もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「いじめられる方にも原因がある」という考え方について

 浅はかな考えに過ぎないことを承知の上で、考えたことを書いておく。

 「いじめられる方にも原因がある」という考え方は、意外なほど世の中に浸透しているように感じている。さすがにいじめ自体を容認する時代では無いと思うけれど、バイアス自体は根深く残っているのだと感じる出来事が立て続けにあった。

 周囲の人間が厳しく諫めるべきところなのに、彼らは問題行動自体を認めなかったり、安易な両成敗論で片付けようとする。問題行動は標的を変えて繰り返され、そのたびに「彼女の行動には問題があったが、言われた彼女にも理由の一端はあった」などという論法が繰り返される。

 彼女の行為がいじめやモラルハラスメントに該当するかは分からない。反復性は無い(特定の個人を執拗に狙ったものではない)。暴力行為も無い。しかし、職務上の指示の範囲を明らかに超えて、人格否定を含む感情的な叱責ではある。そして、数々の人間を傷つけ、去っていったケースもいくつかある。恐らく実害が出ている。

 こういう微妙なケースでは、安易に両成敗論として片付けてはいけないことも多々あると思う。問題の根本を放置している限り、見た目以上に問題が広がっていたり、深刻であるかもしれない。

 とはいえ、認定の難しい問題行為に対して取り組む難しさもある。犠牲者を出しながら、証拠を積み上げてゆくしか無いのかもしれない。組織がバイアスに基づく安易な判断を下しがちなのは、問題を認めて処分を下すよりも、現状を維持するほうが、組織の負担がはるかに少ないからだと思っている。

 私が社会に対して、他人に対して、潔癖過ぎるのだろうか、と自問する。あの人にも良いところはあるから、仕事に熱心だから、成果を上げているから、仕方がないのだ……と、割り切るべきなのか? それにしても、実害のほうが大きすぎると私は思う。そもそも、便益が上回れれば許されるという考え方自体、成り立たないのだが。

 単刀直入に言えば、問題はこうだ。問題を繰り返し、目に見えにくい実害を生む人、性格的に難のある人をどうするのか。どこからどこまでを問題として認めるのか。そして、どこからからどこまでを処分の対象とするのか。処分の程度はどうするのか。

 組織の健全性を保つために、どこかで手入れは必要だろう。100%は有り得ないが、ある程度以下になってはいけない。人間同士が働くというのは、つくづく難しいものだと痛感する日々である。