もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「読書の秋」

今週のお題「読書の秋」

 秋は外で本を読むのがとても楽しい。冬だと寒すぎて鼻水が止まらず、春だと暖かすぎてあくびが止まらない。夏は言うまでもない。だから読書の秋と言うのはその通りだと思うのだけど、近頃秋というものをとても短く感じる。秋に読める本は少ない。年老いたのか、気候が変わったのか。

 だから、読書の秋にはお気に入りの本を読む。その一冊が秋山徳蔵さんの『味』という随筆である。西洋料理に憧れた少年が天皇の料理番のトップ(主厨長)にまでなるというのだから、夢を叶えるとはまさにこのことなのだろうと思う。懸命な努力、拳での指導、昭和天皇や福羽逸人(とくに新宿御苑の造営で知られる)といった人物、この本を読むだけで懐かしい時代に逆戻りしたような気がしてくる(などと言って、わたしは生まれてすらいないのだが)。

 ところがわたしはそんな話よりも、秋山さんが幼少時代に乞食の金玉を棒でつつくいたずらをしたという話の方がやけに頭に残っている。まったくこの時代の悪ガキはとんでもないことをするものだ。いや、秋山さんだけか?

 そんな冗談はさておき、この本は大切なこともわたしに教えてくれる。料理というもの、そして生き方というものにもっとも大切なのは、心あるいは魂であるということ。こんなことを書いても「なにを」と思うかもしれないが、わたしはこの本を読むたびにそのことを肝に銘じようと思うのだ。

 秋山さんは、そもそも家庭の料理はプロの料理とは違うのだと言う。それはシロウトにはプロのマネなどできないということでは無くて、むしろ家庭の料理こそは、プロである著者が本当に美味しく食べることができる料理なのだと。

 それは何故か。そこには真心がこもっているからだと言う。

 ところが、ほんとうに良人を愛している女房は、たとえ料理は下手でも、どうしたら美味しく食べて頂こうか、これでは食べにくいからこうしておこう、汁が浸み出して手でも汚してはいけないから、紙を一枚入れておこう――そういった深い心遣いをしながら弁当をつくる。これが良人の心に響かぬはずはない。

 このように、料理を作る心は、世の中のすべてに通ずると、私は信じている。政治も料理だし、教育も料理だし、商売も料理である。

 この一文をわたしはたびたび思い出す。はじめてこの一文を読んだとき、わたしは胸が熱くなった。それは、なにも忙しい主婦のための時短テクニックや冷凍食品や出来合いの弁当を否定したいわけではない。大切なのは、自分の大切な人に、真心を持って接すること。そして真心を感じる心を持ち続けること。下手な料理を見て「下手だなあ」と思うだけではいけない。そこに真心があるかどうかを感じること。それが、料理一筋に生きた人が人生万般のことに見出した普遍的な教え、奥義とでもいうべきものなのではないか……。

 ひとつひとつに心を持って向き合うのは時間のかかることだけれども、その非効率さは必要なものなのだと、わたしはこの本を読むたびに教えられる。

 

(宣伝ではないけれど一応リンク)