もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

感想「コンビニ人間」

 小説はあまり読まないのだけど、今さら「コンビニ人間」を読んだ。面白かった。ただ、どう面白かったかと聞かれるとうまく考えがまとまらず、むしろ他の人の感想を読むことで自分の感想が浮かび上がってきたような気がする。以下、個人の感想、一人読書会。

 初めに他の人の感想を読んで思ったのは、「主人公(恵子)はありふれた普通の人間」という感想への違和感です。いや、普通ではないよなあと。たしかに、コンビニという職場に居ることによって社会と繋がっている人間、仕事そのものがアイデンティティになっている(=仕事を取ったら何も残らない)仕事人間という意味ではありふれた人間かもしれないけれど、小学生時代に喧嘩する男の子たちを止めるためにスコップで殴ったとか、やっぱり普通ではない。目的に対して倫理観をすっ飛ばして合理的に考える傾向がある。

 とはいえ、この小説がそういう「異常」な人間を個性として肯定したり、「普通」であることを強制する社会のいびつさを描いているのかというと、それもそんなに説法めいた感じはしない。ただそういう社会があって、主人公の恵子もそれを感じていて、なんとか適応しようとする。その成れの果てがコンビニ人間だったのだなあ、という気がしています。

 恵子がコンビニという場所について語るときの、「強制的に正常化される」「異物は排除される」という言葉が印象的です。生まれも育ちも異なるさまざまな人間が、マニュアルの下で同じ「店員」として作り変えられる。そこにやってくる「客」も同じです。そして異物として生きてきた恵子は、自分が「店員」になることによって、正常な人間として生きる術を見つける。それはある程度成功して”いた”んですね。両親は社会不適合の娘がアルバイトを始めて「普通」になったと知って喜んだ。

 けれども、30代も半ばになると、独身かつコンビニ店員であることが女性としてどうなのか、という社会の圧力が主人公を襲います。主人公はそれにも適応しようとして、白羽という訳の分からない男と同棲生活を始めます。主人公の妹は、色恋沙汰のない姉も同棲を初めて、やっと「普通の人間」になってくれたのかと喜ぶのですが、主人公にとっては社会の圧力に適応するための方策に過ぎず、性愛はまったくありません。目的に対してとにかく最短経路を突き進むような、短絡的過ぎるともいえる考え方を、妹や家族や周囲の人間は「異常」だと言うのです。

 白羽の同棲生活をきっかけに、コンビニの「店員」たちも主人公を「普通の人間」として見るようになってゆきます。恵子目線で読んでいると、ずっと同志だった「店員」がみんな寝返ってゆくような場面で、もうここは絶望しかないんですよね。

 このように、幼少期からずっと「普通」になろうと努力をし続けた恵子の遍歴を読むと、自分がどこまで行っても「人間」ではなく「コンビニ人間」なのだと自覚した最後は、恵子にとっては本当の自分を手にしたような幸福感に包まれたハッピーエンドだったのではないかなと思います。けれどそれは、普通であろうとするために努力し続けてきた自分が、自我そのものに張り付いて剥がれなくなってしまったかのような息苦しさも感じるんですね。本当は役割を演じて、そこに周囲の人間の顔を貼り付けることで人間として振舞ってきたのだけど、その仮面が取れなくなって一体化してしまったような。ピエロの悲哀と言いますか。

 してみると白羽という男は表面だけでも取り繕ってきた恵子とは対照的で、丸裸で社会に打ちのめされた人間のようにも思えます。縄文時代のオスメス理論(謎)を唱えて、自分を正当化している。暴言もどこかで聞いた他人の受け売りを繰り返しているだけで、その空虚さはどこか恵子に似ている気もするんです。けれど、やっぱり恵子とは違って、白羽は徹底的に異物。コンビニの論理から言えば排除された人間。恵子を引き留める最後の場面も、白羽渾身の叫びですよね。

 そしてなにより、こうしたことを主人公は客観的に観察しているのが恐ろしい。物語が全体的に何かを主張しているわけではなくて、ただただ主人公が観察者として、自分さえもその対象にしながら描いている視点に、底知れない不気味さが感じられます。

 書きなぐりで考えの足りない部分も多いと思いますが、とにかく面白く読みました。色々な見解が出たり、面白い問題提起をしている小説は読んでいても頭を刺激されますが、この本もそういう類いの本ですね。

 

「〜の秋」

 「〜の秋」とはよく言ったものだ。過ごしやすい気候で元気があるから、色々なことをする気力もある。そのことをあらためて実感するような、心地の良い一日だった。

 真夏の厳しさはハイテクの進む現代でも変わりなく、それどころか、自然の暑さと人為的に作り出される涼しさが相競うように互いに強さを増しているような気もする。つまり板挟みの圧力はますます高まり、しかも体は年々衰える、となれば、堪えないはずがない。

