もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

例の回転寿司のニュース

 今さら……というか、今さらになったから書けるのだけど、例の回転寿司のニュースに、ふと自分の若い頃のことを思い出した。

 中学生の下校中、私は友達と力比べをしていて、道端の大きな枝を持ち上げていた。枝と言っても大きな木の大きな枝で、2mくらいはあった。私はそれを持ち上げきれず、バランスを崩して通行人の居る方向に倒してしまった。少し間違えていたら、通行人に直撃しているところだった。当然私は通行人のおじさんに厳しく叱られた。

 回転寿司における問題行動を擁護するつもりはまったくない。ただ、例の事件にある青少年特有の愚かさに、どこか私自身共感するところがあったのも事実だ。

 それでも当時の私とはまったく違う点が二つあって、当時の私はそこまで常軌を逸した行動を面白いと思う考えは無かったし(周りにもそういう子は一人も居なかった)、承認欲求を満たしうる機器も無かったということだ。

 一昔前であれば、飲食店で迷惑行為を働いたところで、それが世間に広く知れ渡ることは無かっただろう。誰もがメディアの発信者となれて、また誰もが「自分にも注目されるチャンスがある」という希望を抱くことが出来てしまう。「悪ふざけ」が「テロ」へと変貌する理由は、まさにこの点に尽きるのではないかと思う。

 これが時代の病理だとすれば、こうしたことは散発するだろうし、社会もそうした非行への対策にコストを費やす必要が出てくる――というか、実際そうなっている。

 その対策というのも、人目が届くようにするとか、注文テーブル以外では受け取れないようにプロテクトするというのは対症療法に過ぎないのだけど、きっとそういう解決策に進むのだろう。こういう技術的に対処するやり方は、いかにも日本らしいなという気もする。

 けれど本質的な対処というのは、絵空事を言えば、承認欲求の飢餓を解消することだろう。自分が周りの人に認められていると思えていて、自分の人生に満足していれば、寿司を舐める必要性は全く無い(計算づくの営業妨害は別)。

 けれど、承認欲求の問題は「自分は孤独である」と感じる人が増えれば増えるほど深刻になり、人びとが小手先の技術的な対処に訴えれば訴えるほど、おざなりにされてゆく。技術に訴えて人心を見落としてしまってはいけないと思う。人間は所詮人間だ。

 そんなこんなで、私はこの事件に自分の若いころの過ちを思い出してどこか共感を覚える反面、私の若かった時代とは全く違う時代になったのだなあと宇宙人になってしまったような悲しみもまた抱いているというのが、正直な感想である。