もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

打ち込み日記「行進曲」

 音楽に関することは別のブログに分けようかとも思ったのですが、音楽については大したことを書いていないということに気がついてしまい、結局ここに戻ってきました。

 以下、どうでもいい細かなお話です。一般に音楽を言葉で語るのは野暮だと言われるものですが、ここはわたしの日記ですし、そういう立派なものでもないので平然と語ります。(ここまでテンプレ文章)

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銀座の人混み

 土曜日に仕事で銀座(正確にはほとんど有楽町だが)を通ったのだが、人の多さにびっくりした。平時よりは明らかに少なかったが、それでも混雑していた。カフェやブティックなどは見事に三密となっていて、コロナ禍の見通しにも不安を感じざるを得ない光景だった(私にとっては)。

 正直に言えば、こういう行動をとる人たちがこれだけいるという現実は、私をいくらか厭世的にさせた。…………小難しい言葉でごまかそうとしたが、やめよう。本音を書けば「どいつもこいつもバカばっかりだ」と思っている。そしてその刃が自分にも刺さっていて苦しくもある。仕事だからと外出している私もまた、私が軽蔑する彼らと同じなのではないか。

 とはいえ、行楽に及ぶ彼らは、仕事や生活で「外出せざるを得ない人」では決してない。しかも三密という、最低限にして最も有効な対策さえも平然と破り捨て、堂々と街へ繰り出している。そしてまた彼らが恐ろしいのは、彼らが無関心であるということだと私は思っている。彼らは「自粛」要請への反対を主張して外出しているのではない。そもそも彼らは賛成―反対の判断すらしておらず、ただコロナ禍以前の過去の行動パターンを繰り返しているだけのように思える*1。それで身近な誰かが亡くなったところで、彼らは自責の念を持つだろうか。政治のせいだ、社会のせいだ、ウイルスのせいだ、病院のせいだと言うのではないだろうか。自分の行動が社会にどのような影響を与えるのかを想像できないのだろうか。

 もちろんこれは、一つのバイアスがかかっている。私が外に出れば、外に出ている人だけが見えてしまうのは当たり前だ。その裏には、コロナを恐れ、自分や身内をその猛威から守ろうと考える人たちが間違いなく居るが、それは見えないのだ。私自身も、仕事以外では外出しないようにしている。もっとも私の場合には、自分や他人を守るということと同時に、上記のような、自分の心を搔き乱す現実をもはや見たくないということもあるのだが。

 私は私自身にできることをやる、と思ってやってきた。けれど世の中はそれとは反対の方向に動いてきた。経済のためといい社会移動を増やし、さらにハンマーをためらい、ついに重症者が増え、死者が増え、ということになっている。既存の医療が圧迫されている。それはデータとしてもそうだし、私自身も聞いたりする。寛解しないなかで退院を余儀なくさせられたり、入院や手術が延期になった、というケースが出ている。それは治療の必要がないからそうなったのではなく、病床確保のためにせざる得ないからそうなったのである。

 しかし、街なかの人混みさえ見なければ、自宅にこもっていても楽しめることはたくさんある。読めていない本もたくさんある。それに、多くの人が私と同じかそれ以上の懸念を社会に対して抱いているということも思い起こさないといけない。孤独になると見えにくくなるけれど、実は私たちは無言の多数派なのかもしれない。見えてしまっているものだけが現実ではないと、いまは信じることにしよう。

*1:もちろん、コロナ禍の不安や孤独感の反動ではないかとか、いろいろ考えられるけれど。

目覚まし時計

 最近になって、目覚まし時計はアナログのほうがいいなと気がついた。とにかくアナログのほうがアラームの設定が楽なのだ。デジタルだとアラームを6時から17時に再設定するのはかなり面倒なのだけど、アナログならば1時間戻すだけで済む。片側にしか回せないタイプでも一周回すのはさほど苦労しない。その代わりにアナログ時計では午前午後の区別がないのだが(24時間計でもない限りは)、12時間以上寝ることなどまずないからあんまり関係がない。

