もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

病院のような飲食店、患者の私

 最近飲食チェーン店に行くと病院にいるような気持ちがする瞬間があるのだけど、ウェブ上で検索しても出てこないから、私が勝手に感じているだけなのだろう。例えば松屋の会計などは自動化が進んでいる店舗もあるけれど、「松屋 病院みたい」で調べても全然出てこない。

 いやいや、だって、番号を与えられて呼び出される仕組み、「自分=番号」がパネルに表示されるのを確かめて受け取りに行くところなんか、病院の会計と全く同じ動きではないか。松屋だけじゃなくて、マクドナルドなんかもそうだけど、注文してから待っている間のぼーっとしているときに「ああ、患者みたいだなあ」と思う。

 たしかに、似たようなシステムは昔からあった。例えば、食券を受け取って、番号で呼び出される立ち食いそば屋は今でもある。けれど、そういう店では「患者だなあ」と思うことは全くない。これが、パネルで呼び出されると途端に「患者だなあ」という実感が湧く。

 時系列で言えば飲食店の会計システムが先なのだろうか。病院の会計システムが先なのだろうか。飲食店と病院ではそもそも制度から全く違うけれど、それがこうも似通った仕組みに収斂しているのが面白い。

 以前に「病院のように清潔な回転寿司」について書いたこともあったけど、会計システムに手指消毒用のアルコールもついて、世の中はますます病院化している……なんてしょうもないことを考えながら、牛丼を待っていた。

超「いいね」社会

 超「いいね」社会、というのはどうだろう。世の中のありとあらゆるものが「いいね」で評価される、そんな世界だ。

 例えば、幼児と親に道を譲るドライバーを見かけたら「いいね」(法律上当然ではあるが)、電車を降りるときにベビーカーを下ろすのを手伝うサラリーマンを見かけたら「いいね」、という具合だ。「いいね」が何らかの利益と結びつくことは一切ない。

 ツイッターやインスタグラムのようにバーチャル上で「いいね」を押すのではなくて、もっと現実と繋がった形で「いいね」を押せたらどうか、というようなことをぼんやり考えてみたりする。

 そういう世界には、「よくないね」も実装されるかもしれない。例えば警官の目に入らない危険運転も、大勢の目撃者によって「よくないね」が押される。この押す人もまた、信頼度が測られている。

 …………恐ろしい世の中だ。

「から・ので」問題

 「ご乗車できませんからご注意ください」というアナウンスが耳に入ってきて、ふと違和感を覚えた。「ご乗車できません”ので”」のほうが自然な気がした。それで気になって調べたら、この「から・ので問題」というのはなかなか難しいらしい。原因と結果を示すこの二つの言葉は、何が違うのか。

(はじめに断っておくと、これは正しい日本語がこうだという話ではなくて、私自身の違和感の問題にすぎない)

 私の感覚だと、例えば「危険ですからご注意ください」はいい(むしろ”ので”だと不自然だ)のだけど、「ご乗車できませんからご注意ください」だと、少し失礼な気がしてしまう。某ドラマの名セリフ、「おめーの席ねぇから!」を思い出してしまう(笑)

 ではこの「危険ですから~」と「ご乗車できませんから~」がどう違うのかと考えると、「危険」は鉄道会社が意図して作り出しているわけではないが、「乗車できない」のは鉄道会社がそのようにダイヤを組んでいる、つまり意図して作り出しているということだろうか。けれど、「おめーの席~」は、意図的に席を無くしているわけだから、合致しない。意図しているかどうかはおそらく関係ないだろう。

 ここで東京外国語大学言語モジュール*1の解説を読んで、なるほど、と思った。

「から」は「ので」に比べて、「これが理由である」ことをよりはっきりと明示するニュアンスがあります。そのため、聞き手にものを頼む表現(勧誘・依頼・命令)や、自分の行為の理由を述べる場合に「から」を用いると、自分の事情を一方的に言い立てる印象を与えます。「ので」を使うとそのようなことはありませんので、「ので」を使うほうがよいでしょう。(強調は私が加えたもの)

