もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

日常にちょっとした変化をもたらすこと

 日常にちょっとした変化をもたらすこと。それは誰にも理解されないわたしの楽しみでもある。レストランの注文のように、世のなかには決まりきった「流れ」というものがある。そしてわたしたちはそれを嫌というほど知り尽くしている。店員に対して被せ気味に返事をすることなど、その最たる例だ。「いらっしゃいませ。何名さ」「ひとり」「おたば」「吸わないです」という具合だ。おそらくこの店員が何を言おうとしていたか、これだけでほとんどの人には分かるだろう。

 以前にモスバーガーのレジの話で書いたのだけど、これだけ会話の型が決まりきっていると、ほとんどの部分は機械でも出来るのではないかという気がしてくる。某ラーメン屋などがそれで、店舗全体の空席を示すインジケーターが入り口すぐにあって、客はそれを見て空席に勝手に行く(混雑時は店員が割り振るが)。わたしなどはそれを見てブロイラーの鶏になった気分になるのだけど。

 人間の機械化とでも言おうか。これは使い古された話でもあると思うが、それは客と店員どちらにとっても便利だ。だがその一方で、店員の彼らは本当に人間なのかと思ったりもする。だからわたしは彼らが人間であると知るととても楽しくなる。

 たとえば、カフェで店員同士が雑談をしているのなどがよい。男性の店員1人と女性の店員2人がいる。みな20代くらいだ。そしてこの女性の一人と男性が仲が良いらしく、ずっと喋っている。人間関係が垣間見えて面白い(だがテーブルを拭いたりはしてほしかった。経営者からすれば彼・彼女がイチャつくのは怠慢に他ならないし、穏やかではない話かもしれない)。

 あるいは、夜11時ごろに閉店間際のカフェを訪れたとき、メガネをかけたおとなしそうな男性店員がモップを持ちだして、「あいつすっぽかしやがった、ッざけんなよ!」などと言いながら厨房に入っていったのも面白かった。ふつうの人だったら評価を下げるだろうしわたしも評価は下げるが、人間らしさが見えるという点だけでいえば面白い。

 ただ職務に対して人間らしさの度合いが行き過ぎると、某企業の問題のようになる。予測可能性が成り立たないとはまさにこのことで、「この私の食べるパスタのトマトは、彼が今しがた口に入れて吐き出したものではないか」など、すべての店員を疑わなければならなくなる。ある仕事を「誰でも出来ること」がそのまま危機に直結する。それは恐ろしいので、そこまでの破綻は望まない。あくまでも表面上は形式を守りつつ、その裏で形式から逸脱する、というのがよい。勤勉でありながら、裏ではちょっとだけ怠惰でもある。それくらいの塩梅がいい。

 そしてこうした話とは別に、雑談というものがある。これは決まりきった型にもさまざまなパターンがある会話で、「いい天気ですね」あたりから入る軽やかな会話で、わたしはあまり得意ではない。けれどたまにその人の考え方が分かる質問を入れてみたりする。「うさぎとカメ、どちらが好きか?」などだ。これも、日常のちょっとした変化、遊びということになるだろう。

 このような具合で、他人に対する興味は尽きないものだ。