もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

K先生

 人にはいろいろな思いやりのかたちがある、ということが分かったのは、意外と最近のことかもしれない。

 小学校のときに、Kという先生がいた。私が小学1年生のときに3年生の先生だったか、とにかく「上の学年の先生」として覚えていて、ほとんど関わることはなかった。その見た目は「クレヨンしんちゃん」の組長……ではなく園長先生そっくりで、髪形もメガネもよく似ていたから、当時から「園長先生だなあ」と思っていた。ただ、ハキハキしていてはっきりものを言う先生だったから、引っ込み思案の私にとっては怖い先生でもあった。

 あるとき、遠足で葛西臨海公園へ行くことになった。関東では珍しくもない。

 その日は朝から雨が降っていて、私はとても気が重かった。私はずっと電車が好きだったし、バスのにおいが大嫌いだった。朝7時、雨のなか100人以上の児童と教員や保護者らは小学校を出て、バスが待っている大きな道路へ向かった。足取りが重たかったのをよく覚えている。

 私は何を思ったか、小学校を出る前にかっぱを着ていた。傘をさすのが面倒臭かったのかもしれない。けれども、バスに着いたらかっぱは必要なくなる。かっぱを脱いで、しまわなければいけない。かっぱを器用にちいさく畳んでカバンにしまうのは、大人でもなかなか難儀する。小学1,2年生の私に出来るはずはなかった。

 それで、見つからないようにと願いながら、かっぱを着たままバスに乗りこみ、最前列の補助席に座った。そして目の前にK先生がやってきて、バスは出発した。

 高速道路のカーブのところだったから、おそらく出発してから10分から15分くらいは経っていただろう。どんな話の流れだったかは思い出せないのだけど、K先生が「かっぱなんて着てるやついねぇだろうな!」と言った。

 私は顔を真っ赤にして、目のまえに縮こまっていた。

 「おい、目の前にいるじゃねぇか!」

 そうK先生が言うと、バスのあちこちからひそひそと笑い声が聞こえた。

 ……と、これは自分にとって長いあいだ思いだすのも恥ずかしい記憶だった。けれど、最近思い出したのだけども、K先生はそのあとなんだかんだ言いながらも、かっぱをたたんでくれたのだ。当時の私は「いやだいやだ」と思っていたから、そのあとのほとんど記憶は無いのだけど、そのままバスは葛西臨海公園に着いた。そしてそこの浜辺で鳩が私の卵焼きをついばんだことも忘れられない。追い払う度胸がなかった。

 とにかく踏んだり蹴ったりの遠足だったから、当時の記憶のなかでもより早く薄れてしまったのかもしれない。ただ、今思い返すと、あれはK先生なりの優しさだったのだなあと、しみじみと思う。こういうふうに、10年20年と経ってから物事の見え方が変わるということがたびたびあるので、生きることはなかなか楽しいものだなあ、と感じている。

鼻うがいを始めてみたのでメモ

 ※個人的なメモです

 頭重感(ずおもかん)対策の一環として、鼻うがいを始めてみた。どうも鼻の奥から重たい感じがしていたので、気持ち的に楽になるだろうと思ってやってみたところ、なかなかいい感じだった。0.9%の食塩を混ぜたぬるま湯を使ったところ、痛みもまったくなかった。

 ただ、鼻うがいのの効果とリスクについては、ネットで耳鼻科のサイトを調べたところ、賛否両論見受けられる。印象としては推奨が多数、非推奨がかなり少数というところ。

 鼻うがいをする場合の注意点としては、(1)使用する水と容器は清潔なものを使用すること、(2)鼻うがい後は鼻を強くかまないこと、(3)鼻うがいをやりすぎないこと、あたりだろうか。

 とくに(1)水と容器に関しては、「水道水を使っていいのか?」という点でネットでも様々な情報があって困った。とくに「死に至る危険があるんです! なので専用の商品を買ったほうがいいです!」と、不安をあおる商売のにおいがプンプンするような記事も見受けられるのにはため息が出る(個人の感想です)。

