もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「縛り首の丘」


 リスボンの人々は、ためらいもなく直ちに私の足元にひれ伏した。マルケス夫人は泣きながら私を「わが心の子」と呼ぶのだった。新聞は伝統的には神に属するはずの形容詞をいろいろと私の名前の前につけるのだった。かくして私は「全能」になったり「全知」になったりした。私の人間に対する軽蔑の念はあまりに大きく、人間を創った神さえ軽蔑したくなるほどだった (本書「大官を殺せ」(Amazon) , p. 110)。

「大官を殺せ」

◆王国内務省の官吏として、ごく平凡な生活を過ごしていた主人公テオドーロ。あるとき中国の古い書物を読んでいると、なにかがこのようにささやきかける。「呼び鈴を鳴らすのです。そうすれば、巨万の富をもつ中国の大官は死に、その遺産がすべておまえの手元に入るのだから」。主人公は、それが悪魔の誘惑だということを知りながら、自分が一生かかっても稼げないような巨万の富に目がくらみ、ついに呼び鈴を鳴らしてしまう……

◆つまり、理性では「いけない」と分かりきっているのに、主人公のように教養ある人物であっても欲に流されてしまうのが人間。そうして大富豪になった主人公ですが、大官の幻影に悩まされ、大官やその遺族へ償いをしようと思っても、それが叶わないどころか仇となって返ってきてしまうありさま。さらには周囲の人間の手のひら返しにもうんざり。富豪であることにほとほと嫌気がさして「大金から私を自由にしてくれ!」と叫びますが、それも叶わず。◆ついに人生を終えようとする主人公が心底思い至った教訓は「自分の力で稼いだパン以外にはなんの美味さもない」ということ、つまり、表題と真逆の「大官を殺すなかれ(p. 111)」という答えにたどり着くわけですね。当たり前といえば当たり前の教訓なのですが、主人公の右往左往っぷりの果てにこの言葉が出たと思うと、思わず「お疲れさま」といいたくなります。

◆周りの人びと(大衆)もひどいものです。主人公が巨万の富を手に入れると知れば、周りの人びとはこぞって彼を崇め、主人公が巨万の富にうんざりして前の生活にもどれば、周りの人びとは富豪時代の恨みもあるのでこぞって彼をけなす。このあたりの手のひら返しの様子はとても滑稽です。ぼくなんかは、こういう話を読むと「ははは、人間なんてそういうものさ」と黒い笑いに浸りたくなってしまいます。

「縛り首の丘」

◆主人公は敬虔な信仰心をもつ青年騎士ドン・ルイ。教会で人妻に一目ぼれし、日曜日には教会のまえで彼女がアーケードを通るのを待ちうけながら、熱い視線を向ける。ところが、その視線に気づいたのは嫉妬深い夫ドン・アロンソ。かれは妻を狙う主人公を心から憎み、ついには妻の偽手紙によって主人公をおびき出し、その「下劣な情炎」を利用して殺害するという恐ろしい謀略をたくらむ。主人公は彼女のもとへ一目散に駆ける。その途中、死体が吊るされた縛り首の丘で青年騎士を呼び止めるのは、ほかならぬ縛り首だった……

◆疑心暗鬼が誤解をつのらせるというのはこわいですね。主人公は人妻が視線に気づいてくれないので「薄情女」と嘲りながらすっかりあきらめてしまうのですが、それを嫉妬深い夫は「とんでもない計略をたくらんでいるに違いない!」と疑い、ついに青年騎士を殺害するための謀略を企ててしまいます。こういうのは、愛がもたらす奇妙な思考というかなんというか。

◆でもこの二人結構似ているなあと思います。主人公は彼女を一目見ようとして、彼女の家の周りをうろうろしたり待ち構えたりしていますし、夫は自分の邸宅から彼女の行動を逐一見張っているとか。彼女を愛するがために、彼女を短剣で脅して偽の手紙を書かせるというのも、はたからみたらなんともおかしいのですが、当の本人は真剣そのもの。

◆さらには、そこに聖母様の使いとして現れるのが縛り首の死体。縛り首の死体にとっては、聖母様への奉公、ある種の試験だったのかなと思いますが、かれは見事にその役割を果たしたのでした。情愛に走ることをいさめる教訓めいたお話かと思いきや、縛り首の死体という特異なキャラクターによって違った色が添えられたという感じで、面白いですね。

◆この本全体としては、人間というものを一歩引いたところから見ているような写実性と非現実性(呼び鈴で人が死ぬとか、縛り首が助けてくれるとか)が一緒に入り込んでいるというところが魅力的な一冊だと思いました。