もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「眠っているとき、脳では凄いことが起きている」

 面白かったので思い出しながら羅列してみる。睡眠(とくにレム睡眠)時の脳活動、そしてその産物でもある夢。これは人間にとってどんな意味があるんだろう? 結局よく分からない部分もあるのだけど、分かってきた部分もあるらしい。以前テレビで見て知ったかぶっていた知識がずいぶん更新された。

睡眠と思考

 睡眠が不足すると、考え方や道徳的な判断にも影響を及ぼすらしい。例えば危険をともなう行動によって快感を感じやすくなる一方で、つらい状況にによって反応するはずの部分が反応しにくくなったりする。結果として、危険をともなう行動を選びやすくなる(それは高層ビルを命綱なしで歩くなど、危険な行為を好む人の反応に近いという)。あるいは、否定的な感情を取り除く働きが弱り、否定的な認知に反応する部分が過度に興奮する結果、怒りやすくなったりする。また、創造的な思考をする能力が低下し固執するような思考をしやすくなる。

 眠りが不足すると脳の反応自体が変わってしまう。イライラして性格が変わるなどと言うのではなくて、人が「性格」と呼んでいるもの自体が変わってしまうということかもしれない。なんだかイライラしていたり、世のなかを悲観的に見て、悲観的なニュースばかりを取り入れていることに気づいたとき、じつは睡眠が足りていないのではないかと考えてみたい。

 レム睡眠、睡眠の段階

 レム睡眠というのは REM (Rapid Eye Movement) の略で、その名のとおり急速に眼球が運動しているのだという。脳も部分的に活発に動いていて、例えばアセチルコリンという覚醒系の神経伝達物質は覚醒時と同等かそれ以上に放出されているらしい。とはいえ、それは「レム睡眠は浅い睡眠で、ノンレム睡眠は深い睡眠である」というような単純な話ではないらしい。レム睡眠下は体は休んでいて、眼球以外の運動はほとんど出来ない(もちろん呼吸などは別)。深い睡眠であるにもかかわらず、脳は活発に動いているということから、「逆説睡眠」とも呼ばれるらしい。

 睡眠中に活発になると言えば、SWS (Slow Wave Sleep) もそうらしい。徐波睡眠と呼ばれるこの睡眠では、脳波が特徴的な大きくゆったりとした波を描くという。脳が全体的に、生理学的に距離のある部位同士が連動するかのように、波長をそろえることでこの大きな波が作られる。この段階の睡眠が記憶学習と何らかの関わりがあるのではないか、という話もある。

眠っているとき、脳では凄いことが起きている: 眠りと夢と記憶の秘密

眠っているとき、脳では凄いことが起きている: 眠りと夢と記憶の秘密

 

「フランダースの犬」を読みました

 フランダースの犬を読んだら、けっこう印象が変わった。アニメ版で、ネロがパトラッシュとともに安らかに息を引き取る場面はあまりにも有名だ。だけれど、わたしはそこしか知らなかった。物語についても、漠然と「善良な少年が村の人々からいじめられて死んでしまい、それから周りが改心する話」だと思っていた(単純すぎる笑)

 けれど、原作を読んだらそれだけじゃなかった。まずネロはただ純朴で聖人のような少年というわけではなくて、画家として成功するという若者らしい夢と野心を持ち(そしてその才能もあった)、アロワという女の子に恋をする、とても人間らしい少年だった。

 パトラッシュも、ひどい虐待を受けて死にかけていたのを、ネロとおじいさんに救われるかたちで出会っている。だからパトラッシュはネロをあれほどに慕っていたのか。

かわいそうなパトラッシュ

 パトラッシュは最初、乱暴な主人のもとで荷車を引かされ、食事もまともにもらえず、虐待を受ける日々を過ごしていた。そんなパトラッシュにとってネロとおじいさんはまさに命の恩人。だからパトラッシュの原動力はつねにネロとおじいさんに対する一心の愛情だった。

 そしてまた重要なことは、そういう生い立ちにあるパトラッシュは、ネロよりもこの世界の非情さを理解しているということ。パトラッシュは、ネロの夢想がある部分で若さゆえの思い上がりであると知っている。それでもパトラッシュはそれを否定しないし、自分のために生きるよりもネロとともに死ぬことを選ぶ。そう考えると、パトラッシュの行動の重みがいっそう感じられる。

