もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ポット野郎

 「私にあだ名があるとすれば、ポット野郎、と呼ばれていることだろう」と、ガラスのティーカップを回しながらボーっと考えている。わざわざ茶こしをとるように頼む客など多くはないし、いつも茶こしをとるように指示を出す邪魔な客として、覚えられては居そうなのだ。まあ、ただの自意識過剰であればよいのだけど。

 私の理想を言えば、お茶は抽出したものを出してほしい。茶葉が入っていると、どんどん渋くなって、苦味しか残らなくなる。それは気取っているわけではなくて、本当にまずいのだ。うまいものがまずくなるのに見て見ぬふりをするというのは、もったいない。お湯をさすという方法もあるが、渋みだけでなく味も薄まってしまうのでこれまたもったいない。

 それで毎回ポットのお茶を頼むと、茶こしを外すように頼む。こちらに言わせれば、もう何度も同じことを言っているのだ。そろそろ店の方が対応してくれてもよさそうなものだとも思う。

 こういうことを我慢する人もいるだろうし、私もどちらかといえば余計な要望はださないほうだ。けれど最近は、時と場合に応じて意見を出すことも必要なのではないかと思い始めた。と言うのは、実際にそういう働きかけによって変わることがあるのだと知ったからだ。

 例えば、私がよくいくフードコートで箸が設置されるようになったり、よく行く蕎麦屋で野菜天だけのセットが増えたり、シェアサイクルの駐輪場の駐輪台数が増えたりするのは、そういう要望が多かったからだろう。黙ったまま思うようになるのを待ったりあきらめることも出来るが、意見を出して変えようと働きかけることに期待が持てるのなら、それをやるのも悪くはないのだと感じる。

 もちろんクレーマーになるつもりはない。どこまでが正当なフィードバックで、どこからが身勝手な要求になるのかは判断が難しいかもしれないけれど、必要ならば礼儀をもってそういう意見を出してゆきたいと思っている。

 そもそも、ただ気に入らないというのならば、サービスを利用しなければよいだけのことではある。某チェーン店で見本よりもはるかに野菜の量が少ない、ゴミを浮かべたような雑炊が出てきたのなら、もうその店舗には行かないだけだ。けれど、それなりに思い入れがあったり、ほかの店では代わりが利かないからこそ意見を出す。「素晴らしいサービスをありがとう、ただ、こうしたらもっとよくなるのではないか」というところだ。

 どこまでが正当なフィードバックで、どこからが身勝手な要求になるのか。この境界を決めるのは難しいけれど、感情的にはこう言えるかもしれない。「許せない」という動機で動く人たちと、感謝や敬意を持っている人たちの違いだと。あるいは、相手の人格を尊重しているかどうかというところでもある。しかもそれは年代や立場にかかわらない。子どもでも相手を尊重できる人はいて、大人(社会人と呼ばれるステータスにある)でもそれが出来ない人はいる。話を広げれば、店員(サービス提供者)のほうだって相手を尊重できる人と出来ない人というのはいるのだ。

 こうなると、もはや企業に意見を出すかどうかという話ではなくて、いかにして自分が「許せない」という人にならないようにするか、という話になってくる(これはまた思うところがあるので書く)。その一応の答えはこうなる。感謝をもって意見を出す、というのが、自分の生活を快適に変えてゆく一歩であるし、その根本に他人への敬意を忘れないことは、他人との関わり一般においても当然必要なものだろう、と。

 こんな平凡な答えに落ち着いたあたりで、どす黒くなったお茶を飲み干した。茶こしを外していなかったので、歯の裏になんともいえないざらつきが残った。

「つまみ食い、やめてよ」

 電車の広告を見ている。趣味と言うよりは、ボケーっと乗っていると否応なく目に入ってしまう。最近気に入っているのは、「今日もママの声が聞こえる。『つまみ食い、やめてよ』」というやつだ。

 何が気に入っているかって、まず見た目がすごい。メッセージに反するかのように、黒の背景に白文字で書かれているのだ。この黒は海苔をイメージしているのだろうか? それにしても、一家団欒を描いているのならもう少し温かみのある配色にすればよいのに、黒に白だから妙にシリアスな光景が思い浮かぶのだ。

 感じた重々しさをそのままに、真面目なトーンで、「つまみ食い、やめてよ」と読んでみる。子どものつまみ食いのせいで韓国海苔を毎月5万円分買わされている母親のようなトーンだ。

