もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「おいしいコーヒー」という言葉について

 我ながら面倒くさい奴だと思うのだけど、ある喫茶チェーン店で「おいしいコーヒー」という言葉を見かけたとき、私は少し引っかかってしまった。たしかに、ありふれた表現なのだけど、「おいしい」という主観的な表現が客観的な形で用いられていることが、何となく引っかかるのだ。

 つまらない極論を言えば、おいしさというのは構成する要素が複雑すぎる。コーヒーだけで見ても、そもそもコーヒー自体をまずいと思う人も少なくないだろうし、好きな人のあいだでさえ、苦味やら酸味やら、まったく方向の違う味がそれぞれにあって、どちらも好きだという人も居る。さらに、一人の人間のなかでさえ、状況によっても変わりうる。もし渇望している時があれば(あるのか?)おいしく感じるだろうし、反対もそうだろう。だから、おいしさを客観的に定義することはすごく難しい。

 とはいえ、主観主義とでも言うのか、ただただ反射的に「おいしさは主観的なものだから議論する意味がない」と考えるのもつまらない気はする。この「おいしいコーヒー」を、何とか解釈したいのだ。おいしさをきちんと主張するなら、おいしさを勝手に定義するのが手っ取り早いだろう。

 つまり作り手に言わせれば、我々(作り手)の言う「おいしいコーヒー」とは、これこれこういう条件を満たしたコーヒーである。本製品はその定義を満たすので、我々はこれを「おいしいコーヒー」と標榜しているのである……と。

 ただ、それでも、その定義について人びとの合意が得られるか、その定義自体の正当性を示せるか、というのは怪しい。そうでなければ、すでに究極のコーヒーが出来上がっているはずだ。(実際、私自身、そのコーヒーはわざわざ標榜するほどにおいしいとは思えない、ごく普通の、普通においしい珈琲ではあると思った)

 こんな面倒くさい話をするまでもない、一言で言えば、疑問はこうだ。提供するほうが「どうぞ、おいしいコーヒーですよ」と言ったところで、飲んだ人が「いや、私はそうは思いませんけどね」と言って退けることは容易い。では、「おいしいコーヒー」はどうすればその批判に対抗して正当性を主張出来るのか。そもそも、何故そんなに難しく面倒くさい主張をあえてするのか? ということだ。わざわざハードルを上げておいしさを主張するのは無理筋だよ、と、要らぬお世話であることを承知で心配してしまう。

 いやいや、もっと単純に考えよう。「おいしいコーヒーですよ」と店側が言っているのだから、「ああ、おいしいね」と思って楽しめばいいのだ。いや、それでもやっぱり、自分だけの世界に外から踏み込まれているような気がして、違和感を覚えてしまう…………やはり私は面倒くさい人間である。