「貧しい少年」として生きること

 一面から見れば、社会福祉制度のない時代の恐ろしさという話かもしれない。ネロと年老いて弱りゆくおじいさんは周りの人びとの善意でなんとか食い扶持を繋いでいたけれど、その善意が外されたときに生きることが急激に難しくなる。そしてじつは誰よりも絵の才能があって、じつは第二のルーベンスともなり得たかもしれないネロが、死ななければならないところまで追いつめられる。では何に追い詰められるのかといえば、それは周りの人びとの無関心であり、「貧しい少年」という偏見だったのだろう。

 そう考えると、無関心ではあっても税金を勝手に巻き上げられて(もちろん恣意的な重税は論外にしても)、勝手に貧しい人にも分配されるという仕組みは、人びとの善意”のみ”に頼るシステムよりはよほどマシなものだと言えるのかなと感じた。

読んで思ったこと

 読んで最初に思ったのは、「アロワ(アロア)とその母は、ネロをなんとかしてあげられなかったの!?」ということです。ネロのことを想っていて、しかもアロワはネロの死の気配を感じ取っていてもおかしくないのに、なぜ止めなかったのかということ。悲しい話は大体そうですよね。悲しい結末が嫌で、「周りはこうできただろ!」と思ってしまう。けれどアロワたちは本当に何かもっと出来たんじゃないかなぁ……。絵の才能も知っていたわけだし。そこがなんだかアロワのイメージがすっぽ抜けていて、まだつかめていないです。

 そして次に思うのはやはり「ネロはなぜ死を選んだか」ということです。もちろん内容としては分かるのですが、心情的にまだ読み切れていないです。それまでずっと不遇だったこともあり、さらに放火の疑いをかけられて孤立したり、文字通り命をかけて臨んだコンテストに落選したり、生きるのを挫くのに十分な出来事が降りかかりました。けれどそういうことがどうやって彼に死を決意させたのか。しかも拾った大金を返し、パトラッシュを置いて、一人で最後まで清く生きようとする。これはネロの夢想家、野心家的な部分とはまったく違うものですから、やはりそれだけ衰弱していたのかなと想像しています。そしてそこにパトラッシュが寄り添うのがまた重みがありますね。人にひどい仕打ちを受け、ネロとおじいさんに愛を与えられ、愛のために死んでゆく。

 ネロの自殺とも言える行動と、それに追従するパトラッシュの行動に対しては賛否両論あると思いますが、そういう生き方もあるのかなあと思いました。そのあたりが分かってくると、最後にネロが見たルーベンスの絵画の意味も分かってくるのでしょうか。

 このようなことを感じながら読みました。全体的には、想像していたよりもドライなところもあり、考えさせられるテーマもありました。才能ある人物が不遇のまま花開かずに死ぬことの悲しさなど。

 ただネロの死後に彼を苦しめていたことがすべて解決するなど、私は物語としてブラックジョークじみたものを感じましたし、そのようにした作者を少し残酷だとも正直感じました。彼が死んでいなければ、彼は間違いなく成功したし、夢も叶っていた。こういう結末にするなんて。ほかの方がどう感じられるか興味のあるところです。

 いずれにせよそういうところも含めて面白く読みました。こういう本は、ほかのひとと感想を語り合いたくなりますね。また読みたいと思います。

「イワン・イリッチの死」

 「イワン・イリッチの死」を読んだ。やはり有名な本だけあって、読後「あぁ~~」となった(語彙力)。

 イワン・イリッチは社会的に見ればかなり成功していた人物といえる。官吏としての役割をまっとうしながら、快適な人生を作り上げてゆく。ところが、突然の病が彼の生命を蝕む。体は衰弱し、痛みはしだいに耐えがたいものとなってゆく。そんななかで家族も医者も自分の苦しみを何も理解してくれない。ましてや和らげてくれるはずもない。

 こうした経過のなかでイワンは「自分のこれまでの人生とはなんだったのか、自分の人生は間違いだったのではないか」という強烈な疑問に直面させられる。社交的な生活――うわべだけの笑顔や楽しみ。虚飾に満ちた人生すべてが間違っていたと、死ぬ間際に考えなければならないと思うと、恐ろしさしかない。耐えがたい肉体的な痛みと同時に、病苦が誰にも理解されないという孤独感や、みずからの人生について後悔せざるを得ないという苦しみが、イワンを弱らせてゆく。

 彼を理解してくれた数少ない人物が、百姓のゲラーシムと、中学生の息子ワーシャだった。ゲラーシムの善良さと、ワーシャの嘘偽りない涙が、彼に大きな救いを与えた。

 ゲラーシムは、死にゆくイワンを死にゆく人間として見つめ、気の毒に思った。彼の憐みがイワンの心を和らげた。イワンが過ごしてきた社交的な世界と、ゲラーシムの素朴な善良さ。やはりこれは対極にあると考えられる。

