もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「苦情殺到!桃太郎」について

 ふと、「苦情殺到!桃太郎」を思い出した。2017年のACの広告で、「桃太郎」で桃を拾ったおばあさんに「窃盗だろw」などと誹謗中傷が殺到する。「悪意ある言葉が、人を傷つけている」*1。インターネット上の「炎上」問題に真っ正面から切り込んだことでかなり話題になったと思う。

 この広告を見た当時、あまりにも理不尽な言葉の数々に、どこか滑稽さすら感じてしまったのは私だけだろうか。

 例えばこの誹謗中傷のなかには「川で洗濯すんなよ」というのがあったけれど、これなんかは、

ツッコミ「おばあさんは川へ洗濯に行きました」
ボケ(ツッコミ体で)「川で洗濯すんなよ! 家でやれよ家で」

 と言えばおかしいではないか。あるいは、

ツッコミ「川上のほうから、大きな桃が、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきました」
ボケ「桃デカすぎだろ! そんなでっけー桃あるわけねぇだろ」
ツッコミ「”おじいさんと食べましょうかね” おばあさんは、大きな桃を引き上げて、持ち帰りました」
ボケ「窃盗だろ! 交番に届けろよ!」
ツッコミ「なんで交番なんだよ。この時代に交番ないでしょ!」

 となると誹謗中傷の理不尽さがかえって可笑しさとなって浮き彫りになるではないか。これらのツッコミ体のボケは、少し変形しているが内容自体は「苦情!」で実際に掲載されているものである。ジョークとはどこか論理の破綻したおかしさであり、それは理不尽なクレームにも共通しているのだと、つくづく感じたりもする。

 だから、こうした理不尽な苦情が人を傷つけている問題はもちろんある。正義感にせよ憂さ晴らしにせよ本人は真剣なのだが、実は本質的にジョークと変わりなかったりもする。そして苦情を叫ぶ人間はジョークじみた主張を正論と信じて押し通そうとするし、その叫び声が押し通ってしまうことがあるのが恐ろしいところである。

 だからこそ、比喩として、風刺として、そのおかしさを前面に出しながら対立することなくいなすのも、一つの方策かもしれない。上に書いた「苦情殺到!桃太郎」も、お笑い話だと思えばこのようにおかしさが先に出て、批判の正体が見える気がする。膨大な数の苦情はひとまとまりの怪物のようになって人を追い詰めるのだが、その一つ一つをつまみ上げてみれば、実に間抜けなのだ。

 間抜けな話が今では真面目な顔を装って、悪霊のように憎悪に満ちた怒りを纏って、現実の至るところに蔓延している。そのことを多くの人が感じ取り、笑い飛ばしてほしいと思う。誰かが書いたように、現実への失望が深まりすぎると、笑い飛ばすユーモアまで失われてしまう。(商売などではなく)生きぬくための風刺や比喩においては、それが面白いかどうかはきっと重要ではない。笑い飛ばそうとするその営みを捨ててはいけないのだと、今の私は思っているところである。

*1:難しいのは、人を傷つけるのは悪意とは限らないということである。それは歪んだ正義感や歪んだ善意でもありうるし、あるいは負感情から得られる快楽に没頭する人びとの業の深い自慰行為であったりもする。