もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

好きなものについて話すこと

 よく「好きな小説家(作家)」なんて話が出ることがあるけれど、これが悩ましいのだ。今回は本の話をするけれど、音楽でもなんでも同じことだ。

 「どう答えるべきか」という問題がある。何が求められているのか。正直にマイナーな作家の名前をあげて微妙な空気にするか、うそでもメジャーな作家の名前をあげるべきか、ということだ。森類と答えるべきか? たった一度「秘密」を読んだだけでも東野圭吾と答えるべきか?

 問題は、東野圭吾と答えて相手が東野ファンだったら、わたしは何も語ることが出来ないということだ。そうなればウソつき認定をいただくのは間違いがない。ならばそんな土俵に立たずに他の作家を挙げればよいのではと思うが、ほんとうに最近誰もが知るような人の本を読んだことがない。最近読んだのは「戦国時代と分国法」で、勝手に出撃する家臣に頭を抱える戦国大名の姿などが想像できる面白い本なのだけど、じゃあ戦国時代が好きなんですかというとまったく詳しくない。これはにわか趣味でしかない。器用貧乏そのものだ。ほんとうに好きな人には遠く及ばず、関心の無い人からはオタクとみられる。音楽にしてもそうだ。

 そもそも、無数の作家がいるのに好みが一致するわけがない。だから「好きな作家」を尋ねるのなら、知らないものを教えあうくらいの気持ちで聞いてほしいのだが、そこまで覚悟して突っ込んでくる人は多くはない。たいていはなんとなしに、「本読むんだ、どんな人を読むの?」というような、何気ない好奇心なのだ。だがその好奇心がどのような結果を招くか。たとえば「森類です」などと言ったらどうなるだろう。わたしに対する評価が急落するとは言わずとも高まることはないだろう。「え~? 知らないと思いますよ~?」などとクッションを入れるのは小賢しいうえに、「やっぱり知らなかった」としかならない。もちろん、知らない世界を知りたいという気持ちがあるのならいい。だが、一致することを求めてこの質問をするのはあまりにも危ない橋だとわたしは思うのだ。

 さらに、この知的な話題はすごく難しいことだ。何かについて語るということは立派なアウトプットであり、自分の理解と無理解をさらけだすということだ。これは書評を読むとすごく分かる。要約は的確にされているか、筆者の主張をどうとらえているか、どう引用しているか、ありとあらゆるところで読解力が野ざらしになる。しかも頭の良さ悪さだけでなく心……人間性まで見えてくることさえある。たとえば筆者の主張をねじ曲げて自説の主張のために我田引水するような読み方は、読書の不誠実さどころかその人の愚かさすらも詳らかにしてしまう。ほんとうに恐ろしいことだ。だからわたしは、その恐ろしさのうえで踊り狂いながら自分の愚かさをさらけ出して、自分の好きなものの話をしている。我ながら、なんともけなげな覚悟ではないか。

カツ丼

 カツ丼を見ると、中学校の遠足(?)のことを思い出す。鎌倉に行った。スキー用の手袋をしていったのに、指先までしびれるほど寒かった。北鎌倉駅から隧道を通り、建長寺へ行ったと思う。それから鶴岡八幡宮へ行き、江ノ電高徳院の大仏を見に行った。このあたりはもう覚えていない。というか、もう班の仲間が誰だったかすら覚えていない。

 ただ高徳院の駅のそばでカツ丼を食べたのははっきり覚えている。店主のおじいさんがひとりで注文をとっていた。そのお店には鎌倉丼といういかにも観光客向けのメニューもあってそれを頼んでいた子も多かったのに、なぜかわたしはカツ丼を頼んだ。体の芯まで冷え切っていたので、特別美味しく感じた。

 わたしは根っからの貧乏性で、わずかなおかずでご飯を食べる習性が身についてしまっている。カツ丼を頼むと必ずカツが三切れ四切れと余る。ヒレカツなら2つくらい余る。だけどそのときだけはカツは余らなかった。

 それから何度も鎌倉を訪れた。遠足のつぎに訪れたのは高校生のときで、当時行けなかった建長寺裏のハイキングコースを歩き、鎌倉文学館などを訪れた。そのときはカツ丼の店のことなどすっかり忘れていたのだけど、25歳くらいになってふと思い出した。あの頃から10年が経っていた。縁結びで知られるらしい葛原岡神社などひとけの少ない山道を歩き続け、山の方から高徳院へおりていったのだが、カツ丼の店は無くなっていた。かわりに見慣れない横文字っぽいオシャレスイーツのお店やらアクセサリーの店やら(?)が出来ていた。けれど土産物屋と大仏だけは相変わらず存在感を示していて、なぜか安心した。

