もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

回転寿司と衛生

 「極めて衛生的!」と、回転寿司屋のポスターに書いてあった。確かに寿司屋は衛生的でないと困るのだけど、衛生的であることをウリにされるとかえって不安になってしまう。まあ、私がひねくれているだけなのだけど。

 それで考えてみると、数年前、近所にオープンしたもう一つの回転寿司も「極めて衛生的」だったことを思い出す。店のなかは病院のように、壁もテーブルも真っ白だった。席に座ると、なんだか寿司屋というより近未来に来たような気がした。それも、超管理社会だとか、ディストピアと呼ばれるような、悲しい未来だ。調理場に入るスライド式のドアはまるで手術室のように厳かで、稀にそこをダース・ベイダーの手下のような店員が出入りする。専用のレーンに乗って寿司が運ばれてくるのだが、これも寿司よりは完全食(一粒で一食分の栄養を補給できるキューブ状の食料)のほうが似合う。

 なぜ、それほどまでに衛生的であることをアピールするのだろうか。いや、衛生的にしても、この店は客に何を伝えようとしているのだろうか? もちろん今の回転寿司では衛生的であることが重要で、逆に不衛生だと思われることが致命的なのは分かる。だが、この近未来的な演出の意味がよく分からない。

 魚という大自然の産物を取り扱いながら、あたかもそれと対立するような、明らかに人工なデザイン。いっそ、魚などにこだわらず、ハンバーグやら生ハムやら、イロモノに絞っているのなら分かりやすい。「そういう路線」なのだと分かる。しかし、品揃えはむしろ魚に絞っている。このギャップは何なのか。

 とても意地悪く見るのなら、それは、人間社会が自然を征服したというメッセージなのかもしれない。綺麗に言えばスタイリッシュと言えなくもないけれど、率直に言えば、自然と全く調和していないのはそういうことだと解釈できる。この回転寿司屋のテーマは、支配、である。

 寿司屋から自然を剥ぎ取るのなら、ネタからもシャリからもしっかりと自然を剥ぎ取り、人工路線を極めなければ、一貫性がない。しかしそれでは、もはや回転寿司とは言えないだろう。

 こう考えると、衛生的であることは寿司屋(回転寿司)にとってもちろん必要な大前提ではあるのだが、それは寿司屋のウリにはなり得ないというのが、この店で私が辿り着いた、私なりの結論なのだが、どうだろうか。

 …………いやいや、考えすぎだ。もっと単純に、善意的に、「きれいで、洗練されたお店なのだ」と思って楽しめばよいではないか。しかし、肝心のネタが旨くない。致命的だ。生魚の悪いものは誰にでも分かってしまう。子どもの頃に食べたホタテを思い出す。子どもの頃、安い寿司屋のホタテを食べて、臭すぎて飲み込めないままトイレで吐いた。傷んでいたわけではないが、冷凍のまずいホタテだった。そしてそれがトラウマになって、大人になるまで食べられなくなってしまった。再び食べられるようになったのは、北海道の立派なホタテのおかげだ。

 こんなことを考えながら、会計を済ませて店を出た。安く腹いっぱいになったから満足はしたのだけど、新しい回転寿司のコンセプトは、ついに私には分からなかった。

ロベルト・ゼーターラー「ある一生」

 ロベルト・ゼーターラー「ある一生」を読んだ。最近の私は、人が生きて死ぬことや、老いることを含めて、「生きること(どう生きるか、なぜ生きるか)」についてどう考えるかということに関心があって、その周辺の本をたまに読んでいる。この本も、その一つだ。

 アルプスの山麓で、時代に翻弄されながら一生を生き抜いた男。その人生は妻との死別や徴兵などもあったが、総じてその時代にありふれた、しかし掛け替えのない人生だった。

 主人公のアンドレアス・エッガーは幼くして母と死別し、引き取られた農場主から虐待を受けながら育つ。エッガーは知恵遅れではあったが逞しく成長し、農場主のもとを離れて自力で懸命に働き、人生を切り開く。村の食堂で女性と知り合い結婚するが、雪崩によって奪われる。懸命に働き続け、ロープウェイの建設に多大な貢献を果たす。やがて第二次世界大戦が始まり、エッガーは自らの意志で参加、ソ連に赴く。戦後は地元に帰り、年老いたエッガーはこの地に精通したガイドとして人気を得るが、しだいにこの職を離れ、充実した孤独へと向かってゆく。