 話がそれた。で、そうした脅迫的健康商法のいう「死に至る危険」とは何かというと、塩素消毒済みの水道水で鼻うがいをした人がアメーバによる脳炎を引き起こして亡くなった事例が、米国で2件報告されているというもの (PMID: 22919000)*1。こうしたことを受けてFDAアメリカ食品医薬品局)も消費者向けに蒸留水、滅菌水、いちど煮沸した水を使用することを薦めている*2

 こうした情報を見たうえで、あくまでも私個人の判断だけれども、水道水中にこのアメーバが混入しているリスクはごくわずかではあるけれども、リスクとして認識はしておく必要はあるのだろうと思う。万全を期すなら、上記のように処理をした水を使用すべきだろう。ただ私は、水道水のノズルの清潔、そして容器の清潔のほうに気をつけたい。

 で、さらに言うのなら、鼻うがいのリスクとベネフィットについてはさまざまな文献があるようなので、だれかが紹介してくれたらいいなーと思っている。これは検索結果があやふやな情報ばかりだったのでやむなく無能な自分がググった痕跡です。

*1:ほか、滅菌されていない水での鼻うがい、また鼻うがいではないものの水道水によるとみられる原発性アメーバ性髄膜脳炎で死亡したケースは複数あるようだ。詳しい話は詳しい人に教えて頂きたい……。

*2:Is Rinsing Your Sinuses With Neti Pots Safe? | FDA

パーティーにやってきた酔っぱらい

 うろ覚えなのだけど、ポピュリズムはパーティーにやってきた酔っぱらい客のようなものである、という旨の言葉を思い出す。ただそれを思い出したきっかけは、ポピュリズムの話ではなくてもっと低次元での出来事だ。

 ここでいう「パーティーにやってきた酔っぱらい客」というのは、招かれざる客でありながら、周囲の人びとが抱えている「言いたいけど言えないこと」を言ってくれる存在ということだ。言いたいけど言えないことというのは誰にでもある。並んでいた行列に割り込まれて「ふざけんな!!」と思いながらも言えないかもしれないし、店員から粗雑な対応を受けてもそれを指摘することはできないかもしれない。じつは不満を上手に発散することは必要なことなのだろうが、悪い人(クレーマーなど)に見られたくないがゆえにそれも出来ない、というところに葛藤が生じる。

 ちょうど先日そんなことと考えさせられる経験をした。

 街を歩いていたら、後ろから、男の悲鳴にも近い叫び声がした。よく聞くと、「歩きスマホはやめろっ!」と叫んでいるらしかった。私はそのおじさんの周りの人を観察してみた。すると彼の叫び声は明らかに効果があったとみえて、彼の周囲だけスマホを引っ込める人がちらほらいたのだ。

 そのおじさんは、周囲から自分が異常者であると見られることと引き換えに、自分の周囲だけとはいえ、自分の満足する秩序をいくらかは取り戻した。だが彼はそれでも満足しなかったようで、「歩きスマホはやめろっ!」と叫びながら去っていった。

 彼のように、自分のなかにある「世界のルール」に他人を従えようとする行動力を持っていたら、どんなにいいことだろう。通勤ラッシュに身を投じる戦士たちは、歩きスマホがいかに邪魔であるかを日々知っている。彼のように怒りをあらわにすることはなくても、本当は彼のように「歩きスマホはやめろっ!」と怒鳴り散らしてやりたいと思っている人もいるはずだ。そして私の印象では、怒鳴り散らすおじさんの存在は「歩きスマホはやめましょう」というポスターよりも歩きスマホをやめさせる力があったと思う。

 もちろん、これはパーティーにやってきた、招かれざる酔っ払い客なのだ。その酔っ払い客は作法は極めて不適切で礼儀もへったくれもない。だけどもその言うことは少なからぬ人びとが心に秘めている不満(本音)を代弁していて、その行動力はたしかに宣言どおりの成果を挙げた。もっとも、社会というパーティーが酔っ払いだらけになってしまうというのは、考えるだけでも恐ろしいことではあるのだけど。

「交通事故はなぜなくならないか」

 いつも(というほど書いてないが)の誤読メモ。

 自動車の交通事故について、リスク・ホメオスタシス理論 (Risk Homeostasis Theory : RHT) という考え方があるという。誇張して言えば、安全対策をしても、そのぶんだけ人びとは油断して危険な行動をとるから、無意味だよね、という話だ。もちろんこれは誤解で、実際にこういう誤解から「不幸保存の法則」などと揶揄する専門家もいたようだ。実際にはこんな単純な話ではない。