アニメ「ドメスティックな彼女」

 自省は大切だ、と思わぬところで教わった。映画やドラマ、アニメを見ていると「こいつバカだなあ(汚い言葉で失礼)」と思う瞬間があるけれど、そこで思考を切り捨てないで、「じゃあ視聴者であるこの自分はどうなのか?」と考えてみると、さらに物語は面白くなる。

 「ドメスティックな彼女」というアニメを、わたしは最初ただの昼ドラだと思ってバカにしていた。高校生の主人公が密かに思いを寄せていた先生と、ひょんなことから一度限りの関係をつくった女子高生が姉妹で、父親の再婚を機に姉妹とひとつ屋根の下で暮らすことになった、という荒唐無稽な前提はさておく。その姉妹の二人はもちろん、他の女の子たちもひょんなイベントによって主人公に好意を寄せているという、主人公補正もどうでもいい。

 問題は、主人公の愚かさだ。自分が好きだった先生(姉)には恋人がいて、しかもその人は不倫恋愛だった。そこで主人公は妹とともに浮気相手の男を問い詰める。この浮気相手の対応がまあ酷いのだけれど、ともかく、主人公は「浮気なんてなに考えてるんだ!」と浮気相手を責める。それは先生を”アイツ”の手から取り返したいという気持ちであったり、浮気は許されないという正義感でもあっただろう。

 それから数話進むと話がなんだか変になってきて、主人公は先生が好きなのだけど、その妹(最初に関係を作っている)やら他の女の子やらにも気を引かれ、そのあいだをさまよいながら姉妹の両方ともそれなりの関係に進んでしまう。視聴者からすれば「いやいや、キミ数話前であんなに浮気を糾弾してたやないかい!」というお話だろう。男目線で見ても、女目線で見ても肯定しようがない。彼は自分の行いを顧みて、自己嫌悪に陥るのだろうか。

 正直こうした展開自体は「あぁ、よくあるドロドロだなー」と感じるしあまり興味がない(いや、そこを楽しむアニメだと思うのですが)。むしろ主人公の「こうあるべき」という理想に対する若さゆえの妄信、そしてその理想とは裏腹に自分が手を汚してしまうという現実、この落差がとても人間らしいと感じた。とはいえ、人間らしいからと言って、こんな他人を侮辱するような行動はとうてい共感できないのだけど。自分の言動と行動がどうか、という自省を欠くと、自分の知らないうちに最低な行動をとってしまうものなのかもしれない……と恐ろしくなった。

日常にちょっとした変化をもたらすこと

 日常にちょっとした変化をもたらすこと。それは誰にも理解されないわたしの楽しみでもある。レストランの注文のように、世のなかには決まりきった「流れ」というものがある。そしてわたしたちはそれを嫌というほど知り尽くしている。店員に対して被せ気味に返事をすることなど、その最たる例だ。「いらっしゃいませ。何名さ」「ひとり」「おたば」「吸わないです」という具合だ。おそらくこの店員が何を言おうとしていたか、これだけでほとんどの人には分かるだろう。

 以前にモスバーガーのレジの話で書いたのだけど、これだけ会話の型が決まりきっていると、ほとんどの部分は機械でも出来るのではないかという気がしてくる。某ラーメン屋などがそれで、店舗全体の空席を示すインジケーターが入り口すぐにあって、客はそれを見て空席に勝手に行く(混雑時は店員が割り振るが)。わたしなどはそれを見てブロイラーの鶏になった気分になるのだけど。

 人間の機械化とでも言おうか。これは使い古された話でもあると思うが、それは客と店員どちらにとっても便利だ。だがその一方で、店員の彼らは本当に人間なのかと思ったりもする。だからわたしは彼らが人間であると知るととても楽しくなる。

 たとえば、カフェで店員同士が雑談をしているのなどがよい。男性の店員1人と女性の店員2人がいる。みな20代くらいだ。そしてこの女性の一人と男性が仲が良いらしく、ずっと喋っている。人間関係が垣間見えて面白い(だがテーブルを拭いたりはしてほしかった。経営者からすれば彼・彼女がイチャつくのは怠慢に他ならないし、穏やかではない話かもしれない)。

