もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

散歩日記:新宿~住吉、原宿~赤坂見附

10月23日(自転車)

 健康診断を終えたのが午後2時、それから新宿へ行って用事を済ませ、レンタサイクルで住吉まで行った。住吉が目的地だったわけではなくて、とにかく東へ、と思って力尽きた場所が住吉だった(笑)

 新宿の京王プラザホテルから甲州街道に出て靖国通り京葉道路、と大通りを行く普通のルート。アップダウンがあるのと、中途半端に自転車道が整備されているためにかえって自動車に気を遣う(そしてまた路上駐車が多い!)のと、自転車が重たい*1のとでけっこう疲れた。利用時間は1時間12分で、料金は430円だった。

10月25日

 仕事終わりに原宿駅から赤坂見附駅まで歩いた。原宿駅で用事を終えた夕方、程よく冷えた秋らしい風に誘われて、久しぶりに歩きたくなった。青山通りをずっと歩いてみた。陽が落ちるのもずいぶん早くなった。夕焼けがだんだん夜空に変わってゆく中で、薬研坂から見える六本木のビル群を見ながら、これぞTOKYOだなあと思った。

*1:ママチャリ同然のレンタサイクルでこんな距離を乗る人がどれだけ居るのか?

続きを読む

他人をお茶に誘うのは難しい

 他人をお茶に誘うことはなんと難しいことだろうか。とりわけ仕事の場において男同士というのは酒ばかりでお茶が無い(私の狭い世界に限るのだろうが)。

 なにかを語り合うなら、お茶の方がよいと私は確信しているのだが、「飲み行きますか」とは言えても、「お茶行きますか」とは言えない。やはり男たるもの酒であるというような、見えない壁がある。

 「お茶」と言うより、「喫茶店」や「カフェ」と言ってみたらどうだろうか。「喫茶店でも入ります?」というように。いや、それでも難しい。もしかして、もしかしなくても、単に私が嫌われているだけなのではないか?

 それはともかく、飲み会と比べると、お茶会ならではの良さというものもある。アルコールが入らず、それでいて気軽な雰囲気もある。アルコールが入ってしまうとどうしても真面目な話はしづらくなってしまう。というより、先日もそうだったのだけど、気持ちのいい当たり前の主張ばかりを叫んだり、酷いときには激昂する人すら実際に居る。だから、ある程度真面目な話をしたいときには、やはりお茶会が良い。

 仕事場のような堅苦しさもなく、飲み会よりは真面目な話も出来る。そして、喫茶店でしか引き出せない話が意外と多いのだ。それはおおむね2つあって、一つは個人の性質的な情報である。その人の思想や人間性などは、日常の何気ない場面でこそ見える気がする。

 もう一つは、道具的な情報、つまりそのまま役に立つ情報だ。気軽な雰囲気で話すことで、より本音に近い部分が出てきたり、普段聞けないような話が出てくることが少なくない。

 こういうことで、カフェは非常に役に立つと思うので、私は他人をお茶に誘いまくりたい。今は厳選して「話を聞きたい人」にだけ誘いをかけているのだが、もう少し広げたほうがいいなと感じている。仮に「あんまりこの人とは合わないな」と分かっても、合わないという事実が分かるだけでも得られるものがあるし、損失といってもわずかな時間と、一杯のコーヒーが無駄になるだけだから大したこともない。お茶会がもたらすものは、意外と大きいように思う。もし、お茶会に誘うことが出来れば、の話だが…………。

回転寿司にて

 夕食に少しだけ高級な回転寿司に行った。食事時で満席なのに板前が二人しか居ない。それで嫌な予感はしていたが、案の定、注文した品がいくら待っても来ない。私は板場に注文の伝票が溜まってゆくのを見てひとり苦笑いしながら、気長に待とうと覚悟を決めてスマートフォンをいじっていた。

 するといきなり奥の方から体格のいい別の板前が来て、緊迫した声で「代わって!」と言った。そこからが凄かった。見る見るネタが握られてゆき、増えゆくばかりだった伝票が減り始め、「ご自由におとりください」のわさびしか流れていなかったレーンには人気ネタのサーモンやぶりが流れ始めた。板前が変わっただけで店内が劇的に一変した。ベテランと新人にはそれだけの差があるのだと感じ入った。

 例えて言うなら、熾烈な戦場に鍛え上げられた戦士と、ただただ戦場に圧倒されて呆然と立ち尽くす一兵卒の差のようなものかもしれない。

 気持ちの上で言えば、仕事を戦いに、仕事場を戦場になぞらえるのは、相応しいように思う。予定通りに進むことなど全く無い。そもそもすべきことが目一杯あって、しかも毎日予定外の出来事が突発的に起こる。そのなかで何とか目標を達成しようと誰もが懸命に働いているのだ。そうした責務を背負う人たちには、新人だろうとベテランだろうと緊張感が流れている。ただ、鍛え抜かれた戦士と一兵卒の間にはあまりにも大きな隔たりがある。それは戦況を一変させるほどの力の差だ。それでも、一兵卒もやがては戦士となるのかもしれない。人間の適応力と言うか、可塑性と言うか、成長する力にはつくづく驚かされる。むしろ、それだけの時間を私たちは与えられている、と言うことなのかもしれない。

