もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

知らない誰かに道を尋ねられることについて

 ともすれば退屈に繰り返される日常において、まったく思いがけない変化というのは、良くも悪くも自分の生を実感させてくれることでもある。今日はそのいい方の話をしたい。

 例えば、知らない誰かに道を尋ねられることは、日常に楽しい変化を与えてくれる体験である。いまや道に迷おうとスマホGPS機能で自己解決するご時世だから貴重な光景になってしまったけれども、それは赤の他人から、群衆としてではなく一人の人間として「私」が認識されるということではなかっただろうか。

 どうにもおじさん臭い、カビの生えた話になってしまうが、都会ではなかなか人のつながりが見えにくい。都会に生きる人は、あまりの人間の多さに対処するために、自分以外の人間を顔の無い群衆とみなす癖がついているのだと思う。

 だから、都会には顔の無い人間ばかりである。顔を覆い隠し、自分の繭に引き籠っている。スマートフォンを握りしめ、他者とのコミュニケーションを拒絶する。他人の靴を踏んづけても謝りもしない。会釈も無しに平然と隣の座席に飛び込む。こうした人間にとって、私は人間に見えていないのだろう。彼らにとって私は顔の無い群衆であり、私にとっても彼らは顔の無い群衆である。こういう暗黙の了解が、都市生活のなかで人びとに安心感を与えている一面もあるだろう。

 ともあれ、私たちは日々このように顔の無い生活を送っているものだから、人間であることを思い出す瞬間は貴重なものである。人間味のあるコミュニケーションをとり、またそうした瞬間に居合わせると、私は少しだけ人間の心を取り戻す。そしてその一つのイベントが、道を尋ねられるということである。道を尋ねられた瞬間だけ、のっぺらぼうの私は自分の顔を取り戻す…………。

 と、こういう気持ちがしているのである。それは、私有化(プライヴァタイゼーション*1)と並行するように、人びとの社会生活も私秘化(プライヴァタイゼーション)してゆくかのようにも見える。

 そもそも、赤の他人から一人の人間としてみなされることは、それほど大切なことだろうか、という疑問は当然ある。赤の他人から人間とみなされなくても、仲間がいるではないか。みなが繭にこもったところで、私も彼ら自身も、その仲間とだけ楽しく過ごしているのなら、それでよいのではないか?

 と言うところに来ると、やはり「公共とは何だろうか?」という漠然とした疑問が浮かび上がってくる。こういうところから、また公共について考えてみたいと、毎度浅慮ながら思ったりもする。

*1:不慣れな横文字を使うのは、そういう用語であること、またプライベート化を意味するこの言葉を掛詞にしようという粋がりである。恥ずかしい。