 この解説も借りて考えると、「乗車できない」ということが「自分の行為の理由」にあたり、ここで「から」を用いているので「自分の事情を一方的に言い立てる印象」を与えている、と言える。

 また、ネットで検索すると、あるページにはこうある。「から」は主観的な立場で結びつけるのに対して、「ので」は客観的な因果関係を表す。

 「から」と「ので」がどちらとも使える状況で比べてみる。

 例えば、

a. 昨日は早く寝た「から」、今日は早く起きられました。

b. 昨日は早く寝た「ので」、今日は早く起きられました。

 という二文を比べると、正直「どっちでもよくない?」と思う。少なくとも、ここに主観と客観の違いがあるのか、私には分からない。ただ、「ので」のほうが丁寧な印象は受ける。

 なんだろう、「から」のほうが、インフォーマルな感じを受ける。「ので」は比較的フォーマルなイメージだ。だから、仮にお天気キャスターが「雨が降る恐れがあるので、傘を持った方がよいでしょう」と言うところを「雨が降る恐れがあるから、傘を持った方がよいでしょう」と言ったら、私の頭の上にクエスチョンマークが3つは付く。これはたしかに主観・客観の区別で説明できる。

 結論、自分のなかでは、「から」と「ので」は何かが違っていて別物なのだけど、何が違うかはよく分からない。そして「ご乗車できませんから」と言われたときの、違和感。分からない。う~ん。

「次の駅で降りようか」

 鎌倉から北鎌倉へと北上する列車のなかでのこと。そこそこに混みあっている車内で、あるお子さんがトイレに行きたいと言い出した。彼ら親子はホームの人流に圧倒されるように慌てて乗り込んだものだから、トイレに行く間もなかったらしい。子どもの突然の告白に親御さんも驚きながら、ご夫婦で「次の駅で降りようか」と相談していた。しかし私は知っていた。この車両にはトイレがあることを。

 私は迷わず助言しようとした。けれど、喉まで言葉が出かかってハッとした。迷うのも、間違えるのも、旅の楽しみではないか。思い出の一部ではないか。彼ら夫婦が相談して決めたことに第三者が口を出すのは無粋なような気がした。私の助言が必要な状況でもない。そう判断した私は、窓の外に目を向けて、通り過ぎる佐助の山々を見ることにした。

 彼らは次の北鎌倉駅で降りていった。そして大勢の学生が乗り込んでくる。それからまた一度自問した。

「やっぱり、言った方がよかったかな?」

炊飯器を買わなかった

 炊飯器を見ようと思って久しぶりに家電量販店に行ったのだけど、まあ露骨だった。美味しく炊けるとかお手入れが楽だと言って、値段の高いハイエンドモデルばかりを勧めてくる。どれも5万円以上の製品だったので「予算は2,3万円です」と言ったら明らかにがっかりしていた。言葉はそうではなかったけれど、高額商品であれば値引きも考える、高額商品であれば案内が出来る、というような、的外れのプッシュに苦笑いした。

 私が求めていたのは、そこそこに美味しく炊けて、そこそこにお安い炊飯器だ。最高の炊飯器ではない。だから私のような安客にはさっさと適当な商品をおすすめして、あとはゆっくり見ていってね、ぐらいの対応で良かったと思うのだけど、なぜか高額の最新商品ばかりを勧めてくる。本音を言えば、話を聞けないなら話しかけられても困る、というところだ。ノルマがあるのだとしたら、さもありなん、と言いたくなる売り込み方だった。

 いくら商品に対する知識があっても、自分の売りたいものだけを売ろうとしてくる人にはうんざりしてしまう。販売員は、買いたいものを売ってくれる人であるべきだ。唯一の例外は、客が「買いたい」と思っている物以上に満足のゆくものを提示出来る場合だ。いきなり売りたいものを売りつけようと言っても、買う側も人間だから自分の考えがあるし、そうはいかない。

 買う側と売る側で駆け引きが出来ることこそが、店頭販売の強みだ。そうでなければ、ネットで買った方が安いし配送してもらえて楽、ということも多い。だからこそ販売員はスペシャリストになるか、さもなくば廃れてゆくのかな、と、ぼんやり考えていた。