 その社交的世界の住人、家族を含めほかの人たちは、「すぐよくなる」などと言ってイワンに憐みを向けることはなかった。彼を心配するそぶりは見せたが、ほんとうのところでは彼の状態を理解しようとしていなかった。それをイワン自身も知っていたから、彼らの存在はイワンを苦しめるばかりだった。 

 ワーシャの場面は一番お気に入りなので少し長いけれどそのまま引用する。

 それは三日目の終りで、死ぬ二時間まえのことであった。ちょうどこのとき、小柄な中学生がそっと父の部屋に忍び込んで、寝台のそばへ近よった。瀕死の病人は絶えず自暴自棄に叫び続けながら、両手を振り回していた。ふとその片腕が中学生の頭に当たった。中学生はその手をつかまえて自分の唇へもってゆくと、いきなりわっと泣き出した。

 ちょうどその時、イワン・イリッチは穴の中へ落ち込んで、一点の光明を認めた。そして、自分の生活は間違っていたものの、しかし、まだ取り返しはつく、という思想が啓示されたのである (p. 100)

 彼は自分の人生に苦悩し続け、最後の最後で「自分の人生は間違いだった。でも、まだ取り返しはつく」という考えに至る。死の間際に取り返しがつくと言える。これは本当にすごい。そしてその思想のさきに彼は「本当の事」を見つける。そしてそのことが彼を苦痛から解き放つ。それはいったい何だったのか。

 そこで物語は終わる。ここで冒頭に戻れば、彼自身の彼の死と、他人にとっての彼の死の隔たりをいっそう感じざるを得ない。イワンの友人らにとってイワンの死はしょせん他人事であり、自分たちにもあり得るものとしては受けいれられていない。けれど、それは彼らの心のどこかで不快さを呼び起こす何かなのだ。そしてまた、そのような彼らの態度は、かつてのイワン自身のものでもあるということを忘れてはならないと思う。わたしたちはゲラーシムであるべきなのだ。自分が安らかに死ぬために。

 

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

 

 

首をはねろ!

 この本を図書館で見つけてピンときました。まず「首をはねろ!」という衝撃的なタイトルで驚き、メルヘンと暴力という意外な副題に興味をそそられました。そうして読んでみると、メルヘンの暴力からいつになっても変わることのない人間のさがを解き明かしてゆく筆者の話に思わず引き込まれてしまい、あっという間に読み終えてしまいました。(こんな長文を読むほど気長な人は少ないだろうと思い、言いたいことは最初の段落でざっくり表現するようにしています)

 メルヘンの残虐性については、ある程度は広く知られていると思います。そもそも「赤ずきん」からして、赤ずきんに助けてもらったおばあさんは狼への報復として腹を裂き石を詰めていますし、「白雪姫(雪白ちゃん)」にしても女王(継母とされることもありますが、初版のグリム童話では実母です)は灼けた靴を履かされ踊り狂って死ぬという壮絶な最期を遂げています。

 こうした有名な例は序の口でしかありません。兄弟、親子、祖母と孫、嫁姑、隣人といった身近な人間に嫉妬し、不幸を願い、殺害を企てる。それも、ただ殺すだけでは飽き足らず、じわじわ傷つけながらなぶり殺したり、目を抉ったり、焼いて生き地獄を味わわせたり、スープにしたりと、残虐な物語ばかりが取り上げられています。それを知るだけでも衝撃的で面白いところです。

 そしてさらに本書が面白いのは、その残虐性を面白おかしく取り上げるのではなく、「なぜ残虐なのか」というところに考えを進めているところにあります。それを要約するとこのようになります。

広範囲に及ぶ資料の中から、わたしは代表的な暴力シーンを選び出し、分析した。これらのシーンを見て分かるのは、いかに人間は暴力的になりやすいかということ、いかに人間が暴力をふるい、あるいはそれに耐えているかということ、あるいは、いかに人間が暴力から身を守っているかということである (p. 7)

 そこから見えてくるのは、人間が持つ”暴力に対する欲求”でした。ある場合には進んで暴力を行使し、それが叶わぬ場合は空想のなかの暴力で抹殺し、身を守るための暴力は正当化される。その暴力は、兄弟や姑といった家庭内(家族が憎み合うということです!)はもちろんのこと、隣人、教会、王国と、人間社会のありとあらゆるところに存在するものです。