 さらにいろいろな場面を想像しながら読んでみる。ついに堪えかねた妻が夫に吐き捨てるようなイメージで、「つまみ食いやめてよッ!!」と叫ぶ。たかが海苔の話でそこまでキレるか、というギャップが面白い。あるいはよほどつまみ食いの姿がおかしいのだろう、笑い転げながら「つまみ食いやめてよ!」と言う。最後は、本来のイメージで、母親が子どもを優しくなだめるように、「つまみ食い、やめてよ」と言ってみる。

 うむ、やはりこの色ではないだろう……。

F. Chopin, Nocturne in C minor, Op. 48. No. 1.

 ショパンハ短調ノクターン(作品48-1)を打ち込んだ。おそらく、変ホ長調(作品9-2)、変ニ長調(作品27-2)と並んで人気が高いと思う。人気の高い作品で優れた演奏も多いだろうに、なぜわざわざ打ち込んだのか。それは、この曲が好きだから!

 この曲はショパンの魅力が詰まった作品の一つだと思う。一見分かりやすくて間口は広いのだけど、いざ取り組むととてつもなく難しい。感情的にも、おそらく技術的にも。

 以下、私の勝手な制作メモ。すべては思い込みで、根拠はない(笑)

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インフルエンザの予防接種

 いさかいの種がどこにあるのかは分からないものだ。言い争いとまでは行かなくても、他人との意見の違い、それも埋めようのないものを突き付けられたとき、その人との距離感を感じてしまうことがある。

 インフルエンザの予防接種の話だ。私は効果はあると言い、その人は効果はないと言った。私の根拠は至って単純だ。病院で医師から受けるように指導を受けたし、厚労省をはじめとする公のところは、予防策として、手洗いやうがい、十分な睡眠とともに、予防接種を受けることを推奨しているからだ。それに対して相手は、自分が打っても罹ったことや、かかりつけの医師の意見を根拠として挙げた。「医師」が出てきてはどうしようもない。子ども社会において「ママが言ってたもん!」が強い威力を持つのと同じだ。

 その人からすれば、私は政府に盲従する愚か者ということだろうし、私から言わせれば、否定をするなら十分な根拠(エビデンス)に基づいた否定材料を出してくれという話だ。互いに「これはダメだ」と悟って矛を引いたが、そんな思想の違いが見えてしまったので、どこか気まずい雰囲気のまま食事を終えた。

 そう、これは思想の違いだった。巨視的な視点からみて予防接種の効果があるかという話ではない。自分がどのような選択をするかという話だったのだ。

hontoカード、情弱の悲しきポイントカード生活

 ジュンク堂で本を買った。やけくそになって2万円分買ったのに、ポイントをつけ忘れてしまった。ここから学べることは二つある。やけくそはよくないということ。そして買い物をする際にはポイントのことを考えなければいけないということだ。

 だがこのポイントというやつが、私のようなポンコツ人間には極めて面倒くさい。Tポイントだのdポイントだの楽天ポイントだのポンタだの、アンポンタンにはもう訳が分からない。そもそもカードが増えるのは嫌だ。アプリなら場所はとらないが、いちいちアプリを増やすのも嫌だ。

 それなので、今まではこの選択肢をすべて放棄して、交通系電子マネーとクレジットカードを除いた「ほぼ現金主義」をかたくなに貫いてきた。

 それでもそれなりに本屋やら飲食店やらで「なんとかポイントはお持ちですか?」と聞かれるのがずっと続いたものだから、去年あたりにdポイントカードを作った。もちろん情弱人間なのでアプリの存在など知るわけもなく、原始的なカードを作った。

 脱線するのだけど、dポイントカードと言えば、先日こんなことがあった。加盟店に行ったとき、ポイントをためてもらうつもりで「チャージしてください」と言ったのだけど、「チャージはできない」と言われ、頭が「?」でいっぱいになった。変な汗をかきながら「じゃあポイントはいいです」と言うのが精いっぱいだった。考えてみれば何のことはない、チャージと言えばカードに現金を入れることじゃないか。私は電子機器に戸惑う老人になった気がした。

 話を戻すと、それで私はジュンク堂でも原始的なhontoカードを作ったわけだ。これはdポイントと連携しているらしい。一度で二度たまっておいしいとは言うが、200円で1ポイント(=1円)なので0.5%じゃないか。2万円買ったところで100円。購入で得られるポイントはあまり期待していないし、いくら本を買うとはいえ、支出額はちょびっとしたものだ。このカードを作る意味があったのか?

 まったく、情弱のポイントカード生活はつらいものだ。