もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

読書の時間

 小学校のころに、読書の時間というのがあった。読書の成果を記録する紙が配られ、そこに本のタイトルやページ数を書きこんでゆく。読書ページ数は張り出されるかなにかで公表され、多くのページ数を読むと先生に褒めてもらえた。いま思えば、学校は「本を読め」というばかりで、本の選び方や読み方についてはまったく教わらなかった。

 わたしにとって本は「読まされるもの」でしかなかったから、読書の時間には少し嫌気がさしていた。そこでちょっとしたズルを思いついた。そうだ、「辞書を読んだ」と言い張ればよいのだ。そうすれば8000ページを読んだという実績ができる。読んでいないものを読んだと言い張るというのは、詐欺かなにかの始まりだとも思えるのだけど、そんなわたしを先生は叱るどころか褒めそやした。当然それをこころよく思わない子もいて、ズルかどうかが問題になった。そこに担任の先生が分け入って判決を下した。「~くんにはボキャブラリーがある」。わたしをかばったのである。

 わたしも酷いが先生も酷いと思った。本を読んだという事実それだけでわたしへの評価を変えたのだから。先生はわたしがシャーロック・ホームズシリーズや漢和辞典を読破したと思っていた。そうだと信じるしかないほどのひいきぶりだった。けれど、わたしは1ページたりとも読んでいない。ページをめくるくらいはしただろうが、今になってはまったく記憶がない。「緑色の表紙に”緋色のなんとか――研究だったか”というタイトルが書いてあったな」と言う程度でしかない。この程度の読んだかどうかも怪しいほどの読み込みで「読んだ」などと言っていたのだから、ホームズ愛好家から鈍器で殴られてもおかしくない。

 豊かな心をもつために読め、と学校は言ったかもしれない。それは間違っていないかもしれない。けれど本当は教養のために読ませたかっただけではないか。なんだか読書と言うと知的だから。ゲームやマンガは知的ではないから。当時はこのような考えを言葉に出来るほどの語彙力もなかったけれど、そういう決めつけに対する反発心は当時からあった。だからこその辞書読破宣言というわけだ。

 こうした出来事が、「読んだ」とはなにか、という疑念をわたしに残した。読まなくても、読んだと言い張ってそれなりのことを知っていれば「読んだ」と認められる。反対に、読んだのにまったく覚えていない、なにも残っていないというのであれば、「読んだ」と宣言する意味はどこにあるのだろうか。