 またアナログ時計の良さをあえて理屈っぽく考えるなら、時間を視覚的に把握できるというのも一つ挙げられるだろう。例えば9時から15時と言ったときに、アナログ時計ならパッと見て6時間だとすぐに分かる。あるいは長い時間だなとか短い時間だなというのも視覚的に分かる。

  デジタル時計は、現在の時刻を知るという点では優れているのだが、一日24時間を一区切りとする「時間」を見たり考えようと思ったときにはアナログ時計のほうが分かりやすいし、目覚ましとしてもアナログ時計のほうが設定がしやすく便利だと思う。

 さらに私の使っているデジタル時計の残念な点をいえば、ボタンの反応がかなり悪くなってしまっているところだ。アラームの時刻を設定しようとしても、力いっぱい押し込まないと反応しない。これではアラームの時刻を設定するだけでもかなり面倒だ。なんならアラームを止めるボタンの反応も悪い。横長のボタンで、両端を両方の親指でグッと押し込まないと反応しない。

 結局のところ、それは私が使っているデジタル時計が劣化しているというだけの話ではあるのだが、それでもアナログ時計のほうが私にとっては時計らしい感じがするし、アナログ時計のほうが「時間を刻んでいる」という感じがして好きなのは確かである。

 しかしこんなことに気がつくのに10年以上の時間を要して、最近になってハッと思いついたというのだから、まったく今日まで何をして生きてきたのかよく分からないなと、自分でも思ったりする。

行きたくない公的(?)機関ランキング

 何か後ろめたいことがあるわけでもないのに、行くときになんだか緊張したり、「帰りたいなぁ」と思ってしまう、あるいは思ってしまいそうな場所があると思ったので、なんとなくまとめてみた。

行きたくない公的(?)機関ランキング

  1. 警察署
  2. 裁判所
  3. 市役所
  4. 銀行(窓口)
  5. 市役所(本庁)
  6. 鉄道(改札窓口)
  7. 交番
  8. 病院
  9. 消防署
  10. 公民館

警察署

 当たり前。行ったことがない。良いことでお世話になることはほぼ無さそう(人生一度くらいは表彰されるか!?)。私との関連といえば、姉が夜に出歩いて補導されたときに、親が行ったくらいだ。私自身は行ったことすらない。免許があれば違うのだろう。棒を持って入口に立っている人が怖い(そのために立っているのだろうが)。

裁判所

 当たり前。見学以外で行ったことがない。ショーではないから面白く見る気もないし(社会勉強としては興味深いかもしれないが)、まして当事者にはなりたくないものだ。

市役所(本庁)

 日常的な部分では実質第一位。なぜか街の外れ、中心部からは程遠いところにあったりするのは嫌がらせか?

 なんちゃら課が何階で何号室で何だとか、よく分からない。ロビー案内の人が案内してくれない。つまりフロアマップ以下。出張所はよく行く。

銀行

 窓口が怖い。待ち時間はいまだに面接前の受験生のような気持ちになる。近隣の某都市銀行の窓口は機械的な人が多いので、いずれ機械になるのかなと思っている。

鉄道(改札窓口)

 以前ノートパソコンを忘れて慌てふためいて東京メトロ渋谷駅に取りに行ったら、中年の男性と若い女性駅員に鼻で笑われた。京王線でもノートパソコンを忘れて、(終着駅近くの)南大沢駅まで行った。二度の過ちを犯してようやく、大切なものを網棚にあげるのはやめようと学んだ(テレビの警察密着系番組で、1000万円の入ったカバンを忘れたというおじいさんがいたのを思い出す)。

 あと、学生時代に、切符を忘れて東京メトロ副都心線池袋駅の駅員にその旨を告げたところ、「どこから乗りました!?」と怒鳴られた。尋問か?