「いじめられる方にも原因がある」という考え方について

 浅はかな考えに過ぎないことを承知の上で、考えたことを書いておく。

 「いじめられる方にも原因がある」という考え方は、意外なほど世の中に浸透しているように感じている。さすがにいじめ自体を容認する時代では無いと思うけれど、バイアス自体は根深く残っているのだと感じる出来事が立て続けにあった。

 周囲の人間が厳しく諫めるべきところなのに、彼らは問題行動自体を認めなかったり、安易な両成敗論で片付けようとする。問題行動は標的を変えて繰り返され、そのたびに「彼女の行動には問題があったが、言われた彼女にも理由の一端はあった」などという論法が繰り返される。

 彼女の行為がいじめやモラルハラスメントに該当するかは分からない。反復性は無い(特定の個人を執拗に狙ったものではない)。暴力行為も無い。しかし、職務上の指示の範囲を明らかに超えて、人格否定を含む感情的な叱責ではある。そして、数々の人間を傷つけ、去っていったケースもいくつかある。恐らく実害が出ている。

 こういう微妙なケースでは、安易に両成敗論として片付けてはいけないことも多々あると思う。問題の根本を放置している限り、見た目以上に問題が広がっていたり、深刻であるかもしれない。

 とはいえ、認定の難しい問題行為に対して取り組む難しさもある。犠牲者を出しながら、証拠を積み上げてゆくしか無いのかもしれない。組織がバイアスに基づく安易な判断を下しがちなのは、問題を認めて処分を下すよりも、現状を維持するほうが、組織の負担がはるかに少ないからだと思っている。

 私が社会に対して、他人に対して、潔癖過ぎるのだろうか、と自問する。あの人にも良いところはあるから、仕事に熱心だから、成果を上げているから、仕方がないのだ……と、割り切るべきなのか? それにしても、実害のほうが大きすぎると私は思う。そもそも、便益が上回れれば許されるという考え方自体、成り立たないのだが。

 単刀直入に言えば、問題はこうだ。問題を繰り返し、目に見えにくい実害を生む人、性格的に難のある人をどうするのか。どこからどこまでを問題として認めるのか。そして、どこからからどこまでを処分の対象とするのか。処分の程度はどうするのか。

 組織の健全性を保つために、どこかで手入れは必要だろう。100%は有り得ないが、ある程度以下になってはいけない。人間同士が働くというのは、つくづく難しいものだと痛感する日々である。

わたしがブログを書く理由

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 私がブログを書くのは、手紙を瓶に詰めて、海の向こうの誰かに託すようなものである…………なんていうのは美化しすぎていて、実際には、通りのゴミ捨て場にゴミを捨てるようなものだと思っている。それが卑下しすぎているとしたら、しょぼくれた野郎が街頭で独り言をつぶやいているようなものだと思っている。つまり、そこに何らかの価値を見出して、耳を貸してくれたり、返事を返してくれる人のほうが稀有なのだ。

 それでも、断続的とはいえ十年くらいはブログを書いてきた。需要を一切考えずにこれだけ続けてきたことを改めて考えるなら、それは自分にとって小さくない意味があるからなのだろう。

 私がブログを書き始めた理由は、「自分の見聞きしたこと、思ったことや考えたことを記録すること」であったし、今でもそれは変わらない。スマホひとつで書けるので、なんだかんだで楽なのだ。

 けれど、本当に記録したいだけなら、わざわざそれをブログとして公開する必要はない。だから、自覚はないけれど、「誰かに何かが伝わればいいな」という思いも無くはないのだと思う。しかも、その「誰か」というのも想像上の「誰か」に過ぎなくて、実はまったく居ないのかもしれない。それでも、「誰か」に対する言葉として自分の思考を書くというのは、日記とはまた違った楽しみがある。

 無性に誰かにそばにいてほしいときや、無性に誰かに何かを伝えたいときに、その「誰か」に向かって言葉を発することが出来るのが、ブログなのではないだろうか。例えば、夜に寝ようというときに爆音のバイクが通って腹が立てば「うるせー!!」という怒りを数百字にわたって書き込み、電車のホーム待ちでいかにも割り込みそうな人の特徴を観察した結果を書き込む。そんな言葉すらも、数年経てば思い出として笑い話になる。今でもときおりブログを書こうという衝動がこみ上げてくるのは、そんなどうでもいいことを、「誰か」に対して伝えたいという強い思いに駆られたときなのかもしれない。十年続いてきたのは、その繰り返しに過ぎない。これからも、この衝動が消えない限りは、ブログを書く習慣が無くなることは無いだろう。

 私にとってブログを書くことは不思議なもので、外向きのようでいて内向きな行為であるし、内向きのようでいて外向きな行為でもある。この不思議なところに、少なくとも私にとっては、ブログを書くことの一番の楽しみが隠れているように思う。