もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

トイレのドアノックについて

 一度だけ、トイレ中に他人が入ってきたことがある。それも去年のことだ。お盆の時期で、小さな寺の境内は人をかき分けないと進めないほどに混雑していた。小さな寺だからトイレも一箇所しかないのだが、意外にトイレへ行く人は少ないようだった。

 それでぼんやりしていたのか、トイレに入った私はトイレがリフォームされていることに感動して、用を足しながらあたりを見回していた。そこに他人がガチャリとドアノブを回して入ってきた。

「あ、すみません」

 と私が言ったら相手は無言のまま、ゆっくりとドアを閉めて、その一瞬は終わった。さすがに見られていないよな、と、妙な安心感を抱いたのを覚えている。

 「あ、すみません」と言った私の声色もかなり間抜けだったが、相手がゆっくりとドアを閉めたのもなんとも間抜けなことだった。ショックのあまり固まるというのはこういうことを言うのだろうと思った。

 この体験は自分にとっては大変な出来事で、あの日のような真夏日になると必ず一度はこのことを思い出す。そしてこのことを思い出すと必ず、トイレでドアノックをしない輩への怒りがふつふつと湧いてくる。鍵をかけない私も悪かったが、いきなり入ってくるのもどうなんだ、と、責任転嫁的な思考を繰り返すのだ。

 トイレに入る前にドアノックをするのはごく一般的なマナーだろう。そうでなかったら、この世はガチャガチャとドアノブを回し放題の、ガチャガチャ天国である。

 そもそもの話をするなら、たいていの場合はドアノックも必要ないのだ。なぜなら現代のトイレは素晴らしいもので、外からでも他人が入っているかどうかは視認できるからだ。施錠されていればカギのところには赤色が表示され、施錠されていなければ青色が表示される。表示錠というそうだが、おなじみの鍵である。それでも、私のように施錠を忘れて用を足す人間がいるからこそ、鍵が開いていてもドアノックをする必要があるのだ。

 その点、ノックもせずにドアノブをガチャガチャと回す連中というのは、施錠されているかを確認もせず、施錠されていない場合にドアノックをすることもしない。ただひたすらに、自分の「ウンコをしたい」という欲求に突き動かされるままにドアノブを回す。

 では彼らがそうせざるを得ないほどに切羽詰まっているのかといえば、そうでもないことのほうが多いだろう。ただただ単純に、何も考えていない、というのが実際多いのではないだろうか(ひとつ彼らを擁護するとすれば、たしかに鍵のパネルは意図的に目線を落とす必要があったり、見えにくいこともある)。

 これと対照的なのが道路の信号機だ。トイレでノックもせずにドアノブを平然と回す人でも、赤信号に全く気づかずに渡るということはなかなかない。うっかり渡りそうになって引き返すか、意図的に渡るかのどちらかだ。全く気づかずに赤信号を渡りきる人というのはなかなか聞いたことがない。

 ならばトイレと信号は何が違うのか。トイレのドアに気を払わない人間も赤信号には気がつくのは何故なのか。まず赤信号を渡れば死ぬ可能性が高いのだし、横から車が接近してくれば音で気がつく。ではトイレもそうしよう。人が入っている状態でドアノブに触れると電気が走る。あらかじめ録音された猛烈な放屁音などで人がいることを警告する。こうすれば彼らも気がつくだろう。

 …………いや、それでも彼らは気がつかないかもしれない。