もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

無免許人間のぼやき

 無免許人間のぼやきなのだけど、「この人は事故を起こしそうだな」というドライバーが確実にいると思う。例えば、黄信号から赤になりそうなときに、止まろうとする人もいれば、突っ込んじゃえと加速する人もいる。あるいは、ウィンカーもあげないで、たったいま思い付いたかのようにいきなり右折して横断歩道に進入する人もいる。そんなあからさまな危険行為でなくても、隣の車線を走る他の車に追い越されただけでどこか負けた感じになって抜き返そうとするとか、焦るとすぐに横断する歩行者などへの注意がおろそかになるとか、安全運転を脅かす内面的な要素は、大なり小なりあると思うのだ。

 そのために適性検査というものがあると思うのだけど、適性検査の結果を受けて自分の性向に注意しようと考えるような人はそもそも意図的な危険運転はしない傾向があるはずだ。問題は、不注意による誤った操作ではなく、危険につながる意図的な操作をもたらす意図そのものにある。飲酒運転がその極致だけども、自分の行動の正確さを過大に評価し、そして自分の行動が他人に危害を及ぼす可能性についてあまりにも過小に評価しすぎる。

 そこでこんなことを考えてしまう。もしも、そうした内面的な危険要素を、事前にすべて評価出来るようになったら、どうなるだろう? 平たく言えば、「あなたは危険運転を起こしかねないので運転免許は出せません」という命令(?)を下せるほどに、正確に評価できるとしたらどうか、というところだ(ただ、これはあくまでもこれは性向だけの話であって、いわゆる反射能力などは問題にしていない)。

 つまり、体制の監視が個人の内面にまで行き渡った恐るべき超監視社会ではあるものの、社会にとって脅威となるその芽を事前に摘むことができる、というときに、どっちがいいんでしょうね、ということだ。

 もちろんそんなのは空想にすぎないのだけど、とはいえ、こんな監視の利便性と恐ろしさについて考えるのは荒唐無稽だと笑い飛ばせる時代でもなくなってきている。

 自動車と危険運転による交通事故の関係は、包丁の話にも似ている。包丁が悪いのではなく、包丁を危険な行為に使う人間が悪いのだと。では、人を傷つける目的で包丁を買う人間が、高い信頼性で事前に判断できるとしたらどうか。

 赤信号の横断歩道に突っ込んできた白いバンを、睨みつけるように見送りながら、こんなことをぼけっと考えた。