もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

テレビのHDDをSSDにしてみた

要旨

 テレビのHDDが音を出し始めて壊れそうだったので、SSDに置き換えた。テレビ PANASONIC TH-L19X3 に BUFFALO SSD-PL1.9U3-BK/N をつなげたら上手く行った。

 まぁ、今更2011年製のテレビ(満足しているが安物ではある)にわざわざSSDをつけようという人なんて居ないだろうけれども……。

メリット

 メリットはいろいろあるけれど、静かになるのが大きい。夜中にHDDがデータを読み書きするときの音を聞かずに済む。かなりコンパクトになったのと、熱が出ないのもありがたい。

 価格的にもかなり安くなっているので、PCのついでに SSD への置き換えを進めている。

手順

 手順は簡単。旧HDDを取り外し設定して取り外し、つなげるだけ。

 再び見ることも想定して、設定→初期設定→接続機器関連設定から取り外しておく(変な外し方をすると二度と読み込めなくなったりする)。

 再び見ることが無ければ、接続機器関連設定から登録削除。

反省

 こうして一応は出来たけれど、心配な点はいくつかあった。それは、「そもそも対応しているのか」「前のHDDからデータを移せるか」「寿命はどうなのか」という点。

 対応しているかについては調べようがない(製造時にはSSD自体が無かった)のでダメ元でやってみたが、一応は出来た。

 データは移せなかった。ディーガを通せば出来るかもしれないけれど、そのためにだけレコーダーを買うのも。

 コピーコントロールCDもそうだったが、この手の、メーカーがとる権利者の利益保護のための対策というのは、結局利便性だけが下がっている気がしなくもない。悪いことをする人は難なくザルをすり抜け、普通に使おうとする一般人ばかりが網に引っかかる感。

 寿命については一番不安が残る。大容量のデータを頻繁に読み書きするから、その点がどうか。これから様子を見てゆくところ。

 2ヶ月ほど経った現時点ではなんともない。交換してよかった、と思っている。

練馬区立美術館ショパン展

 今更だけど、練馬区立美術館でショパン展を見てきた。6月14日と最終日28日で2回訪れた。このショパン展は、コロナ禍で時期は遅れたものの、兵庫、福岡ときてついに東京にきた。やはり見たかったのは練習曲ヘ長調 (op. 10-8) の自筆譜とシェフェールによるショパン肖像画。アリ・シェフェールと聞いてピンと来なくても、絵を見れば「ああ、これか!」となるくらい有名な肖像画

 せっかく行ったのでメモを読み返しつつ、思い出しながらメモしてみる。

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メディアスクラム

 このブログは本質的には罵詈雑言ブログである。もともとは、夜10時ごろにバイクが爆音を鳴らしながら自宅の前を通り過ぎたりすると、「うるせーっ、バカバイク! 迷惑行為の道具にされて、あんたのバイクも泣いてるよ!!」などと書き込むつもりで作った。というわけで、その本質に立ち返って、今日も罵詈雑言を漏らそうと思うわけである。

 わたしは、被害者遺族の取材をするマスコミというものがあまり好きではない。実名報道は別の論点としてさておいても、「メディアスクラム(報道者による被害者遺族の取り囲み)」など、明らかに遺族の感情を傷つけ、あまつさえ生活に支障を及ぼすケースもあった*1

 そこで思ったのが、そうしたえげつないまでの取材力は、ぜひ悪事を働く人間に発揮してほしいということである。例えば、被害者遺族などに取材するよりも、駆け込み乗車をした人間を取り囲んで、「無事に乗車されましたが、今のお気持ちはいかがですか!?」とか、「今の駆け込み乗車で後続列車にも5分の遅延が発生しましたが、ご感想をひと言!」とか、「2分後に次の電車が来ますが、なぜ待てなかったのでしょうか!?」という感じで取材してほしい。電車と言えば痴漢も迷惑行為なので、疑わしい段階で取り囲んで頂いて、「さっきから女性のカバンに手を当てて、今度は腕ですか、昨日も同じことをされていましたよね?」とか、「素敵な腕時計ですね、やっぱり自分が格好いいと思っているから、女性に近づくんですか?(女性リポーターが怒りを込めて)」という感じで、心をえぐって行ってほしいと思ったりする次第である。

