もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

良い喫茶店は手入れされた庭のようなもの

 行きつけの喫茶店(カフェ)がある、ちょっとした優越感。

 今日はFP(ファイナンシャルプランナー)の試験の日で、朝から受験者と思しき人たちがせかせかと歩いている。朝8時だというのに街なかのスタバもコメダもすでに混雑している。が、私は空いている店を難なく選びだした。ここは勝手知ったる我が地元。いや、地元ではないのだが、学生時代から今に至るまで使い続けてきた街だ。自分の避難所はいくつも用意してある。平日の昼時には熟練したサラリーマンですら「難民」になることもある恐ろしい街だが、朝ならば空いている店を見つけることなどお手の物である(まさに朝飯前だ)。

 ここは有名なチェーン店ではないし、雰囲気的に少し入りづらいから、新参者はあまりこの店を選ばない。スタバやコメダが溢れかえっているのを見ると、ちょっとした、いや、正直、かなり満足感がある。優越感というよりは、人混みを避けて安息の地を得たことに、一安心するのだ。

 よく、カフェや喫茶店の価格には場所代が含まれていると言うが、そうだとするならば、満席の落ち着かない店と空席の店ではまったく価値が違うように思える。少なくとも人混みが苦手な私は、人が少ないことにかなり価値を感じる。正確には、人が多いことによって感じる不快感を回避できるという、消極的な満足感だ。だから、料理やサービスなど、その他の要因がそれほど変わらないかむしろ良いと思うなら、空席が多いことはとてもよい。店には良くないかもしれないが、価格が高くても私は訪れたいと思う。それだけ、この快適さはかけがえのないものなのだ。

 その点で言えば、経済的に最も損だと感じるのは、高いのに満席になっていて、雰囲気も良くない喫茶店だ。客層というのは価格にあまり比例していないと感じている。むしろ、その場所の雰囲気はマスターの人柄や姿勢にかかっている気がする。ちょうどガーデニングのように(やったことはないが(笑))、水を与え悪い芽を摘み取るのと同じように、手を入れて、良い環境を維持する。大声で話す客や、店の雰囲気も感じずにパソコンをカタカタ言わせに来る客をあえて注意するマスターは明らかに少ない。いまや、「カネを払っているのだから、いいだろ」という言い分が通りかねない世の中だ……というのは、厭世的に過ぎるだろうか。

 ともあれ、そんなことを考えていると、私はよく手入れされたこの庭を楽しませてもらっているのだ、という気がしてくる。この主人がいるあいだだけ、楽しませてもらっている。今、こういう場所は本当に少ないものだ。

街なかのリス

 先日、赤坂見附の街なかでリスが死んでいるのを見かけてしまった。リスを見かけることも珍しい都会で、まさかその死骸を見ることになるとはつゆほども考えていなかったから、思わずその場に立ち尽くしてしまった。むき出しになった臓物。安らかに、とつぶやいて、私はその場を通り過ぎた。

 その死骸は、翌朝には跡形なく綺麗に片付けられていた。リスを見た一部の人間を除けば、誰も、ここでリスが死んでいたことなど気がつかないだろう。もちろんそれは、誰かが片付けたからである。

 こういうことを体験するたびに、私は清掃という仕事の偉大さに感じ入る。清掃という仕事はなかなか報われない仕事だと思うのだ。なぜならその仕事は何かを作り出すことではなく、元の状態にすることだからだ。

 人は、何かを作り出したことは評価するが、何かが同じ状態であるということはなかなか評価しない。街の光景が同じであるということを、当たり前のこととして考えやすい。それは例えば、健康な人間が一日を難なく過ごせたとしても、それを何とも思わないのと似ている(むしろそれが健全だ)。しかし実際には、それは身体の働きによる恩恵に他ならない。こういうことからも、何もないことが仕事の成果であると認めるには、ちょっとした想像力が要ることが分かる。

 リスの死骸は翌朝には何事もなかったかのようにきれいになっていた。真っ黒なアスファルトの上にリスが死んでいたことなど、誰も気が付かないだろう。それはもちろん、自然の分解作用などでは決してない。片付けた人がいるからだ。きれいであることは都会にとって当たり前であると思いやすいが、実は、それは人間の立派な働きによって支えられている。

 それはちょうど、私が今日一日を無事に過ごせたことが、私の身体の働きによる恩恵であるのと同じように見えにくい。しかし、極めて大切なことだ。きっと多くの人がそれに気がつくのは、自身の身体の機能が脅かされたときであり、街の清潔が著しく脅かされたときなのだろう。

 今日一日のありがたみを知ることが難しいのと同じように、清掃のありがたみを知ることも難しい。それは、心の眼を向けて、表面には見えないものを見ようと思わなければ、見えないのだ。

