もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「イワン・イリッチの死」

 「イワン・イリッチの死」を読んだ。やはり有名な本だけあって、読後「あぁ~~」となった(語彙力)。

 イワン・イリッチは社会的に見ればかなり成功していた人物といえる。官吏としての役割をまっとうしながら、快適な人生を作り上げてゆく。ところが、突然の病が彼の生命を蝕む。体は衰弱し、痛みはしだいに耐えがたいものとなってゆく。そんななかで家族も医者も自分の苦しみを何も理解してくれない。ましてや和らげてくれるはずもない。

 こうした経過のなかでイワンは「自分のこれまでの人生とはなんだったのか、自分の人生は間違いだったのではないか」という強烈な疑問に直面させられる。社交的な生活――うわべだけの笑顔や楽しみ。虚飾に満ちた人生すべてが間違っていたと、死ぬ間際に考えなければならないと思うと、恐ろしさしかない。耐えがたい肉体的な痛みと同時に、病苦が誰にも理解されないという孤独感や、みずからの人生について後悔せざるを得ないという苦しみが、イワンを弱らせてゆく。

 彼を理解してくれた数少ない人物が、百姓のゲラーシムと、中学生の息子ワーシャだった。ゲラーシムの善良さと、ワーシャの嘘偽りない涙が、彼に大きな救いを与えた。

 ゲラーシムは、死にゆくイワンを死にゆく人間として見つめ、気の毒に思った。彼の憐みがイワンの心を和らげた。イワンが過ごしてきた社交的な世界と、ゲラーシムの素朴な善良さ。やはりこれは対極にあると考えられる。

 その社交的世界の住人、家族を含めほかの人たちは、「すぐよくなる」などと言ってイワンに憐みを向けることはなかった。彼を心配するそぶりは見せたが、ほんとうのところでは彼の状態を理解しようとしていなかった。それをイワン自身も知っていたから、彼らの存在はイワンを苦しめるばかりだった。 

 ワーシャの場面は一番お気に入りなので少し長いけれどそのまま引用する。

 それは三日目の終りで、死ぬ二時間まえのことであった。ちょうどこのとき、小柄な中学生がそっと父の部屋に忍び込んで、寝台のそばへ近よった。瀕死の病人は絶えず自暴自棄に叫び続けながら、両手を振り回していた。ふとその片腕が中学生の頭に当たった。中学生はその手をつかまえて自分の唇へもってゆくと、いきなりわっと泣き出した。

 ちょうどその時、イワン・イリッチは穴の中へ落ち込んで、一点の光明を認めた。そして、自分の生活は間違っていたものの、しかし、まだ取り返しはつく、という思想が啓示されたのである (p. 100)

 彼は自分の人生に苦悩し続け、最後の最後で「自分の人生は間違いだった。でも、まだ取り返しはつく」という考えに至る。死の間際に取り返しがつくと言える。これは本当にすごい。そしてその思想のさきに彼は「本当の事」を見つける。そしてそのことが彼を苦痛から解き放つ。それはいったい何だったのか。

 そこで物語は終わる。ここで冒頭に戻れば、彼自身の彼の死と、他人にとっての彼の死の隔たりをいっそう感じざるを得ない。イワンの友人らにとってイワンの死はしょせん他人事であり、自分たちにもあり得るものとしては受けいれられていない。けれど、それは彼らの心のどこかで不快さを呼び起こす何かなのだ。そしてまた、そのような彼らの態度は、かつてのイワン自身のものでもあるということを忘れてはならないと思う。わたしたちはゲラーシムであるべきなのだ。自分が安らかに死ぬために。

 

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)