もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

なにも分からない

 わたしはなにも分からない。本当になにも分からない。自分が正しいと思うことなんて、ひとつもない。世の中の人は、なぜ自分が正しいと思えるのだろう? こういう疑問がずっと心のなかにある。

 もちろん社会生活上やむを得ないから、わたしは自分が正しいと思っているかのように言動をすることがある。わたしが観光客に「スカイツリーはどちらですか」と聞かれれば、「あの道をまっすぐ行って、大きな交差点がありますからそれを右に曲がってください」と答えるだろう。だが心のなかでこう思う。「……と、私は思っていますが、それは間違っているかもしれません」。果たして自分はきちんと道の説明をしただろうか? 間違えて彼らを迷わせはしていないだろうか?

 これは聞き手である彼らの理解力を信じていないというわけではなくて、純粋に自分の頭のなかにある、馴染みの場所の地図が間違っている可能性を考えてしまうということだ。

 こういうことをありとあらゆる場面で思う。自分の考えに自信がない。だから少しずつ自分の考えを作ってゆく。それも間違っているかもしれない。だから他人と話すことも本当は恐い。他人とシャボン玉を少しずつ押し合って、割らないように、割らないように、時間をかけて慎重に近づくのがいい。最後にはそれは重なり合うのだ。

 もちろん世のなかには「シャボン玉なんか割れたっていいじゃないか、もっとスピーディーに対話を重ねてさっさと答えを出すに限る」という人も大勢いる。けれどわたしは、落とし穴があるんじゃないか、間違えた道に足を踏み入れつつあるんじゃないか、といつも気が気でない。それになにより、シャボン玉が割れると悲しいと感じる。

 わたしは自分というものを消したいと感じている。自殺願望ではなくて、何かものをいうときの主体としての自分を消したい。例えば、自分と意見が結びついていると、意見を否定されただけでも自己否定されたかのように感じてしまうことがある。これを防衛しようとしていたずらに自分の意見に固執する。しないまでもムッとしたりする。あるいは、何かの拍子に自分の「すごいと思われたい」という思いだとか「格好良く見せたい」という思いが紛れ込む。その気持ちはある場面では大切かもしれないが、たいていは相手にその嫌らしさを見抜かれてしまう。わたし自身もそれを感じることがあるから、わたし自身が与えてしまっている場合もあるかもしれない。

 このことを考えると、結局「わたしはなにも分からない」というところに還ってくる。自己というものをまったく信じていない。自己を肯定も否定もしない。ただそこにあって、うだうだ考えたり思ったりしているだけだ。