もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「ママがもうこの世界にいなくても」

 「ママがもうこの世界にいなくても」を読んだ。若くして大腸がんになった女性の日記……と説明するのはたやすいのだけど、やっぱりこういう本は「打ちのめされるようなすごい本」だ。

 私は遠藤のどかさんの生き様を胸に刻んだ。幼いころ、周りの人がみんな「のん」と呼ぶものだから、自分の名前が「のん」であると思っていた、というのが、なんだか微笑ましくて、ふふふっ、と笑ってしまった。

 私は最近、人の生の尊さに対して、やたらとセンシティブになっている。それは自分や身内のこともあるし、社会情勢のこともある。「空想にハマっている暇はない」と言ってフィクションを読まなかった私が、トルストイの「イワン・イリッチの死」にハマり、ゼーターラーの「ある一生」やウリツカヤの「ソーネチカ」、米原万里さんの「オリガ・モリソヴナの反語法」などを夢中になって読んだのはつい最近のことだ。

 時代や内容はバラバラでも、そこから私は一つのことを実感する。それは、自分の人生にとって何が大切なのかを本当に見つめることが出来たなら、それがどんな状況であれ、自分の人生を生き抜くことは出来るのだ……ということだ。ただ、この本はフィクションではない。こんな下らない思考の対象にしてはいけない。

 読後の激情を共有したくて他の方のレビューに目を通してみたのだけど、善意的なものではあるのだけど内容に対する品評が含まれているのが、正直に言って不愉快だった。確かに私だって、彼女のこの決断に自分はこう思っただとか、ここが感動したというような感想はあった。けれど、それを言葉にしようとするたびに、自分の言葉の安っぽさに愕然としていたのだ。

 常々思うのだが、人の死に対して、立派に生きただとか、最後まで立派に闘っただとか、――そういう感想だって善意によるものには違いないのだけど――日々を当たり前に生きている人間が、安全な向こう岸からそんな評価を下すのは、とても思い上がったことではないだろうか。

 かといって、反対に「どんな言葉でも語りえない」などと言っていたずらに神秘化するのも、うわべだけの安っぽい手法(内容を全く知らなくても「語りえない」と言って片づけることは出来てしまう)と重なって、なんだか嫌だ。

 となると、私はどうしたらいいのだろう? 21歳でステージ4のがんを宣告され、22歳で結婚式を挙げ、抗がん剤治療を中断して出産を決意して23歳で女の子を出産された――と書くことは出来るけれど、そこにある思いは読んでもらうしかない。なにより、娘さんへの記録にもなるからとインタビューを受ける決意をされたことは、読む際に忘れてはいけないことだろうとは思う。

 それ以外は、私がいちいち内容を取り上げてああだこうだと評するよりも、私自身が、胸に刻むしかないと思った。生きよう。それしかない。

 それでも、近い年代の人間として、こんなに力強いエールを、こんなに多くの人びとに与えるなんて、本当にすごい人だな、と心の底から思う。私の座右の書の一つになりました。