もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

2/9 都民芸術フェスティバル  オーケストラ・シリーズNo.55  東京フィルハーモニー交響楽団

 2/9 池袋の芸術劇場で東フィル(指揮:出口台地さん、Vl:前田妃奈さん)によるチャイコフスキー作品。エフゲニー・オネーギンのポロネーズ、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第5番。アンコールはソリストによるタイスの瞑想曲、弦楽セレナーデのワルツ。

 やはり、チャイコフスキーはすごい! 今回も「やっぱり良い曲だ〜〜」と感極まる場面がいくつもあったし、聴くたびにそう思う。

 エフゲニー・オネーギンのポロネーズから、勢いがすごい。一発目からそんなにフォルテで大丈夫なのかと思いつつも、やはり良い曲だなぁとノリノリになった。

 ヴァイオリン協奏曲も出だしから思った以上にフォルテに聴こえて、「そんなに飛ばしていいの?」と少し心配になったり、「そんなに速くて、ソロのパッセージはどうなるんだ!?」などと余計な心配(というか期待というか)をしたけれど、そんな懸念を吹き飛ばしてエネルギッシュに弾きこなした。若々しい勢いを感じた。強く聴こえたのは、席の関係かしら。アンコールはタイスの瞑想曲で、か細く繊細な歌い回しで聴衆を惹きつけた。

 交響曲第5番、絶望からの勝利を思わせる4楽章(勝手に思っているだけだが)。"con desiderio e passione" の箇所。強い愛情。何度聴いても手に力が入る。チャイコフスキーが、時代を超えて、私の腹の底に向かって直接「頑張れよ」と言ってくれているような気がしてくる。いや、言ってる訳無いのだけど。アンコールは弦楽セレナーデのワルツ。

 余談。このホールは傾斜が浅くて、初めて前の人の頭が気になる思いをした。大きなハゲ頭であった。指揮者が見えない……まあいいのですが。

 帰りに「新人だから安いんだよ」などと語っているオジイサンが居た。私は(バカ舌ならぬ)バカ耳で、たいていの演奏は無批判に聴いて楽しんでしまうので、バカ者なりに幸せである。良い曲は、よほど演奏が破綻しない限り、その素晴らしさを脳裏に思い描くことが出来る。演奏を聴きながら、頭の中に本当の音楽を鳴らすことが出来る。それは、演奏を聴いているようで聴いていないとも言えるので、失礼な聴き方なのかもしれないけれど。

 温まった心を守るように抱きしめながら、家路についた。

寿司屋の「おあいそ」と、スタバの「呪文」

 寿司屋で「おあいそ」と言う人は未だに居るけれど、上島珈琲店で「ラージ三糖ワン」と注文する人は居ない。このことから、寿司屋で用語を使うことと、上島珈琲店で用語を使うことは何かが違う、ということを想像することが出来る。

 普通、上島珈琲店にあまり行かない人ならば、メニューに従って「リッチミルク紅茶の和三蜜を、ホットで、ラージサイズで」なんて言うかもしれないし、もう少し慣れた人なら一息で「ホットの和三蜜ミルク紅茶をラージサイズで」と言うかもしれない。それでも、通ぶって「ラージ三糖ワン」と言う人はまず居ない。

 そう考えると、スタバは特殊だ。スタバには呪文を使う人が居るからだ。カスタマイズの内容によっては40文字を超える場合もあるという。そんなものを頼む人が実在するのかは分からないが。

 寿司屋の「おあいそ」とスタバの「呪文」は、(出典は分からないが!)どちらも店員の符丁に由来する点では共通している。それでは、その違いは何だろうか?

 少なくとも、スタバの「呪文」は「おあいそ」よりは実用的な気はする。「おあいそ」を「お会計」と言い換えてもほとんど省略にはならないが、「呪文」はかなり省略されるはずだ。もっとも、「呪文」が正しく円滑に伝わるとすれば、という前提は付くが。

 とすると、上島珈琲店で「ラージ三糖ワン」と頼むのも、メリットはありそうなものだ。「ホットの和三蜜ミルク紅茶をラージサイズで」と言うよりも、「ラージ三糖ワン」と言う方がはるかに簡潔だ。それでも、「ラージ三糖ワン」と言う人は居ない。

 それは何故かと考えると、店員の符号を客が使うのは越権行為だという認識があるからだろう。それはある種の術語であり、特定の役割を持つ人たちだけが使うべき言葉なのだ。むしろ、「おあいそ」や「呪文」のほうが特殊だ。「おあいそ」も「呪文」も、これほど一般化された越権行為の例が他にあるだろうか?(こうした符丁が一般化した例を知りたいな、とふと思った)

 「おあいそ」に対しては、「店員の符丁であり、客が用いるべきではない」と異論が唱えられるようになってきたと思うのだが、「呪文」も同じ道のりを辿ることになるのだろうか。「客は呪文を控えるべきである」という言説がどれだけあるのだろうか。そもそも、「呪文」を実際に使う人がどれだけいるのだろうかとも思うが。

 ともあれ、こんなことを考えて、寿司屋で通ぶる人たちの姿に、スタバで粋がる人たちの姿が、時代を超えて重なるような気がして、思わず黒い笑いを浮かべてしまうのである。

ある一日

 朝から年に一度の病院受診のため、7時45分に自宅を出発、11時30分に終了。検査内容は、採血、レントゲン、心エコー、心電図。右脚ブロックがありブルガダ等と区別するために心電図を撮り直す。結果問題なく経過観察で良いとのこと。受診は来年。会計7850円。