 今日の天気に、秋が訪れたのだなと、思わずホッとした。「〜の秋」とはよく言ったものだ。正直、真夏はまともに本も読めず、食も進まず、運動も夜深くにコソコソっとゴキブリのように這い回る程度で、まともに生きていた実感がない。だからこの秋は「きちんと生きるぞ」と、今から張り切っている。

今日の夢

 森に一本の細道があり、そこを子供が駆けてゆく。私はそれを難なく追い抜いて、ある小学校に辿り着く。転任する教師が最後の日に二人の児童を学級委員に任命する。「名寺(なじ)についてけ!」と言うのは、名古屋の寺という意味で、伝統を守れ、みたいなニュアンスらしい(当然そんな言葉はない)。先生と分かれた放課後、他の児童たちもそんなことを言っていた。私は取材者的な立場だった。

 狭い扉(飛行機が通るにしては狭すぎるだけで、実際には巨大)をF4戦闘機で潜る。外は白い空間でまぶしい。Uターンして戻ると、中は近未来的な格納庫だ。失速寸前の速度で格納庫を滑空すると、別の広い出口から再び外に出る。

 あるマンション(夢の中ではそう思っているが、いま私が住んでいるマンションだ)に泥棒に入る。外に出て、廊下の端から雨樋を伝って一回へ降りる。監視カメラに自分の特徴が映らないよう、スパイダーマンのように滑空しながら、真ん前を一瞬で通り過ぎる。

 山場。人工的に盛り上げられた場所で、ゴミなども多く廃棄されている。通りすがりの自転車に乗った若者を呼び止め、私は「自転車を貸せ」という。彼は自転車を貸さない代わりについてきた。私は何らかの犯罪者で、彼は「私があなたなら、自首するけどなぁ」と言った。私は「最近大学院生が殺人を犯した件があったでしょう、あれも知的な犯罪だった」と言った。森の至るところにゴミが散乱していて、私はそれを拾って隠れ家を作るつもりだったのだが、何故かふとそれを諦めて、自首しようと決意する。若者にゴミを託し、取材者が若者に押し寄せる。若者は「さあ、どういうつもりだったのか……」と答えていた。山にはまだゴミが散乱している。

2022年7月8日

 2022年7月8日は歴史に残る一日になるのだろう。多くの人と同じように、私も複雑な思いがある。けれど一つだけ異論があることを承知で述べるなら、「民主主義への挑戦」という言葉に違和感を覚えた。民主主義の根幹たる選挙の最中の出来事であったという発言が、伝言ゲームのように、いつしか民主主義への挑戦という言葉へと変わっていった。けれども、この2つは当然本質的に違う。それをあえて同一視するのは、政治的に利用するために他ならない。

 私が思うのは、ただただ、命が奪われることの理不尽さと、これまで生きていた人間が突然に居なくなるこの世界の呆気なさと、それらに対して何もし得ない私の矮小さ、それらが一体となった無力感だ。

(その後数日が経ち、ようやく影響の大きさを本当に理解し始めたように思う)

まずい蕎麦

 「当店のそばは十割そばですので、まずはそばの風味を楽しむために、そのままお召し上がりください」と言うそば屋が美味しくなかった。私が美食家を気取りたいわけではなくて、誰でも分かるほどに風味が無かった。

 私がそんな店主だったら、恥ずかしくてたまらない。単にまずいだけでも職人としては恥ずかしいだろうと思うけれど、それを自信たっぷりにそのまま食べてくれとまで言い切るのだから、こんなに恥ずかしいことはない。

 私はそのそば屋を貶すつもりは全くない。むしろ私自身にとって強烈な教訓となった。こういう過信の落とし穴は常にあるのではないかと思うと、ゾッとした。職人でさえそうなのだから、凡人の私は尚更そういう過信に陥る恐れがある。

 謙虚さと自己批判の眼差しを持ち続けないと、その誇りはあっという間に傲慢へと姿を変える。そのことにどこかで気がつかなければ、裸の王様として街を歩き回ることにもなりかねない。

 自己批判を加え続けることは、厳しく険しい道のりかもしれないけれど、自分の心底好きなものであれば苦ではないかもしれない。本当に好きなものなら、それを改善したい、より優れたものを作りたい、と思うのは自然なことだ。

 けれど、そもそも好きなものを好きで居続けること自体が、実は難しいことなのかもしれない。単に飽きてしまうこともあるだろうし、生活がかかっていれば、好きだという純粋な思いを忘れてしまうかもしれない。そう考えると、熱意を持ち続けて人生をそれに捧げようとすること自体が、とても尊い営みのようにも思えてきた。

 まずいそばを食べ終え、鴨せいろ二千円は勉強代だと思って支払った。「お味はいかがでしたか」と聞かれて、「ああ、美味しかったですよ」というなんの中身もない嘘が自然と喉から出た。