 エッガーの人生は、客観的に見れば、ありふれた人生の一つではある。けれども、そこにエッガー自身が「生きてきた」という実感を感じているからこそ、あらゆるものを失い、孤独になってなお、その人生は満ち溢れている。エッガーがこの境地にたどり着く過程に、私は感動した。達観することそのものではなく、その過程である人生がしっかり存在したということを、読んでいて感じた。だからこそ、充足した孤独を抱えながら死を待つエッガーの姿には「エッガーさん、あんたは懸命に生きてきたよ!」と、思わず胸が熱くなった。

 冒頭の「氷の女」にはじまり、数々の人物が提出する死生観は、エッガーと対比してみるととても興味深い。以下、参考になりそうなセリフを引用しておく。読書会にもよさそうだ。

 

死生観

「魂や骨や心や、一生のあいだしがみついてきたもの、信じてきたもの全部だ。なにもかも、永遠の寒さが食いちぎるんだ。そう書いてあるんだぞ。俺はそう聞いたんだからな。死は新しい命を生むって、みんな言うだろ。でもな、その〈みんな〉なんてのは、一番バカなヤギよりももっとバカなんだ。俺に言わせりゃ、死はなんにも生み出したりはしない! 死っていうのは、氷の女なんだよ」, 7

 

「氷の女は、山を超え、谷をうろつく。好きなときにやってきて、必要なものを奪っていく。顔もなければ、声もない。氷の女は、やってきて、奪って、去っていく。それだけだ。通り過ぎしなに、お前をつかまえて、連れ去って、どこかの穴に放り込むんだ。そしてな、土をかけられて、永遠に葬られる前に、お前の目に映る最後の空の切れっぱし――そこに氷の女がもう一度現れて、お前に息を吹きかけるんだ。そうすると、お前に残されるのは、暗闇だけになる。それと寒さだ」, 7

 

(ベテラン作業員トーマス・マトル)「馬鹿馬鹿しい。死ぬときにはなんにもありゃしないんだ。寒さもなけりゃ、魂なんてもっとない。死んだら死んだ、それだけだ。その後にはなにもない。もちろん愛すべき神様だっていやしない。だってな、もしも愛すべき神様がいるんなら、その神様の楽園ってのが、こんなにクソ遠いはずがないからな!」, 51

 

肉体

エッガーは13歳にして成人男性並みの筋肉を持つようになった。14歳ではじめて六十キロの袋を担ぎ上げた。

 

その言葉を、エッガーはその瞬間には理解できなかったが、一生のあいだ忘れることはなかった。「人の時間は買える。人の日々を盗むこともできるし、一生を奪う事だってできる。でもな、それぞれの瞬間だけは、ひとつたりとも奪うことはできない」, 45

 

「死ぬってのはクソだな」マトルは言った。「時間がたてばたつほど、人はどんどんすり減ってく。とっとと終わるやつもいれば、ぐずぐず長いやつもいる。生まれた瞬間から、ひとつひとつ順繰りになくしていくんだ。まずは足の指一本、それから腕一本。まずは歯、それから顎。まずは思い出、それから記憶全部。そんな具合にな。で、しまいにはなにひとつ残らない。そして、最後に出がらしを穴に放り込んで、上から土をかけて、それでおしまいさ」, 51

 

「俺のこのざまを見ろ。腐った骨の塊だ。この場ですぐに塵になっちまわないだけの命が、なんとか残っているに過ぎん。俺はな、一生のあいだ、まっすぐ背筋を伸ばして歩いてきたんだ。神様以外の誰の前にも、身を屈めたことはなかった。ところが、それに神様がどんな礼をしてくれた? ふたりの息子を奪ったんだ。俺自身の血と肉を、この体から奪ったんだ」, 94

 

達観

「新しい住まいの居心地は上々だった。高いところにあり、ときに孤独だったが、エッガーはその孤独を悪いものだとは思わなかった。話し相手は誰もいなかったが、必要なものはすべてあった。それで充分だった」, 132

 