(メモ)ホテル宿泊記録

 実は、最近用事でホテルに泊まることが増えたので、ちょっとメモ。私は寝れればいいと思っているし、経済力貧弱なので安ホテルばかり泊まっている。いつか高級ホテルに泊まりたいものだ。

 当然、旅行というとCOVID-19の懸念があるが、一人旅行でなるべくリスクを低減したうえで行っている。

メモ

 2月28日~3月1日、ホテルメトロポリタン鎌倉。鎌倉小町ダブル。用事ついでに人混みを避けて観光。佐助稲荷神社。葛原岡神社~北鎌倉駅のハイキングルート。山の影が作り出すコントラスト、岩の間を吹き抜ける風。鶴岡八幡宮由比ガ浜の海。行き帰りは混雑が嫌だったのでグリーン席。(小町通りと、銭洗弁財天、葛原岡神社は大混雑。金と恋愛が大好きな若者が殺到していた……。)

 3月15-16日、東京ステーションホテル。系列のクーポン券をもらったので思い切って宿泊してみた。パレスビューのツイン。行幸通り正面に近い部屋。朝6時半、アトリウムの朝食ブッフェは誰もおらず。時間もそうだが宿泊客の少なさ。天窓から光が差す。

 4月24-25日、三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア。予想以上に家族連れが多かった。新国立競技場近くで人気がある。仕事で来るべきではなかった。家族連れの親たちが夜0時ごろまで騒いでいた(やはりこの時期に来る家族連れはそういう人びとだ)。朝食のブッフェはまずまず、コスパはあまり。

 4月27-28日、KOKO HOTEL 銀座一丁目。寝に泊まった。3000円程度で破格の安さだったが、部屋は清潔、清掃も行き届いていた。奥行きはないがデスクがあるのが嬉しい。東銀座でたこ焼きを買い(大阪風のやわらかいたこ焼きで絶品)、なか卯で親子丼を買い込んで、部屋で一人パーティー

 5月4-6日、ホテルリズペリオ赤坂。宿を探していたところ、一休セールにつられて宿泊。セミダブルからダブルへグレードアップしてもらったが、ダブルはデスクが小さい。仕事ならセミダブルのほうがいいだろう。バスは無く、シャワーブースのみ。シャワーブースはバスこそ無いがトイレが分かれているので、ユニットバスよりは好きだ。スタバでベンティサイズ(大きい)のティーラテを買って、一人おうちカフェ。翌日オーバカナル紀尾井でハムとチーズのサラダ(ハーフ)、ステーキ&フリットを。お喋り客とは距離を置いて、一人で黙食。オープンテラスは眺めはいいが、貪欲なスズメが殺到する。おばさまがロケーションに釣られてテラス席を選んだところ大変な目に遭っていたので、おばさま方はご注意あれ(余計な一言!)。

お金もないのにグリーン席に乗る

 最近JRに乗るときは、お金もないのにグリーン席ばかり乗っている。それまでは高いと思っていたから乗ることなど無かったのだが、コロナ禍によって、他人と密接せずに乗車できるということに相当な価値を感じるようになったのだ。

 もともと人混みは苦手だったが、最近はますます拍車がかかり、ついに人混みにいるだけで精神的に絶えず不安を感じるまでになってしまった(正確には、不安を感じるというより、安心できない状態、と言ったほうが当てはまる)。しかも、その気持ちは和らぐどころか日に日に強まるばかりである。

 グリーン席は、たかだか大崎から池袋程度(二十分くらい)でも八百円程度の追加料金を支払わなければならない。遠距離ならともかく、普段乗るような距離では通常運賃の何倍にもなる計算だ。だが、今ではそれを高いと思わないほどに、満員電車に乗ることの不安が増大している。そして、相対的に、グリーン席に乗ることで得られる安心感が大きくなっている。社会の状況が変わり、満員電車に対する意味付けが変わったのだ。価格は変わらず(たぶん)、グリーン席のサービスも変わらないのに、その価格とサービスに対する私の価値判断が変わったのだ。これがなんとも面白いことだと思う。

 ただ難点は、この在来線のグリーン席は自由席なので座れない可能性があるということ、そしてもう一つは、酒臭い「おっさん」なる生き物が乗ってくる可能性があることだ。おっさん(中年男性のうち、何処に居ても嫌われる特徴をコンプリートして併せ持つ愉快な生き物のこと)という生き物についてはまた別に書くとして、自由席というのは中々怖い。座ったときは自分ひとりなのに、駅につくたびに乗ってきて、降りるころには満席ということも珍しくない。座れなくてもグリーン席料金はとられる。今のところは座れなかったことはないし、座席が埋まってきて隣に誰かが座ることもなかったが、次第にグリーン席の魅力に気づき始める人が増えるのではないか……と考えて、勝手にそわそわしている。