もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

職場の人間関係で悩むことについて

 わたしは当然世界中の労働者のことなど知らないのだけど、それでも職場の人間関係に悩む人が少なくないのは間違いがないのだろう。仕事それ自体ストレスのかかることなのに、そこに職場の人間関係の苦痛が圧し掛かってくることの大変さ。例えばファミレスやコンビニの店員であれば、昼間には忙殺されたり、嫌な客が来たりするだろう。そうすれば心身ともに疲れる。そのときにはハイになっていても、実は疲れている。だから緊張が切れたときにどっと疲れが来るはずだ。

 そして、職場の人間関係の苦痛というのは、こういう苦労の根底にずっと居座り続ける。人間関係の苦痛が横たわっているところに、業務上から生じるストレスを抱え込まなければならない。この「ずっと」というのがつらいだろうと思う。嫌な客はいずれ帰るであろうし毎日来るとは限らないが、職場の人間関係はまずずっと続く。悲観的な予測、それもほぼ確実であろうという予測が立ってしまう。「行きたくない」というのも当然のことだ。 

 もちろん人間関係の苦痛とひとことで言っても、さまざまなものがある。深刻なハラスメントを受けていることもあれば、純粋に仕事に対する考え方が違うような場合もあるだろう。とくに後者は問題が見えにくいだけに解決も難しい問題だろう。厳しい人もいれば優しい人もいる(いわば飴と鞭、この配分も人によって違う)。新人に明確に指示を出す人も居れば、自分で答えを出させる人も居る。教える側にもその人のスタンスがあるように、教えられる側もこういう指導をしてほしいという思いがある。その考え方は人にもよるし状況にもよる。考え方も違えば、その根本であるコミュニケーションのとり方も違う(言葉の選び方など)。だからむしろすんなり行く方が珍しいし、すんなりゆくのは幸運なことなのだろう。

 労働社会に対する考え方は世代で違うなと感じる。わたしの父などは、わたしが高校生のころによく「それじゃ、社会では通用しないぞ」などと言ったものだ。それは仕事というのは厳しいのが当たり前で、あらゆる苦痛に耐えながら生活のためにやむなく続けるものなのだ、というニュアンスであった。けれどわたしが実際に仕事を始めてみると、職場の人は善人ばかりであった。善人とは言いすぎかもしれないが、とにかく温厚だった。失敗をしたときに怒鳴ったり、指導の最中に人格否定をするような人は居なかった。もちろん指導は受けるし怒られもしたが、怒鳴られたことはなかった。仲間とまでは行かないかもしれないが、そこには信頼感がある。

 先日ファミレスで食事をしていたら、いきなり怒号が響きわたった。なにかと思えば部下を叱責しているらしかった。わたしはそんな「社会」に居たとしたら5秒ともたずに辞めていただろう。部下を怒鳴る彼が考えるような「社会」に、わたしは居られない。この意味で、ハラスメントという概念が提起され、対策が講じられ始めたこの時代に労働者として存在できることを、わたしは本当に幸運なことだと思う。言ったら悪いが、時代が違ったら、精神を病んで倒れ、何の補助も受けられずに野垂れ死にしていたのではないか――なんてことも考えてしまう。あるいは、彼らが「昔は厳しかった」と語るほどには厳しくない、優しい労働世界も存在したのだろうか。

 そんなことをもやもやと考えながら、ホックシールドの「管理される心」を読んだ。感情的な労働はもちろんこれまでにも存在した。だが、それが高度に制度化され、制御されているということがこの本の底にある。そのことによって個人はどのような(目に見えない)コストを背負っているのか。

 そしていまやそういう社会にあることは誰もが知っている。あのかわいいウェイトレスの笑顔や、わたしだけに特別にしてくれているように見える対応は、”どちらも”マニュアルに基づいたものにすぎないのだと。だからこそ、そこに本心(本来性)を見出したがる。