もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

銀座の人混み

 土曜日に仕事で銀座(正確にはほとんど有楽町だが)を通ったのだが、人の多さにびっくりした。平時よりは明らかに少なかったが、それでも混雑していた。カフェやブティックなどは見事に三密となっていて、コロナ禍の見通しにも不安を感じざるを得ない光景だった(私にとっては)。

 正直に言えば、こういう行動をとる人たちがこれだけいるという現実は、私をいくらか厭世的にさせた。…………小難しい言葉でごまかそうとしたが、やめよう。本音を書けば「どいつもこいつもバカばっかりだ」と思っている。そしてその刃が自分にも刺さっていて苦しくもある。仕事だからと外出している私もまた、私が軽蔑する彼らと同じなのではないか。

 とはいえ、行楽に及ぶ彼らは、仕事や生活で「外出せざるを得ない人」では決してない。しかも三密という、最低限にして最も有効な対策さえも平然と破り捨て、堂々と街へ繰り出している。そしてまた彼らが恐ろしいのは、彼らが無関心であるということだと私は思っている。彼らは「自粛」要請への反対を主張して外出しているのではない。そもそも彼らは賛成―反対の判断すらしておらず、ただコロナ禍以前の過去の行動パターンを繰り返しているだけのように思える*1。それで身近な誰かが亡くなったところで、彼らは自責の念を持つだろうか。政治のせいだ、社会のせいだ、ウイルスのせいだ、病院のせいだと言うのではないだろうか。自分の行動が社会にどのような影響を与えるのかを想像できないのだろうか。

 もちろんこれは、一つのバイアスがかかっている。私が外に出れば、外に出ている人だけが見えてしまうのは当たり前だ。その裏には、コロナを恐れ、自分や身内をその猛威から守ろうと考える人たちが間違いなく居るが、それは見えないのだ。私自身も、仕事以外では外出しないようにしている。もっとも私の場合には、自分や他人を守るということと同時に、上記のような、自分の心を搔き乱す現実をもはや見たくないということもあるのだが。

 私は私自身にできることをやる、と思ってやってきた。けれど世の中はそれとは反対の方向に動いてきた。経済のためといい社会移動を増やし、さらにハンマーをためらい、ついに重症者が増え、死者が増え、ということになっている。既存の医療が圧迫されている。それはデータとしてもそうだし、私自身も聞いたりする。寛解しないなかで退院を余儀なくさせられたり、入院や手術が延期になった、というケースが出ている。それは治療の必要がないからそうなったのではなく、病床確保のためにせざる得ないからそうなったのである。

 しかし、街なかの人混みさえ見なければ、自宅にこもっていても楽しめることはたくさんある。読めていない本もたくさんある。それに、多くの人が私と同じかそれ以上の懸念を社会に対して抱いているということも思い起こさないといけない。孤独になると見えにくくなるけれど、実は私たちは無言の多数派なのかもしれない。見えてしまっているものだけが現実ではないと、いまは信じることにしよう。

*1:もちろん、コロナ禍の不安や孤独感の反動ではないかとか、いろいろ考えられるけれど。