もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

街なかのリス

 先日、赤坂見附の街なかでリスが死んでいるのを見かけてしまった。リスを見かけることも珍しい都会で、まさかその死骸を見ることになるとはつゆほども考えていなかったから、思わずその場に立ち尽くしてしまった。むき出しになった臓物。安らかに、とつぶやいて、私はその場を通り過ぎた。

 その死骸は、翌朝には跡形なく綺麗に片付けられていた。リスを見た一部の人間を除けば、誰も、ここでリスが死んでいたことなど気がつかないだろう。もちろんそれは、誰かが片付けたからである。

 こういうことを体験するたびに、私は清掃という仕事の偉大さに感じ入る。清掃という仕事はなかなか報われない仕事だと思うのだ。なぜならその仕事は何かを作り出すことではなく、元の状態にすることだからだ。

 人は、何かを作り出したことは評価するが、何かが同じ状態であるということはなかなか評価しない。街の光景が同じであるということを、当たり前のこととして考えやすい。それは例えば、健康な人間が一日を難なく過ごせたとしても、それを何とも思わないのと似ている(むしろそれが健全だ)。しかし実際には、それは身体の働きによる恩恵に他ならない。こういうことからも、何もないことが仕事の成果であると認めるには、ちょっとした想像力が要ることが分かる。

 リスの死骸は翌朝には何事もなかったかのようにきれいになっていた。真っ黒なアスファルトの上にリスが死んでいたことなど、誰も気が付かないだろう。それはもちろん、自然の分解作用などでは決してない。片付けた人がいるからだ。きれいであることは都会にとって当たり前であると思いやすいが、実は、それは人間の立派な働きによって支えられている。

 それはちょうど、私が今日一日を無事に過ごせたことが、私の身体の働きによる恩恵であるのと同じように見えにくい。しかし、極めて大切なことだ。きっと多くの人がそれに気がつくのは、自身の身体の機能が脅かされたときであり、街の清潔が著しく脅かされたときなのだろう。

 今日一日のありがたみを知ることが難しいのと同じように、清掃のありがたみを知ることも難しい。それは、心の眼を向けて、表面には見えないものを見ようと思わなければ、見えないのだ。