 母と待ち合わせし、12時15分、池袋のリビエラ東京にて昼食。父の話、祖母らとの食事の日程の相談。途中から雪が降り始め、本降りになる。14時解散。会計二人で10560円。忘れた傘を受け取り。きちんと保管されていて安堵。

 15時、雪の中でのカフェ巡り、荻窪の「カフェキャンドル・Fイワモリ」にて小休止。深煎りコーヒーとバタークッキーのセットで750円。人が居ない喫茶店は、入りにくいし、ハズレもあるけれど、当たりのところは本当に素晴らしい。

 16時30分、赤坂見附上島珈琲店にて読書・勉強。店内広く雰囲気も良いので落ち着く。お気に入りの場所の一つで、帰り道にわざわざ立ち寄ることも多い。

 19時30分、帰宅して夕飯。遅れた恵方巻きと鍋。寒いのでゆっくり風呂に入る。

 22時、パソコンで動画を見ながらゴロ寝。リハックの安芸高田市の回。眠気が来たところで就寝モードへ。

 

偽社会人、もしくは社会人ごっこ

 最近、休日に「社会人ごっこ」をしている。というか、スーツ以外を着ることが物凄く少なくなった。

 休日なのに、ワイシャツを着て、スーツを着て、革靴を履いて、朝いつもと同じ時間に家を出発する。はたから見れば仕事勤めをしている人と何ら変わらないのだけど、実は休日である……という、しょうもない優越感も無いではないところが楽しみのひとつでもある。

 朝にカフェに行くと、仕事前に勉強している人や、簡単な準備作業をしている人などがいる。普段は私もその一員なのだけど、社会人ごっこの日はスーツ姿でだらだら本を読んだり、勉強してみたりする。

 それから図書館に行ってみたり、映画を見てみたり、公園を歩いてみたりする。スーツとカバンで昼間から公園を歩くさまは、恐らく世の中の「異物」なのかもしれないけれど、学校をサボるのと似たような楽しみと言えるかもしれない(学校をサボることを奨励する意図は全く無いのだが)。先日は、新宿御苑へ行って弁当を食べながらのんびりした。黒いスーツに黒い鞄を持って。

 私の持っているスーツはほとんどパターンが決まっていて、コーディネートなどを考えずに済んで楽だし、読書や勉強をするにも気が引き締まる効果もある。また、どこへ行ってもさほど違和感がない。いろいろな意味で楽なのだ。むしろ、カジュアルな服のほうが難しくて、あれこれ選んでダサくないようにするほうが、よほど大変だ。とはいえ、年中スーツというのも異常なのだろうが。

 そんなわけで、この世界のどこかに、今日も偽社会人が少なくとも一人は存在した、というわけである。

ドラマ感想:最高の教師 1年後、私は生徒に■された

 気がついたら年が明けていた……。ようやく「最高の教師」を7話から一気に最終話まで見れた。9月放送で今さらかよ、と自分にツッコミを入れつつ。

 いや~面白かった。私は音楽でもアニメでも、なんでも面白い面白いと言って鑑賞するバカなのだけど、ドラマや映画はあまり見ない(例外は「相棒」シリーズなどごくわずかだ)。時間は有限で、さまざまなメディアから選択せざるを得ないなかで、一時間じっくり向き合うメディアというのは、結構ハードルが高くなってしまっている。

 そんな私が本作を見たのも Hulu に上がっていて何となく見始めただけなのだけど、考察要素ありでメッセージ性もあり、私の好きな雰囲気があった。キャストも芦田愛菜さんがすっかり成長されていてまさに光陰矢の如し、また主演の松岡茉優さんが美しすぎて二度驚いた。そして主人公の夫、九条蓮(松下洸平)が素晴らしすぎた。あたしゃ男だが惚れたよ(しかし、彼女の最後の日だと言うのに、その覚悟を聞いて彼女を止めずに自分が絶対に助けるのだという方向に考えをシフトできるのは、聖人すぎやしないかい?)。

 話が先走ったが、総じて感想を言うと「変化がすさまじい」と言うことに尽きる。とくに一話の絶望感を味わうと、最終話近くで加害者の生徒たちが嗚咽交じりに謝罪するのを見て、「人間そんなに変わるものか」と思ってしまう私は、人間の良心に対して悲観的すぎるのかもしれない。青少年は大人よりも可塑性があるとは思うけれど、それでも、である。というか、私自身が「変われていない」側なだけか。

 最終話で印象に残ったのは、星崎が転落したところを先生(九条里奈)が繋ぎとめる場面。星崎が「色がついてるわ、みんなに…………変わったね」というところのカットがなんという爽やかさ。あの笑顔をどう解釈するだろう、変わりゆく世界の観察者で居られて幸せだった(と同時に、自分がいかに変わりようがないかを痛感した)、この瞬間以上の幸せは無い、もう死んでもいい、と思ったんじゃないか、というのが悲観的な私の見解。

 あと、ちょいちょい印象的なセリフが出てくる。

悲しいことは、いつも青空の下で起きてしまうものだな、と

 とか。

 物語全体を通して、迷いやすい時代だからこそ立ち止まること(憶測で断定しない)や、声を上げる強さを持つこと、自分への言い訳を重ねないこと、などが繰り返し現れていたと思う。これは書籍でも最近再び注目を集めた「君たちはどう生きるか」や、最近読んだ「「集団の思い込み」を打ち砕く技術」を思い出す。ちょうど時勢を捉えたメッセージのような気がする。

 とにかく面白かった。タイムリープと「■された」ことの関係は最後まで分からなかったけれど、まあ些末なことか。やっぱりドラマも面白いな、と思わせてくれるものがあった。