 なぜこんなことを書くかと言うと、一つには単なる安っぽい正義感、悪を懲らしめたいという憂さ晴らしの空想であるが、もう一つには、こうした迷惑行為こそまさに、それを働く人間の感情と思考を知りたいと思うからでもある。被害者遺族の怒りや悲しみは想像することが出来るが(ただし、分かるということではない)、犯罪になるかならないかの小さな悪事を働く人間の心の内を聞く機会というのはなかなかない。それは既存の社会にまったく適合しない人間とは違い、それなりに善良で、社会に適合し、しかし少しばかり卑怯で自分本位なだけの存在かもしれないのだ。

 こういう、なかなか常人には出来ないことを探求してくれるアウトロー的人間として見ると、ある種救世主のようにも見えてくるのだが、実際には、善人の遺族を取材し傷つけている人がほとんど、真摯に向き合い丹念に取材をしようという人はわずかである、というのが実際の現状なのだろう。

*1:日本新聞協会が2020年6月11日に発表した「メディアスクラム防止のための申し合わせ」でも、座間9人殺人事件などが例示されている。

運動オンチの幸運

 中学校の体育の授業、サッカーの試合で、ガリガリ運動オンチの私が運動神経抜群の不良少年*1を出し抜けたことが、私の人生でもっとも幸運な瞬間だったのではないか、と今でも思っている。

 運動オンチの私が「早く終わってくれ」と願っていたあの時間。よりにもよって他クラスとの合同試合。隣のクラスには不良で運動神経抜群のS君が居た。ちなみにS君の姉は私の姉と同じクラスだったが、私とS君はまったく接点が無かった。私にとっては「姉の同級生のSさんの弟のS君」という認識だった。S君は不良グループの一人だったと思うが、浅黒く日焼けしていて運動神経も良かった。

 あの当時の私は、とにかくサッカー部員にボールを回す職務を全うし、チームからの批判なく無事にこの試合を終えることだけを考えていた。敗因になったことを責められ続けるような陰湿なクラスではなかったが、足手まとい、役立たずと人格批判を受けるのはつらいものがあったからだ。

 記憶にあるのはほんの一瞬のこと。ボールが来て、右足で受けた。前方からS君が走ってきて、進路を阻む。「ボールを回さなきゃ!」と焦った私は、ボールに右足をかけようとしたのだけど、その足がボールの真上で盛大に滑って、足をかけたままボールがぐるりと輪を描いた。足首をひねるところだったが、この奇跡的なフェイントに、S君が「うまっ……!」と呟いたのが忘れられない。がら空きになった左側前方、チームメイトに向かって、情けない体勢で必死にボールを蹴った。あれは、私が唯一サッカーの時間で活躍した思い出だった。

 バスケットボールの時間でも一回だけあった。同じチームの不良の子が「パス!」と言うのを無視して、3ポイントラインの外側からシュートを放った(これがいかに罪深い行為で、どれだけ重大な決心が要るかは、今の男子中学生(特にまじめ系)にも伝わるのだろうか)。

 だが私はそのシュートを2回だけ打って、2回とも決めた。不良の子2人が「すげえ」と言ってくれた。試合待ちで見学していたサッカー部員のO君が、他の子と話しながら「シュートうまいんだよ」と言ってくれた。O君とはその前日に児童館で遊んでいて、そのときもバスケをした。いわばスクールカースト最上位のO君(それぐらいイケていたということ)がそう言ってくれたことは、かなり照れくさかった。もちろん、シュートが決まったのはただの幸運だと知っていたから、あとはボールが来てもパスに徹した。

 こうしたことは私以外の当事者には全く記憶にない出来事になっているだろうが、私にとっては一つの思い出になった。スポーツという、自分にとって最も苦手だった分野における、貴重な成功体験。そのためにまた体育の授業を受けたいとはとても思わないが、学生生活の義務は、そういうものも与えてくれた。