 ここで筆者は重大な指摘をしています。それは、この”暴力に対する欲求”を誰もが持っているということです。メルヘンの読み手は、自分は善良な主人公であると信じたいでしょうし、残虐極まりない悪役(身内であることも多い)の死を願うでしょう。ところが筆者は、悪役が描く嫉妬や不信という感情はわたしたち自身が持つものでもあると言います。家族を八つ裂きにしたいと願うことはなくても、自分より出来の良い弟が居なくなれば……、などという他人を排除したがる感情があるというのです。

 そしてメルヘンは、そうした負の感情を抑制したいと思う人びとの気持ちに応えるものでもあります。悪役に自分のおぞましい感情を乗せ、悪役が処刑されることで自らのおぞましい感情も処刑される。そうして善良な自分を信じることができる。ところが、悪役を処刑するのもまた暴力なのです。”正当と認められた暴力”に人びとは快感を見出します。それを逆手にとって、正当であると主張するために、被害者を悪人に仕立て上げることさえあるのです。

 本書を読めば読むほど、メルヘンの残虐性は「ずっと昔の、しかも外国の話だから」「文化が違うから」などと言って済まされる話ではなく、むしろ人間の心や人間の営みにつきまとう普遍的な問題をそのまま描いた物語なのだということを感じずにはいられません。そこには当然負の部分も描かれています。しかし不思議なことに、本書を読んでそうした負の部分が描かれていると知ることで、いっそうメルヘンに対する共感や考えが深まってゆくのです。

 あらためて、グリム童話も読んでみたいものです。

首をはねろ!

首をはねろ!

必笑小咄のテクニック

小咄の分析に隠された社会への警鐘――笑えるのにハッとさせられる本

 米原万里さんの書評を読むと、こういう読み方がしたいなと思わずにはいられません。小説から政治的なノンフィクションまで、ジャンルを問わずこんなに本を楽しんでいる人がおられたとは。楽しんでいることが伝わってくるものを読むと、こちらまで楽しくなってきます。というわけでときどき米原万里さんの本を読んでいて、本書もその一冊です。

小咄を考える面白さ

 この本は、小咄の面白さを分析しようという、ある意味で無粋な本です。本来は悲劇になるところを喜劇にしてしまうブラックなユーモアや、たった一行で物語の全容をひっくり返してしまうオチなど、いくつかの技法を紹介するだけではなく、「さあ、あなたもやってみて」といわんばかりの応用問題もついています。例えばこのような問題。

次のセリフを最後に持ってきて男にしてやって、いやオチにしてやってほしい 「すみません、喫煙者用のボートはどちらでしょうか?」

 この答えをすこし考えてみましょう。――この問題に答えるためには、「変哲のないセリフがおかしくなるような状況はなにか」と考えて、さらにそこに必要な要素を加え、無駄な要素は削り、そうして構成してゆかないといけません。この例題ひとつだけでも、小咄は想像(イマジネーション)の産物であると同時に、テクニックも欠かせないのだということがよく分かります。

笑いに隠された社会への警鐘

 ところが、そうした「笑い」だけがこの本の魅力ではありません。というのは、この本はお笑いとしてのジョークの本であると同時に、われわれの社会へ警鐘を鳴らす本でもあるからです。もちろんジョークにも政治的なものはあるのですが、この2つはもっと本質的な部分でつながっています。というのは、ジョークでは笑いの原動力となる奇妙な論理というものが、ひとたび実社会に持ち込まれれば多くの人をあざむく詭弁となりうるということ、まさにそのことに対する警告の本でもあるのです。

 その意味で、本書の最初にある”小咄と詐欺師の手口は似ている”という指摘は、小咄の面白さについて語るものであると同時に、筆者の社会に対する危機意識の表れでもあるのではないでしょうか。

 米原万里さんのエッセイには政治的な発言が含まれているものが少なからずあり、Amazonなどのレビューではそこに賛否両論があるようです。そうした反応が生じることは十分に予想できます。にもかかわらず筆者はなぜそのようなことを書くのだろうかとわたしは考えていたのですが、ジョークを分析した本書を読んで思わず膝を打ちました。というのは、(繰り返しになりますが)ジョークでは笑いの原動力となる奇妙な論理というものが、ひとたび実社会に持ち込まれれば多くの人をあざむく詭弁となるということ。ジョークの面白さを分析することが、じつは社会に対する危機意識にもつながっているのです。

 あまりお堅いのも性に合わないのでこの辺にしておきます。ただただ小咄について考え笑い転げるのもよし、そこから社会的なメッセージを読み取るのもよし、その懐の広さが米原万里さんのエッセイの面白さではないかと思います。そしてこの短い本ほどそれを感じさせられる本もないと思うのです。

必笑小咄のテクニック (集英社新書)

必笑小咄のテクニック (集英社新書)