もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ネット将棋について

はじめに

 ネット将棋をやっていたのだけど、やめた。わたしは将棋ウォーズと将棋倶楽部24をやっていた。実力はまったくなくてせいぜい級位どまりだったのだけど、それでも負けすぎて面白くないからやめたというわけではない。ネットの早指しのテンポが合わないし、感想戦もないし、というのでネットで指すこと自体がわたしの感覚に合わないのだと感じた(完)

テンポが合わない

 ネット将棋のテンポが合わないというのは、せっかちな指し方がとにかく多いということだ。こちらが一手指すと1秒もしないうちに次の手が返ってくる。これはわたし個人の感想にすぎないけれど、失礼じゃないかとさえ感じる。それならネット将棋をやるなという話だが、本当にその通りだと思ったのでやめることにした。

 もちろん勝負の上では時間内でどう指そうが自由だし、時によってはそうやって畳みかけて焦らせる盤外戦術もありうる。けれどわたしは趣味でやっているだけなので、心穏やかにしてよく考えて指したいし、その考えた結果がどうだったかを、対局後に反省したい。時間も15分くらいならともかく、5分などになるともはや別の競技だ。5分以下になるとバチバチ反射的に殴り合うような、格闘技のような将棋になってくる。見る分には楽しいし、格闘技をやることで得られる楽しみもあるだろう。ただわたしはついていけない。

感想戦がない

 たまーに、たまーーーにあったけれどほとんどなかった。話しかけてもたいていは無視して退出。応答してくれることは少なく、まして積極的に感想戦に臨んでくれる人は両手で数えられる程度ではないか。

 感想戦も、わざわざその場でソフトで解析してやるのではなくて、なんとなく「自分はこう読んでいたけれどこう来たので驚いた」とか「自分のこの手が酷くて一気に形勢が変わったと思った」とか、自分の印象を勝手に書いたりして話し合いになるのが面白いと感じる。結局将棋をタネに喋りたいだけなのかもしれない。ごくまれにそういうことがあって、楽しいと思ったりもした。

 大半の人は、勝ったにせよ負けたにせよすぐに黙って退室することが多い。勝った場合にはそれ自体大満足、負けた場合には悔しさで退室、ということなのかもしれない。せっかちな指し手といい、相手が人間であることなど知ったことではないと言わんばかりだ。

ソフト指し

 それに、ソフト指しの問題もある。序盤で一手ずつやたら時間がかかるのはいい。怪しいけれど。怪しい点はほかにもある。読み筋が一貫していなかったり、常人には見えない手を指す。一歩間違えれば自分がやられるのにさほど時間を使わず平然と斬り込んで来るし、そのくせ「異様に」失敗しない。

 読み筋が一貫していないというのは、会話になっていないのに似ている。これをやったからには流れで自然にこうなるだろうというところでまったく違うことをやってくる。局面局面で判断を下すコンピュータの特徴かもしれない。将来は変わるかもしれないけれど。

 常人には見えない手、「え? なぜそこ?」という手を急に指してくることもある。攻めていたのに突然受けに回って底歩を打ってきたりする。よく考えるとこちらの有力手を防ぐ手になっている。けれど、それをやるならもっと前に出来たんじゃないか? おそらくその数手前だと数分数十分かけなければ読めない手だったのが、局面が進行し数秒で上がってきたということなのだろう。

 平然と飛び込んでくるのは言うまでもない。ふつうだったら、リスクが高い、つまり「自分に読み逃しがあったら一気に不利になるから恐い」と思うはずのところをさほど時間をかけずにつっこんできたりする。

 それなのに恐ろしいほどに失敗をしない。プロでさえ中~終盤で間違えて1000以上の数値がひっくり返ることもあるというのに、とにかく間違えない。

怪しい

 これらのことは、高段位ならともかく、級位~初段でそんな正確な指し方が出来るものとは思えない。ただこれは単なる疑いや違和感にすぎず、こうした条件がそろったからといってソフトであるとはまったく言えない。指し手とソフトの一致率がもっとも分かりやすい証拠になるかもしれないが、ある程度の棋力があれば候補手を自分で提示し、ソフトを補助的に使い最善手でなくとも次善手を指すなどして回避できてしまうかもしれない。だがそれでもソフト指しをされる側は違和感を持つだろうし、その違和感を持つだけの理由はあるということだ。いずれにせよ、指している途中も「怪しいなあ」と思いながらやるのは楽しくない。(あまり主旨に関係のないはずのソフト指しの話が長くなってしまった)

やめたっ

 それで結局、わたしにとっては目に見える世界でやるものなのだと思うようになった。もともとわたしにとって将棋は、たまに会った親戚と向かい合って指すものだった。祖母の家にはなぜか、縁台将棋で使うような安っぽい将棋盤があって、祖母の家でたまに将棋が出来る親戚と会うと、ほこりをかぶった将棋盤をひっぱり出して指した。小さいころのそういう記憶が強くて、これまではその延長線上にネット将棋を見ていた。けれどやはり、ネット将棋はまた違うのだ。それはそれで楽しめる人がやればよいし、わたしにはわたしの楽しみ方がある。かつてと同じように、少ない知り合いとパチパチ、しょぼい将棋を指しているのがわたしには合っているのだろう。そういう当たり前のことに、やっと気がつくことができた。