 こういう出来事は多くはないが、嫌な思い出として残るものだ。

交番

 警察署はやらかしたらお世話になりそうだが、交番は困ったらお世話になりそうだ。だが実際に行くと緊張はするのだろう。いつ見てもパトロール中。

病院

 嫌は嫌なのだが、なんだかんだで風邪だとか検診だとかで行くので心理的なハードルは高くない。地元の人間は「どこそこの病院はヤブだ」などと噂をするが、あながち間違ってもいない気がする。初めて行く病院は緊張する。

消防署

 消防署に行くことって、ないだろうな……。救命講習に参加した場合ぐらいだろうか。

公民館

 恐れる理由がない。でも行く機会もあんまりない。地域のコミュニティに入っていないものね。

 

 と、現時点での印象をもとに何となくランキングしてみた。皆さんはどうだろうか?(唐突な問いかけ)

「話しかけるなオーラ」

 家電量販店で「話しかけるなオーラ」を出すのは私だけだろうか?

 「話しかけるな」とは言っても、店員を睨んだりするわけではない。店員と目を合わせない*1とか、話しかけられそうになったら他の商品を見るフリをして静かに距離を取るとか、その程度のことである。

 何故話しかけられたくないかというと、私の場合は本当に商品を見に来ているだけで、静かに商品を見たいからだ。また店員にとっても、いくら説明をしても結局買わないのだから、こんな奴の相手をするのは時間の無駄である。つまりこれは、店員と私双方のための意思表示なのだ。

 にもかかわらず、この意思表示の結界に踏み込んでくる勇敢な店員もいる。

 

 「何かお探しですか?」

 「いえ、見ているだけですので(買う気は無いので時間の無駄ですよ)」

 

 とは最後通牒で、このとき私は鯉口を切って、じりじりと間合いをとりながら構えている。これで店員が「ごゆっくりお探しください」と剣を納めれば平和であるが、

 「お買い替えですか?」と斬り掛かって来たら開戦である。話を進めてきたからには仕方がない。あなたの知識を利用させて頂くぞ、と息巻いて刀を抜く。

 こうなるとあとは延々質問攻めだから、大抵は店員が「こいつはダメだ」と匙を投げて「もういいですか」オーラを出してくる。リアクションを小さく短くして、話も返答を短くして打ち切ろうとしてくる。こうなったらこちらも潔く「大変勉強になりました。ありがとうございました」と言っておしまいとなる。

 実際の例だと先日パソコンを見に行ったときがそうだった。「見ているだけですので(話しかけないでくれ、の意)」と断ったのに、踏み込んできた。それで、CPUの性能の差だとか、日本製メーカーがこんなに高いのは何故かとか、このパソコンのスペックでもっと小さい画面サイズだったらどうかとか、この価格帯だったらどうか、画面がどうだメモリの性能がどうだと、30分ほど気になっていたことを尋ねてさんざん比較して案内させたあげくに買わないという最悪の客(客ですらない)を演じてしまった。

 しかし、ネットショッピングばかりしている私にとっては新鮮な体験でもあった。単に実物と価格を見にきただけなのだが、店頭も思った以上に嬉しい買い物が出来る……事もあるのだと思った。

 だから、最近は店頭でまったく買わないというわけでもない。むしろネットショッピングのデメリットを感じる出来事もあって、すこし店頭寄りに戻ってきた感じである。

 ネットショッピングの残念な点もあれば、店頭のよさもある。価格を交渉できるのもそうだし、入荷未定のまま振り込む不安もなく、商品をその場で受け取れるのもそうだろう。各分野のスペシャリストに質問できるのも大きい。ネット検索が具体的で個別的な知識を与えるのに対して、プロの人間は抽象的な問いに対しても様々な知識を連関させていくつもの解答を示してくれる。これが大きい(売り込もうとしてか、単なる知識不足か、誤魔化した説明をする残念な店員も、残念ながら居るが……)。

 ともあれ、「話しかけるなオーラ」を出しながらも、こういう駆け引きは案外楽しくない訳でもないなと思っているところである。

*1:ポケモンで主人公を待ち構える敵トレーナーと同じで、目が合ったが最後、エンカウントである。