もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

読書メモ:医療倫理

 アトゥール・ガワンデの『医師は最善を尽くしているか(原題:Better)』は、ハッとさせられるような問題がいくつもあって面白い本(示唆に富む本、と格好つけて書くところだった)なのだけど、そのなかに、薬殺刑において医療従事者が処刑に参加することについて論じられている部分があった。

 高校のディベートで、死刑制度を認めるべきか否かというテーマでディベートをしたのを思い出す。今でも定番のテーマの一つだろうか? そしてこの話は、その枝葉の末端にある一つの現実的な問題なのだろう。それは死刑制度のなかでも、薬殺刑を念頭に置いた話だ。高校時代のわたしたちはおそらく意識しないうちに絞首刑を念頭に置いていただろうから、こんなことは考えもしなかった。

 けれど言われてみれば、確かにそうだ。薬殺刑の執行には医療的な専門性(医師のみではない)が必要になることは容易に想像できる。麻酔の注射にしても、医師や看護師ほどノウハウをもつ人たちは居ないだろう。薬品の取り扱いにせよ、死の確認にせよ、そうだろう。そこで医療関係者が参加することを考えるのなら(法、政治はときに医師らの参加を求め、ときに義務付けたという)、これは医療倫理に反するのではないか、という問題は当然出てくる。語弊を承知で端的に言えば、医師が死刑執行人になるのか、ということである。人の命を救うための技術を、処刑のために用いることが許されるのかということである(もちろん許すはずがない)。

 しかし薬殺刑がある以上、それを執行する人間は必要になる。そして円滑な執行のためには専門性が求められることは間違いがない。有事の際に対処できなければ、死刑囚は長く苦しんで死ぬことになるかもしれない。それは非人道的だろう。現代の米国はどうなっているのだろうかと思った。薬殺刑執行を専門とする、現代の死刑執行人でも居るのだろうか。

 もう一つ気になったのは、実際に医療倫理規定を知ってか知らずか、死刑執行に多少なりとも関与してしまった医師たちのことだ。その一人は、「病的プロセスか、法的プロセスかの違いだ」と言った。治療の望めない病で亡くなるか、法の定めによって亡くなるかの違いであり、いずれにおいても死が避けられないというのなら、苦痛を取り除くことしかできないと。

 果たしてその医師は本当に、独立的に自身の倫理にもとづいてそう判断できたのだろうか。そこには所在不明の、権威の力が働いていたのではないだろうか。

 医療倫理と法の論理が齟齬をきたしている。尊厳死問題もその種の話で、たいへん悩ましいもののようだ。以上、もの知らずはこんな話を読んだので大変刺激を受けた。