もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ポジティブさについて

 ポジティブであることを嫌う人がいるけれど、結局は寄り添っていないことが問題なのではないかと感じる。つまり、落ち込んでいる人の心(落ち込んでいる事情など)をすっ飛ばしてポジティブを押しつける。ポジティブそれ自体ではなく、そういうやり方が嫌われるのだ。

 たとえば、病気で大変な思いをしている人に「頑張れ」と言ってしまう人が典型的だ。その人はつねに痛みやつらさに耐え忍んでいる。にもかかわらず、そんな患者のまえに気まぐれに現れて「頑張れ」という綺麗事を空高くから投げ棄てる。そして去ってゆく。それが善意だとしても、言われる側にはとうてい受け入れられるものではないだろう。

 正論や一般論が嫌われるのもこれと似ている。そんなことは分かりきっている。問題は、現実において「頑張れないのはなぜか」とか「正論が貫けないのはなぜか」ということだ。それを無視して分かりきった空論(それも自分の言葉ではなく一般論にすぎない)を投げつけて、本人は「アドバイスしてやった」と悦に入る。他人を軽視しているから、問題を単純に捉えてしまう。

 わたしの読んでいるブログで、病気でご飯を食べられない人に「ご飯を食べないと元気になれませんよ」と声をかけた人がいた。それは正しい。だが、その人がご飯を食べられないのはやる気や根性の問題ではないということは明らかだった。

 善意だからと言って許されるものではない。ここは断罪する場ではないけれど、本人やその経緯を見ていた人から嫌われたであろうことは間違いがない。

 人間関係において(つまりこの独り言記事はその範囲ではない)、言葉や態度について問題になるのは自分の動機ではなく「相手にどう受け取られたか」ということだ。「自分は善意で言ったのだ」と弁解しても、もはや取り返しのつかないこともある。裏を返せば、言われたその人が「この人は自分に寄り添ってくれている」と思うことが出来たなら、「頑張れ」というようなポジティブなアドバイスも受けいれられるかもしれない。

 だから結局は、ポジティブに考えるにしても苦しみやつらさといったネガティブなところに対する感受性は大切だと感じる。