 あるいは、夜11時ごろに閉店間際のカフェを訪れたとき、メガネをかけたおとなしそうな男性店員がモップを持ちだして、「あいつすっぽかしやがった、ッざけんなよ!」などと言いながら厨房に入っていったのも面白かった。ふつうの人だったら評価を下げるだろうしわたしも評価は下げるが、人間らしさが見えるという点だけでいえば面白い。

 ただ職務に対して人間らしさの度合いが行き過ぎると、某企業の問題のようになる。予測可能性が成り立たないとはまさにこのことで、「この私の食べるパスタのトマトは、彼が今しがた口に入れて吐き出したものではないか」など、すべての店員を疑わなければならなくなる。ある仕事を「誰でも出来ること」がそのまま危機に直結する。それは恐ろしいので、そこまでの破綻は望まない。あくまでも表面上は形式を守りつつ、その裏で形式から逸脱する、というのがよい。勤勉でありながら、裏ではちょっとだけ怠惰でもある。それくらいの塩梅がいい。

 そしてこうした話とは別に、雑談というものがある。これは決まりきった型にもさまざまなパターンがある会話で、「いい天気ですね」あたりから入る軽やかな会話で、わたしはあまり得意ではない。けれどたまにその人の考え方が分かる質問を入れてみたりする。「うさぎとカメ、どちらが好きか?」などだ。これも、日常のちょっとした変化、遊びということになるだろう。

 このような具合で、他人に対する興味は尽きないものだ。

ピアノの森

 たまにはアニメのことも書きたいと思う。やはり今期注目しているのはピアノの森。拍手の描写の酷さ、前シーズンでは指まで3Dで再現していた演奏シーンが今期ではほとんど動かないなど、作画が気になる部分もあるのだけど、正直それはどうでもいい(迫真) もはや動かなくてもいい。とにかく声を入れてくれてありがとうございます(土下座)

 今シーズン面白かったのは、まず「ショパンの真正性」という問題が最初に出てきたこと。このブログでも夜想曲第2番の異稿のところで少し書いたとおり、わたし自身の関心でもあります。真正性の問題というのは、作中の記者も言っていましたが「誰もショパンの演奏を聴いたことがない。なのにどうしてあなたがた(審査員=権威)の演奏だけが正しいと言えるのか!(意訳)」ということですね。審査員は「楽譜に答えがある」と言いましたが、結局は彼ら自身のなかにも自分の思惑で動く人間が居る。弟子を通らせたいとか、ショパンの後継はポーランド人でなければならない、とか。

 それでアダムスキが落ちたり、レフ・シマノフスキのドラマがあったり、なんだかんだあって(アダムスキの選曲とか、詳しい人に教えて頂きたいことはたくさんありますが(笑))、ついにカイ・イチノセが登場します。カイの演奏は真正であるとかそういうことを飛ばして、最初の一音から人びとの心を射抜く。荒唐無稽で規格外。だけれどその楽譜の奥にある深いものを、ショパンの心を誰よりもくみ取っているし、それを自分のものとして表現する力もある。そこにアジノの目指したものがある。それは「真正性」に対するこの作品の解答でもあり、それよりも大きななにかなのではないかと思います。

 そしてまたアマミヤと父親洋一郎のすれ違い。そしてアマミヤの先生と父親のすれ違い。先生はアマミヤのピアノが土壇場で開花したことを喜ぶんですが、父親は「今じゃなくても」と言う。このあたりも考えさせられます(語りたいけど原作詳しくないし省略)。

 そして第5回でしたか、カイのピアノソナタ3番3楽章、ラルゴ。アマミヤが「超超超ピアニッシモ」って言ってました。ウナコルダも使って極限まで弱めたピアノの音。この場面でペダルのノイズがはっきり聴こえるのが印象的でした。それだけ音が小さい、あるいは小さい音をテレビ的に聴きやすくするために大きくしているということが分かります。

 あー、やっぱり、面白い作品を見ると誰かと語り合いたくなります! だけどわたしの周りにはアニメを見ているお友達も、クラシックを聴くお友達もいない。

 あとは、アジノとか、ジャン・ジャック・セローとか、タカコとか、森の端のひとたちとか、周りの人物目線で見て、どう演じてるんだろう、って想像しながら見たりしているので毎回けっこう楽しんでいます(笑)