「とはいえ、実のところ、村人たちの意見や怒りなど、エッガーにはどうでもよかった。彼らにとって、エッガーは穴蔵に住み、独り言を言い、朝には氷のように冷たい小川にしゃがんで体を洗う老人に過ぎない。だが、エッガー自身は、なんとかここまで無事に生きてきたと感じており、それゆえ、満ち足りた気持ちになる理由はいくらでもあった」, 134

 

「すべての人間と同じように、エッガーもまた、さまざまな希望や夢を胸に抱いて生きてきた。そのうちのいくらかは自分の手でかなえ、いくらかは天に与えられた。手が届かないままのものも多かったし、手が届いたと思った瞬間、再び奪われたものもあった。だが、エッガーはいまだに生きていた。そして、雪解けが始まるころ、小屋の前の朝露に濡れた野原を歩き、あちこちに点在する平らな岩の上に寝転んで、背中に石の冷たさを、顔にはその年最初の暖かな陽光を感じるとき、エッガーは、自分の人生はだいたいにおいて決して悪くなかったのだと感じるのだった」, 134

 

「出生記録」「子供時代と、ひとつの戦争と、一度の雪崩を生き延びた。決して骨身を惜しまず働き、岩に数え切れないほどの穴をうがち、おそらく小さな都市の住民全員の暖炉にくべる一冬分の薪に足りるほど多くの木を切り倒した。あまりに頻繁に天と地のあいだに渡した糸に命を預け、人生の後半には山岳ガイドとして、人間というものについて理解しきれないほど多くを学んだ。自分で知る限りではこれといった罪も犯さず、酒、女、美食といったこの世の誘惑にも決して溺れることはなかった。家を一軒建て、家畜小屋やライトバンの荷台や、さらにはほんの数日とはいえロシアの木の檻など、無数の場所で眠った。人を愛した。そして、愛が人をどこへ連れていってくれるのかを垣間見た。月面を歩く数人の男を見た……」, 139

 

 

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

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ドコモのiDエラー(再発行が必要です (S0152))

 

内容

 S0152エラーにより突然iDが使えなくなる問題が発生、ドコモショップで解決してもらった。原因は不明と説明されたが、2回とも「更新期限を確認」しようと操作しているため、関連があるかもしれない。余計な操作をしないことが最善の予防策と考えられる。更新期限を確認してはならない。

 解決にあたってはドコモ側(dカードセンター)で特例的な操作が必要なので、同じ現象が再発した場合に今回の解決方法と同様の対処をしてもらうことは保証できないとの説明があった。

 このケースの問い合わせ先としては、ドコモインフォメーションセンターかdカードセンターがある。いずれにしても自力での解決は無理なので、同様のエラーに悩んでいる方は速やかに問い合わせることをお勧めしたい。なお、ahamo加入済みの場合、本来店頭でのサポートは受けられない。今回特別に対応して頂いた。

 上でちらっと書いた通り、実はこれをやらかしたのは2度目なのでいい加減学習のために書いておく。

問題

 iDアプリにてカード情報が初期化、iDアプリを開くと登録前と同じように初期画面が表示される。カード情報を再度登録しようとすると以下のエラーが出る。

ダウンロードエラー お客様のカード情報は以前に設定されています。改めてカード情報を設定するには再発行が必要です。(S0152)

対処

 ドコモショップにて店員さんよりインフォメーションセンターに連絡。二転三転はあったが、最終的にdカードセンターにカード情報を再発行してもらい解決した。

解決までのドタバタ

 まずドコモインフォメーションセンターに電話したが、何分待っても繋がらない(コール事前予約をしたほうがよい)。無駄だと判断して近隣のドコモショップに駆け込んだところ、次の予約まで時間があるということで見て頂けることになった。ahamo加入済で本来サポート対象外であると説明を受け、そうだったと思い出した。

 店員さんによれば、「ahamo加入により電話料金合算払いによるiD払いが使えなくなったのではないか」ということで資料を探して頂いたが、無い。店員がドコモインフォメーションセンターに問い合わせたところ「そのようだ」との回答(これはのちに違うと分かった)。

 そこで私は、クレジットカード払いで登録しなおせばよいのかと得心しかけたが、「今回のエラーを無視してよいのか」という疑問が出た。それで聞いたところ、dカードかそれ以外(他社)かで対応が異なるとのことで、そのあたりの詳細の確認のために店員はdカードセンターに問い合わせた。

