もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「恐れ多くて使えない言葉」

 私には「恐れ多くて使えない言葉」というのがある。例えば学生時代に書いたレポートでも「論じる」とは書かずに「考える」とか「述べる」などと書いた。卒業論文も、それは「論文」ではなく「書きもの」にすぎないと、心の底から思っている。私にとって論文というのは、一つ一つの論を精緻に積み上げて作る、巨大かつ繊細な、未来永劫崩壊することのない建築物なのだ。それに引き換え自分のものは目方で作った素人建築である。建築物として形状を保っているとすれば、それ自体が奇蹟なのだった。「議論」も「話し合い」と呼ぶことのほうが多い。「ディスカッション」などとんでもないことだ。「会議」と言うのも本当は言いたくはないが、そういう名称なのでやむなく使っている。だいたい、私が「会議」と言ってまず想像するのは、御前会議であるとか、清須会議であるとか、とにかく国(領地)の行く末を二分するような重大な話し合いであり、そうでないにしても死活的に重大な決定が行われるものなのだった。私は「会議」をするような立派な人間ではない。

 そしていま、「随筆」や「エッセイ」というのも恐れ多い言葉の一つである。私は自分の書いたものを随筆やエッセイと呼んだことは一度たりとも無い。これは、学生時代に読んだ森茉莉さんの言葉を、今でも真に受けているのだ。すなわち、随筆とは、「一流の芸術家や学者、又は実業家なぞが、その深奥な考えや、知識の一端を、こぼすようにして軽く書くもの」であると*1。この言葉が胸の奥にずっと突き刺さっているのだ。

 文脈が違うといけないし、忘備も兼ねて文脈が分かるように引用しておく。

だが魔利は、自分の書く随筆がどんなに洒落た感じに出来上っても、かりにもエッセイとは言わない。昔、バルザックの、何だか分らない厚い本を買って来て、真中辺を明けて読むと、「Sucre」(砂糖)、「Tabac」(煙草)、「Caffé」(珈琲コオヒイ)、「L' eau de vie」(火酒)、「Alcool」(酒精)、の五項目に分けた、それぞれ短い文章があって、魔利はその時に深く感にたえ、「これがエッセイというものだろう」と信じこんだのである。だから自分にはエッセイなんていう偉いものは到底書けないと、思っている。もっとも魔利の書く随筆は「随筆」という名称には価しないのだそうだ。「随筆」というのは、一流の芸術家や学者、又は実業家なぞが、その深奥な考えや、知識の一端を、こぼすようにして軽く書くものだ、と言っている(「黒猫ジュリエット」)

  森茉莉さんの言葉としてたびたび思い出していたこの言葉だが、いざこの日記に引用しようと思ったらどこにあるかをすっかり忘れていて、久しぶりに「贅沢貧乏」を読み返した。この言葉は、「黒猫ジュリエット」のなかで、魔利の愛猫が見た魔利の言葉として書かれているものだった。やはりこれを書いているときの魔利の心中には「欧外」の「ペダンチズム」も確かにあったことであろうと、一ポンコツ読者は思う次第である。

 と、やたらに鍵かっこが多くなってしまったのは、鍵かっこに入れ込めないと、この恐れ多い言葉の数々を用いることが出来ないからである。鍵かっこに入れ込めることで、それが自分のものではないと宣言し、なんとか使うことを許していただくのである。しかし、いったい何に許していただくというのかと考えると、自分でも首をかしげてしまうのだった。

 

追記:そういえば「大学」というのも私には恐れ多い言葉で、必然性が無い場合はなるべく「学校」としか言わないのを今思い出した。

*1:もちろん、これは世間一般に向けた主張の類いではなく、私が勝手に真に受けて、勝手にそう思っているにすぎないことは念のために補足しておく。さらに言えばこのブログはほとんどすべてがその類いの独り言である。