*1:不良という呼称はどうかと思うが、当時はそう呼んでいた。

新型コロナウイルスと私の生活

 新型コロナという脅威とともにあり続けた、そしてあり続けるであろう世界で、少なからぬストレスがあった。それはまさに、未知の脅威に直面した世の中の混沌が、様々なかたちで自分の生活に流れ込んでくる過程だったと言える。だから、この鬱憤を書こうと何度か思って、そのたびにこのブログとしては長すぎる字数の不満や問題意識を書き並べてきたのだけど、それらはなんだか的外れというか、シンプルさに欠けて読みにくいだけだなと感じたので公開しなかった。

 何を書きたいのか? よくよく考えれば、それは世の中の評価をすることではなくて、私にとってのコロナだろう。そうだ。私の考えはこれまでも、他人や世間ばかりを見て、私自身を見ていなかったのだ。「他人が、国が」と思っていても、自分の生活を守るという点に意識を向ければ、他人や政府を糾弾する前に、自分のことを見るべきだったのだ。それが緊急事態宣言下で自宅に引きこもっていてようやく得た教訓だった。こんな当たり前のことに気がつくのに、かれこれ1月ごろから4月までかかったことになる。

 言い訳をすれば、苛立ちの種は極めて多かったのだ。ぱっと思いつく例を挙げてみよう。外国人への差別。マスクの買い溜め。専門家会議が警鐘を鳴らした直後のお花見。平日の通勤を減らせず達成不十分だった8割削減。科学的な認識の難しさを踏み倒して「真実」を報じるマスメディアと、憶測を垂れ流すコメンテーターや「専門家」。それに追従する大衆(それにはこれまで付き合ってきた身近な人も少なからずいた)。不安に便乗した浅ましい商売。科学的根拠のない消毒方法を実践しようとする自治体や企業。嫌々ながら満員電車に乗り込む真面目な人びと。

 その後九州地方をはじめとする災害も重なり、世のなかの不条理な側面を嫌というほど見せつけられたし、ある種の失望感を覚えた。それで政府がどうとか、他人がどうとか思っていたし、たしかにそこには社会的な課題として改善する必要があることも間違いなくある。だが、そんなことを言うよりもまずは自分を守ることが大切なのだ。私が第一にできることは、自分の周囲に問題の原因と怒りの種を探すことではなく、自分が感染しないようにして、そのことによって他人を守ることなのだ。これを私のコロナ対策における出発点としてつねに念頭におかなければならないということを、自分への戒めとして書いておく。

 多くの人にとって当たり前すぎることかもしれないが、他人は変えられないと思うべきだ。社会にはさまざまな人がいて、コロナのことなど知らぬという人もいることを前提にしなければならない。許せない、何とかしろ、と思うかもしれないが、そうした人に出くわすアクシデントを想定しない理由にはならない。たとえば私は、電車でアゴマスクで平気で喋ってクシャミをしている二人組を見た。私は最初にアゴマスクを見た時点で遠くに逃げていた。「たかがアゴマスクを見ただけで逃げるなどおかしい、病的すぎる」と私を責める人もいると思うし私自身もそう思うが、私は電車はそれなりにリスクがある場所と認識していて、そこにアゴマスクでやってくる判断をする人間に警戒感を強めた。

 自分にとってのリスクを意識した行動という原点に立ち返る。

 通勤電車はなるべく時間を外す。時差のさらに時差。早朝あるいは9時半、10時(私の職場ではこういう融通が利く点はありがたい)。また、3密を徹底して避ける。帰宅時には手洗いうがいをしっかりやる。

 こうしたメリハリをつけて最適化することが必要だと考えてきた。最適化とは、なるべく快適さを損なわずに、最大限効果的に対策をするということである。

 「地道なことをしっかりやる」ことの大切さを噛み締めたい。ゼンメルヴァイスは、医療スタッフたちに正しい手洗いを徹底させることで、多くの妊婦を産褥熱から救ったのだ。多くの人が、地道に、確実に行動すれば、それは大きな力となるだろう。緊急事態宣言下の感染者の激減は、そのことを明確に示すものでもあった。その教訓が、再び世の中を良い方向に動かすことを願うばかりである。

 最後に、こうした教えへと導いてくれた本を3つ挙げておきたい。自粛期間中の読書は、墓場のように冷え切った私の脳みそを少しだけ温めてくれた。