 すると、実はahamoに加入してもiDの電話料金合算払いを使うことは可能で、再発行の作業をdカードセンター側ですることで問題が解決することが分かった。ただし、使用可能額(≠使用額、当たり前だが)がリセットされるため、請求額が上限額を上回る場合があることに注意。また、同じ現象が再発した場合に同様の対処をしてもらうことは保証できないとの説明を店員から受けた。

 原因に関してはよく分からず(再現しようとも思わない)、更新期限を確認しようとしたことに原因があるのだとすれば、なんだか腑に落ちない。が、いずれにしても解決して安心した。ドコモショップの店員さん、ありがとうございました。

 

心の愚鈍さについて

 「まあ、鳥さんがこんなに近くに来るのねえ!」

 と、大声をあげながらヒヨドリにずかずか近づいて行ったおばさんたち。さようなら、私と遊んでくれたヒヨドリさん……。

 

 と、私の言いたいことはこれに尽きる。私はこういう心の愚鈍さを嫌だなと感じる。心に視力というものがあるのなら、彼女たちは盲目に等しい。美しいからとほとんど無意識に手を伸ばす、その動きはまるで赤ん坊と同じではないか。そして自分が美しいと思ったその瞬間を、自分の手で握り潰す。

 私はそういう人の精神性に嫌悪を抱くし、隠さない。そしてそれだけの厳しい眼を自分に向けて戒めているつもりだ。そもそも、あちらも私みたいなのは願い下げだろうが……。

 おしゃれぶってケーキを食べても、ナイフの美しさなんて目もくれずに、刃元までベタベタに汚して食らい尽くす野蛮さ。それでいて自分は美しい、優しい、善良な人間であると思い込んでいる傲慢さ。ならば、こんなことを考える私は善良か? 結局はどんぐりの背比べか、同じ穴の狢か、目くそ鼻くそというものだろう。

 いやいや、素晴らしく生きる人たちを見よう。さもなければ、花のように超然と咲くのが、美しいと思う。私は私の美しさを目指して、咲くだけのことである。

財布を忘れた記念日

 まさかこの年になって財布を忘れるとは思わなかったし、会計のその瞬間まで気がつかないままで居ることも信じられなかった。だから今日は間違いなくお財布記念日である。

 久しぶりに連休があったので、仕事終わりに自分で自分を労おうと立ち食い寿司を食べに行った(もちろん店が混んでいたら行く気はなかった)。その時は財布のことなど意識さえしていなかった。それほどに、財布というのは持っているのが当たり前のものだった。

 ところがいざ会計となって胸ポケットに手を入れてみると、財布だと思っていたその胸の重みと膨らみの正体はただの文庫本だった。頭が真っ白になった。その寿司屋は超高級というわけではないがそれでも安い寿司屋ではなかったから、死ぬほど恥ずかしかった。

 「職場に財布を忘れてしまったので、取ってきますんで!!」と言ったら店の人は一瞬目を見開いたが、すぐに笑って許してくれた。銀座の人混みを猛ダッシュで突き抜け、職場まで取りに行った。一瞬、「このまま逃げたら店の人はどうするんだろうか」とも思ったが、もちろんそんなことをする気はない。私はまさしくメロスのように走った。板前との約束を果たすために、ひたすらに走った。

 …………などと、なかばパニック状態のときこそどうでもいいことを考えてしまうものだ。わずか数十秒の信号の待ち時間さえ長く感じられるあの感覚を数年ぶりに味わった。

 それで寿司屋に戻って「財布を忘れたXXです」と名乗ったら板前さんが優しく笑って迎えてくれたのは嬉しかった。

 たとえお金を持っていても(預金口座の残高が0以下でないという意味で)、それを持っていなければ何の役にも立たないということを今回ほど学んだことは無かった。もちろん電子マネーも、スマホやカードがなければまったく意味がない。

 さてさて、うまい寿司を食べてゆったりとリラックスして家路につくはずだったのに、妙なトラブルのせいでかえって頭が醒めてしまった。けれど、こんなハプニングでもどこか不思議な充実感があった。それは日常の形式ばった振る舞いから外れたもので、人と話す機会の減ったコロナ禍ではなおさら貴重になった一コマだったからだろう。そういうところで、今回財布を忘れたのも案外悪いことでは無かった……と思うことにしておく。