もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

墓参

 月命日ということで、母と祖母と叔父(母の弟)で母方の墓を訪ねた。外国人でにぎわう観光地からすこし離れた、静かな街。観光客向けに開発されまくった観光地とは対照的で好きだ。こちらは変わらずゆったりとした時間が流れている。あちらはめまぐるしく変わってゆく。いつでも変わらず迎え入れてくれるそんな街なのだ(ただ悲しいことに、思い出のある店は後継者や経営上の問題でどんどん減ってしまって、よく分からないブティックだとかブランドだとか横文字の店が増えてきている)。墓参りというのは、それ自体が気持ちを安らかにしてくれるものだが、わたしにとってはこの街を訪れることもまた、すこし心が温かくなるようなことなのだ。

 そしてまた墓を磨くのが楽しいこと。わたしは変な人間なので、とくに名前の彫られた部分にたまった汚れを落とすのが楽しい。最後に水を流したときに汚れも落ちるのをみると、心まで洗われる気分がする。

 手順はいつも決まっていて、まずはブラシなどでゴミを地面に払う。ちりとりに集める。そして上から水をかける。歯ブラシで苔やくっついた汚れを落とす(歯ブラシも硬すぎるのは石がきずつきそうでいけない)。名前のところを磨く。水をかける。ゴム手袋をして全体をぞうきんで拭く。あとは湯呑みを洗うだとかお花を揃えるだとか、そういうのもあるけれど、わたしはひたすら石担当なのだ。そしてこの数年で確立した、決めた手順で正確にやる。もはや故人を偲んで訪れているのか、石を磨きに来ているのか分からないほどだ。故人も草葉の陰で「なんだこいつは」と思っていることだろう。そんなことを思いながら、「来たぞ!」とばかりに祖母と地面をバンバン踏みならす。「起こすなよ」という声が聴こえてくる気がしないでもない。

 すべてが終わり、しばらく一同黙って手を合わせていたが、全長五センチくらいのハチが飛んできたのでわたしたちは慌てて立ち去った。それから同じ寺にある親戚の墓も磨いた。これは曾祖父の兄弟のなんとか(おい)で、もはや誰も訪れることことのなくなってしまった墓なのだと聞いている。会ったこともない見ず知らずの輩に磨かれて、どんな気持ちでいるだろうか。そのときはそんな想像を募らせるまでもなく、徹底的に磨いた。誰の墓だろうがきれいになるのは気分のよいことだ。それを祖母に伝えたら、「きっと喜んでいるよ」と笑っていた。

 納骨堂の近く、小さな木の陰に、真っ白なしゃくなげがたった一人で咲いていた。日蔭のなかでそこだけが日の光に照らされていて、思いがけず良いものを見た、と思った。