もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

うるう日はトイレ紙の日

 うるう年。うるう日。そんな日にトイレットペーパー騒ぎが起こっているとも知らず、帰り際に「こんな時勢だ、肉でも食ってパーッとやるか」と思ってスーパーに400gのステーキ肉を買いに行ったところでトイレットペーパーのところが空き地と化していることに気がついた。張り紙には「SNSの影響で売り切れた」「個数制限にする予定である」という旨が書いてあった。SNSの影響で、とわざわざ書くあたり、店長の怒りがにじみ出ていると思える。

 そもそもこのコロナ騒ぎについては、個人的には人びとの盲目的な行動に嘆息してしまう場面もたびたびあった。もちろん政府や諸機関の対応が国民の不安を解消出来ていないという問題もあって、そこには対処しえたであろう部分とやむを得ない部分(不確実ななかで、その時点の情報に基づいて判断を下さなければならないため)とがあると思う。が、持論の内容は正反対であっても問題をひどく単純化しているという点で共通している人びとの暴論や、不安にかられて感染防御としての効果は十分には期待しえないマスクを慌てて買い占めたりまったく関係のないトイレットペーパーを競い合うように消費する人びとに至ってはもはや何がしたいのか分からない。他人が所持・使用できないのを想像して自宅でひとりほくそ笑むのだろうか(もちろんこれは冗談)。実際には、家庭を守りたい、家族を守りたい、何かあったら大変だ、などと考えている「善人」が大半なのだろうとは勝手に想像している。ツイッターで見かけたのだけど、「オイルショックを経験しているからね、心配でトイレットペーパーを買いに来たんだ」というのは、実話か分からないけれど、もはやジョークじみていて笑ってしまった。経験から何も学ばなかったのか。あるいは経験から学んだのは、より完璧にパニック行動を実践することだったのか。

 幸い、私の数少ない知人友人にはこのトイレットペーパー騒ぎに関わるような人間がいなかった。そのことを、内心で少し誇りに思うというか、やはり私はいい人に恵まれているというか、この人たちを信じてきてよかった、と改めて思えた嬉しさがあった。

 トイレットペーパーを買い占めることはもちろんだけれど、トイレットペーパーが無くなるから買いに行かなければ、という行動をとることもまた、結果的には店頭からトイレットペーパーを無くすことに加担してしまうことになる。そういう人たちは「一つや二つならいいじゃないか、これは買い占めではない」というかもしれないけれど、むしろそういう人たちが集まることで結果的に店頭からトイレットペーパーが消えるということになっている可能性は無いのだろうか。これは、私の地元のドラッグストアではマスクが早い段階で個数制限されていたにも関わらずすぐに無くなってしまったのを見ていたから、そういう可能性も考えてみたくなる。マスクとトイレットペーパーでは感染防御に対する主観的な評価(マスクの場合は感染が防げると思って買うのかもしれないが、トイレットペーパーではまずありえない)が違うのでその違いがあるかもしれないけれど。

 そんなこんなで、うちのトイレットペーパーはあと6ロールです。無くなるまでに入荷してくれるだろうか。無くなったときには置いていておくれよ、と願うばかりです。それまでは下痢などで大量消費するハメに陥らないように、健康管理を務めようと思う。