もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

公正世界信念

 もの知らずが浅慮してみる。被害者非難を公正世界信念によって説明する考え方があるらしい。

 つまりこういうことだ。まず、ひとは「世界は公正であるという信念(人生の運はなんだかんだあって最終的にはプラスマイナスゼロになると言うアレを想像してほしい)」を抱いている。ところが理不尽な事件はこの信念を脅かす。そこで被害者を非難することでこの信念を保とうとする。

 もうすこし細かく言うと、たとえば「努力は報われる」とか「悪人にはいつか天罰が落ちる」というような信念を持つことで、私たちは心の安定を保ったり、目標に向かって進むことができる。この信念自体は悪いことではない。

 ところが、世界には理不尽な突然の不運というものは必ずある。それは「公正な世界」という信念を脅かし、心を不安にさせる。この不安を解消するために、被害者を非難することがあるという。つまり、被害者を「善人」の座から引きずり下ろすことで、その被害を受けるのが妥当であると考えてしまう。当然それは謂れのない非難である。

 具体的には、暗い夜道を歩く女性が男性に襲われた事件に対して、「暗い夜道を歩くのが悪いのでは」などというのがそれにあたる。

 わたしが読んだ話はここまで。

 ここからはわたしの想像だけれど、当然、誰もが被害者を非難するというわけではない。加害者を非難したり厳罰を望むことで公正世界信念を保とうとする人もいるのではないだろうか。

 あるいは、悪とされた人が病死したりすると「天罰だ」と言ったりする。病気というのは基本的に加害者が居るわけではないのだけど、そこにも因果関係の推定が働いているのが興味深い。人為的な加害行為ではないにもかかわらず、そこにも「公正」に基づく判断がなされるということだ。これは「あの人は悪(という事前の評価)→病気(事実)→天罰(解釈)」と言う流れなのだけど、逆に「病気(事実)→この人は悪(事実から評価)→天罰(解釈)」という流れは有り得るだろうか?

 いずれにせよ、本来自身の心の安定を保つための自然な思考が、まったく誤った認知をもたらしてしまうことがあるということらしい。つまり、信念を維持するために、事実を信念にあうようにゆがめて認識する傾向が、多かれ少なかれ誰にでもある。 そしてそれは、誹謗中傷のたぐいへと繋がる恐れもはらんでいる。

 こういう本を読むたび、「自分も気をつけよう……」と思う次第ではある。