もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「夜と霧 (新版)」

 

  つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ ( 「夜と霧(新版)」(Amazon) , p. 111f)。


2014-03-11に書き直しました。

とても有名な本(らしいの)ですが。
この本のこの箇所を読んだとき、手が止まってしまいました。

 一面では、人間は外的な状況に呑み込まれてしまう存在です。この本でも、強制収容所のなかで自分にはもう未来がないと考え、絶望して人間を辞めてしまう人も少なからずいたといいます。決定を放棄した人間は、モノに成り果ててしまう。しかし、少数ながらも未来を捨てず、苦しみと向き合った人たちがいました。著者は、その数少ない事例こそが、数多くの堕落の事例を補って余りある人間の力なのだといいます。その考えが、引用した部分によく表れていると思います。

 生きるなかで絶えず生じる選択肢と向き合い、苦難のなかにあっても自分のありようを問い続ける。過去を反省することはあっても決して退行することはなく、未来を見据えながらいまを生きてゆく。なぜなら、人間の真価が問われるのは、苦難のあとではなく、苦難にある今そのときなのだから。

 「生きる」とは、何かの意味があって生きるのではなく、生きていることによって生じる問いかけに対して、行動によって答えを出してゆくことが「生きる」ことなのである。そのことを分かっている人は、生きることや苦しむことの意味は分からなくても目的は知っている。

 なんだか人生の先がモヤモヤしていて、出口がみえない。そのうち疲れ果てて、繰り返される日常に溺れてしまう。そんな閉塞感に苛まれた時期がぼくにはありました。そのとき、読んでいた本で紹介されていたのがこの本でした。人は苦しみとどう付き合えばよいのか、この本はただのハウトゥとは違う、力強い言葉を授けてくれる本だと思います。


 ……ひとことで「未来を見つめることが大事だ」なんていうと「そんなのきれいごとだろ」なんて切り捨てたくなりますけど、生きることの厳しさ、そして力強さと向き合ってきた著者の言葉には力強いものがあります。変に理屈っぽい話は受け入れがたいし、変に具体的すぎる話は自分の日常生活とは別のものごととして考えて、「そういう場合もあるね」などと片付けてしまうからやっぱり受け入れがたい。けれど、この本はそのどちらでもなく、すんなり入ってきます。

 ただ、著者は「人間は自分では何も決定できない」というわけでもなければ「すべてが自分で決定できる」ともいっていません。というのも著者は、この世界に溢れるどうしようもない力、人が「偶然」と呼ぶそれの存在を認めているからです。収容所での体験すべてがそれを物語っています。それでも生きることの義務、責任を果たしてゆくことの大切さを伝えているのではないかと思います。