わらなければ――言い換えれば、心のバリアフリーに向けた取り組みが進み、充実しなければ、障害者の生きづらさは変わらないのだろう。これはわたしの勝手な感覚でしかないけれど。

 三尺三寸箸の話で言えば、人間による解決方法は「互いに食べさせあうこと」である。確かに、箸が長すぎて食べることができない、それでいて短いと食べものを取ることができないという問題があるのならば、どちらにも対応した伸縮可能な箸をつくれば、どちらの問題も解消する、というのはとても明快な考え方だ。

 ただ、この伸縮可能な箸は天国すら地獄にしてしまう可能性もある。伸縮可能な箸によって誰もが自分で食べられるようになってしまえば、互いに食べさせる必要がなくなってしまうからだ。ともに不自由であればこそ、その不自由さを分かち合い、互いに食べさせあう優しさが生まれる。だれもが自分で自分の食べたい分だけを取れるようになれば、優しさの芽を摘んでしまうかもしれない。そうなればそこにまた奪い合いが生じる。

 「人間のための技術」が地獄をもたらすケースもあるという懸念を、この三尺三寸箸から派生した空想は考えさせてくれる。だから技術での解決をやめるべきだという話ではなく、結局は人間の意識が変わらなければ、誰もが生きやすい時代と言うのは来ないのだろう、という話だ。そんなことをぼんやり考えていた。

 技術が悪いという話ではありません。念のため。