もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

人を試すことについて

 悪趣味なことに、わたしはあえて人を試してみたりする。……人を試す? すこし違う。ちょっとした社会実験ごっこと言った方がいいかもしれない。

 人を試すのは好きではない。前提として、ここで言う「人を試す」というのは、ある特定の他者の真意を引き出すために、自分の本位ではない言動や行動をとること、というくらいの意味あいにしておこう(学校や資格の試験なども人の能力を試すと言えなくないかもしれないけれど、それを含んだら収拾がつかない)。

 人を試すというのは、基本的に相手を不快にさせるものだ。あの手この手で他人の本心という見えないものを引き出そうとする。その点だけで言えばインタビューと近いのかもしれないが、その根本にあるのは相手への関心でも信頼でもなく、疑心でしかない。そして人を試そうとする人は、自分の疑心を覆い隠しながら、自分だけは相手の本心という欲しいものを手に入れようとする。こういうことだから、上記のような意味で試されることを不快に感じるのは当然のことだとわたしは考えている。

 少し話が長くなった。わたしがやるのはこういう「人を試す」こととは違うから、社会実験と言い直したのだ。この説明のためだけに500字近くも使ってしまった(これでも頑張って削った)。

 どのような実験かと言うと、例えば電車のホームでまだそれほど混んでいない夕方4時ごろ(ほぼ同じ状況の話は以前にも書いた)。ホームドアのまえを少し開けて立ってみる。よく言う「黄色い線より内側」に立つ。こんなホイホイにひっかかる人は多くない。なぜなら、ホームドアの直前には黄色い点字ブロックがあり、ラッシュ時でもないかぎり(本当はラッシュ時でも)、通路として空けておくべきことには疑いがない。それに、すでに人が立っているにもかかわらずその前に立つということは、立っている人(この場合わたし)や周囲の人に「割り込み」と解釈される可能性が非常に高い。「旅の恥はかき捨て」というような考え方をする人よりは、自分という人間がその場限りであっても他者からそのように受け取られること自体を嫌う人のほうが多いのではないか、と思う。だから並んでいる人のまえに立とうと言う人はそれほど多くないだろうし、経験的にもそれはおおむね正しいだろうと思っている。

 だが、そんな推測をあざ笑うように、平然と目の前に立つ人間がいる。「わたしが並んでいない」と解釈したのか? 「割り込めるように立っているのが悪い」と正当化したのか? 自分が座って楽をするためには何をしてもよいと思ったのか? なにも考えずに立ったのか?

 そしてそういうことをする人たちに、共通するところはあるだろうかと考えてみたりする。無邪気な老人か、顔つきのゆがんだ男性が多い気がするが、これは割り込み行為からそう印象付けてしまっていると思うので当てにならない。しかしやはりお友達になりたくはないタイプの人間であろうとは思われる。