もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「近くにきたらお立ち寄りください」

 「近くにきたらお立ち寄りください」と言われた。この言葉はとても苦手だ。と言うか、社交辞令が苦手なのだけど、これはその一種。

 例えば、仕事関係で「自分はここ(事業所)にいるので、近くに来たらお立ち寄りください」などと連絡がくる。裏を返せば、そういう連絡がくるくらいに組織的に遠い関係にあるということでもある(近い人間であれば行先など知っている)。

 にもかかわらず、なぜそのような情報をわたしに伝えるのか。別の用件のついでであれば分からなくもないが、それでもわざわざ自分の異動先をほとんど知らないような相手に伝える意味は、社交的にもない。

  となると、これは本当に折あれば訪問すべきなのではないか、という疑問が生じる。これが悩ましい。相手がもう一歩踏み込んで、「社交辞令ではないです」くらい書いておいてくれればこちらも遠慮なく境界を踏み越えて行けるのに。

 たいていの人は、こんなものは真に受けずに、社交辞令としてさらっと流すのかもしれない。実際に立ち寄る方向でアクションを起こすことにはリスクがある。けれど反対に、立ち寄ったほうがいい可能性もわずかにある。

 さらに面倒くさいのは、これが対面での発言でないことだ。面と向かい合っているのであれば、「ほんとうに寄りますよ? いいんですか?」と聞けば済む話だ。「えっ」などと、「(えっ、これ社交辞令なのに、そんなことも分からないの……?)」的なオーラを出されたことは一度もない。幸か不幸か、そんな面倒くさいコミュニケーションのかたちをとる社会人には遭遇せずに済んできた(実在するのだろうか?)。しかし、メールなどではそれができない。文書のほうが礼儀も問われるので、会話が苦手で手紙の方が好きなわたしもこういうときは難儀する。

 社交辞令を知らない子どものわたしからすれば、まったく戸惑うしかない事例ではある。

「言わなければ分からない」

 「言わなければ分からない」と言う人がいた。よくよく考えると意外なほどに、言うことを怠ってしまうことが多い。他人に自分を投影して、自分と同じことを考えているだろうとたかをくくってしまう。だからこそ言葉を選び、語り合う必要がある。

 その点で、今日は失敗した。駅を降りたとき、わたしは目の前にあった出口から出ようとした。だが連れ添っていた相手は、別の出口から出ようとした。なぜなら、その出口のほうが目的地に近かったからだ。

 どちらも自分の考えを相手に伝えなかったので、齟齬が生じた。わたしはこう考えていた。「最寄りの出口のある車両位置に乗らなかったのだから、直近の出口から出ればよい」。だから、目の前の出口を無視してわざわざ同じフロアを移動して別の出口まで歩くのは面倒に思えた。多少の遠回りにはなるかもしれないが、まずは外に出たかったのだ。相手からすれば逆だっただろう。

 これからどうするか、それを電車のなかで話していればなんともない話だったのだ。先のことばかり話して目先のことを忘れていた、そんなちっぽけなミスとして記録する。

 これは関係のない話だが、「言わなければ分からない」からと言って、自分の好き放題に言う人も居る。「この尊いかけがえのない俺の感情を理解しろお前の感情は知らん」と言わんばかりだ。どうも自分に対する自信喪失と自信過剰がない交ぜになった人がいると感じる。これについてはまた記録することにする。

夜に爪を切る男

 夜に爪を切ると、親の死に目に会えない、とよく言う。レファレンス事例によると、じつは地域によってバリエーションがあるらしい。いわく、夜に爪を切ると、「親の死に目に会えない(各地で言う)」、「牛の爪になる(和歌山県)」、「思う事が叶わない(山梨県)」、「怪我をする(青森県)」、「盗賊が入る(千葉県上総地方)」、「長病気する(石川県)」、「早死にする(福島県)」「夜道が怖い(京都府)」など地域によって異なる俗信として多数列挙されている*1

 「そんなのは迷信だ」などとこの説を排するのは勝手なのだけど、だからといって夜に爪を切らないでほしいものだ。静まりかえった夜に爪を切る音がどれほどやかましく響くか、想像してほしいものだ。

 夜でも明かりがあるものだから、つい夜であることを忘れて物音を立ててしまうらしい。わたしたちはその無神経さに腹を立てるのだけど、わたしたちは日中彼が寝ているあいだに物音を立てているのだから、おあいこではないか、という気もしてくる。日中に活動するのは当たり前ではないか、とわたしは断固として抗議したいのだが、それは彼が日中に感じる不快感を軽減することにはならない。

 とにもかくにも、わたしは夜に爪を切るこの人物に心底腹が立ち、「親の死に目に会えないのも当然だッ」と内心で憤慨しながら、布団をかぶって寝た。

*1:『故事・俗信 ことわざ大辞典』(小学館 1982)p.1207

「お住まい夢物語」

 「お住まい夢物語」というスマホゲーをちょっとだけやっているので、メモ。

 快適さを高めるには「専門部屋」の整備が欠かせないと思いますが、快適さを増やす効果の大きい専門部屋は、スクラッチ(運の要素が大きい)で出現する家具が必要だったり、そもそも出現条件が難しかったり(世界大会で優勝など)するので、そこまでやらなくてもそこそこ楽しめるように考えました。

 まずは第一世代が存命のうちに、開発環境を整える。そして第二世代や第三世代の突出した子どもたちを集中的に育ててゆく。第二世代以降は頭脳が400オーバーの子とか居るので、第一世代は第二世代の環境整備、もしくは転職によるパーツの開発に専念したほうがよいのかなと思いました。

 スコアを狙ってプレイすると、家のなかに本棚と机がいくつもあるのにベッドがないという滅茶苦茶なことになりかねないので、スコアを気にせずまったりプレイするのもありだと思いました。

 一周まったりと楽しんでから、攻略WIkiを参照しました。ありがとうございました。
お住まい夢物語 - 新・カイロパーク攻略 Wiki*

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今日の夢

  学校にいる。休み時間かなにかに教室をぬけて図書室に入る。入口にふつうの机とイスがあって、そこに女の子が座っている。部屋が2つあって、気になってはいってみたけど、どちらも照明がついていない。変だなと思いながらも図書室を出ると、廊下で外国人教師(?)と男の子と会った。

 学校からの帰り。バスに乗ったはいいが、忘れ物をしてしまったことに気がつく。バスはじきに終点の「駅」へと着く。仕方がない、折り返して取りに戻ろうと思ったのだが、駅につくとバスは「新発田駅行 特急便」となってしまう(そんなバスあるか?)。目的地だったはずの学校は公民館になっており、道は細く直角に曲がっていて、およそバスが曲がれるものではない。しかしバスはなぜか切り返しながら曲がりきり、なだらかな階段となった坂道をなぜかなだらかに下ってゆく。突き当たるとそこもまた坂道になっていて、バスは左折して上ってゆく。バスの車内には学生らしき子がふたりいて、意気投合する。ひとりは酔いそうになっている子で、友人の出場する大会を見るためにバスに乗っているというが、もう一人はわからない。家でつくってもらった弁当などを食べながら過ごすが、私と酔いそうな子の弁当がバスの振動でごちゃごちゃになりそうになった。いつのまにか窓にカーテンがかかっていたので開けると、どこまでも曇った空に雪が降っている。もうすぐ終点が近いらしいアナウンスが流れたので運転席に顔を出すと、「XXくん(わたし)は駅前で降りられるようにするからね」という声がした。その運転手は裾広がりの髪形をした、アニメの美少女を思わせる顔だった。けれどわたしはなんの違和感も持たなかった。