 ともすれば、人は「交通事故に対して法律や工学的なアプローチで解決するだろう」と考えてしまいがちではある。危険運転を厳罰化しろとか取り締まりを強化しろだとか、車体を強化しろとかエアバッグをつけろだとか。

 ところがリスク・ホメオスタシス理論は、巨視的なレベルで見ると、それらはさほど効果がないか、逆効果になりうるということを指摘している。素人目にはちょっと驚く話だ。え、じゃあ事故対策って意味ないやんけ、っていう。

 リスク・ホメオスタシス理論は、運転行動において人びとは、個々の内面にあるリスクの許容水準のなかで、利潤を最大化しようとする(リスク最適化)と考える。危険な運転をする損得と、安全な運転をする損得を考え、それが均衡する許容水準に合わせようとする。

 ざっくり言えば、かっ飛ばして事故を起こす(またそのことで罰金を科されたり免許停止になる)危険と、早く到着できるという利益などがある。事故は避けたいが早く到着したい。ここで大切なのは、人はそれを比較したうえで、リスクを減らそうとするのではなく、許容水準に近づけるかたちで最適化を図ろうとする

 リスクを減らすのと最適化するのは、似ているようでまったく違う。従来の事故対策が施行されると、人びとの主観的なリスク評価は下がる。だがリスクの許容水準が変わったわけではなく、リスクの評価と許容水準の差は広がることになる。そこで、この広がった差を埋め合わせるかのように、人はそれまでよりもリスキーな行動を選びやすくなる、という。これが、最初に述べた「安全対策をしても、それだけ危険な行動が増える」ということだ。

 内容だけかいつまめば、おおよそこういう話になる。

 ふつうの人は「危険運転に対する罰則を強化しました、人が目の前にいるときに自動でブレーキをかけるようにしました、これで事故は防げる!」と考えてしまうけれど(そんな能天気はいないか)、リスク・ホメオスタシス理論は「ちょっと待てよ、それは人びとの安全運転に対する動機付けになっているのか?」と問いかける。

 じゃあ、どのように対策したらいいのか?

 著者が交通事故対策のアプローチとして指摘するのは、人びとが「受け入れよう」と思うリスク許容水準を下げることだ。先に書いたように、法律や工学的な事故対策をしてリスク評価を下げたところで、人びとはそれを埋め合わせるようにリスキーな行動をとりかねない。ならば、許容水準自体を下げてしまえばいい。要するに、安全運転への動機づけで、それも懲罰ではないほうがいい。小さなアメは大きなムチに勝る、というわけだ。人びとの行動を動機付け、自然と人の行動を安全な方向に誘導するように、制度的なデザインが求められるということだろうと思う。思えば、「シンプルな政府」という本でもそういう話があった。強制力をもって規制するのではなく、人びとの行動があくまでも自発的に望ましい方向になるようにデザインするのだと(ナッジ。肘で押す、という意味らしい)。けれど、リスク・ホメオスタシス理論は80年代に唱えられているからかなり早いと言えるだろうか? 当時の論調を知らないので分からないけれど。

 いずれにせよ、このように人間心理に注目した対策を実現するには、事故対策を根本から見直すことが必要で、でも政府はそこまで交通事故対策に入れ込んでやろうとはしないよねー(雑)みたいな話で終わる。

 人びとの意識に注目するこの考え方がどれくらい実証されているのかは私ごときには分からないけれど、その意外な切り口を面白く思いながら読んだ。

 

交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学

交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学

 

 

銀座一蘭

 元日、仕事帰りにラーメン店の一蘭に行った。おせちよりも雑煮よりも先にラーメンを食べることになった。銀座(といってもほとんど新橋だけど)の一蘭は、「一蘭銀座店」ではなく「銀座一蘭」と名乗っているらしい。

 階段をぐるぐる回りながら下りて、店内に入ってまず驚いたのは、普通の店舗と値段が違うことだ。あれ、1180円……一蘭にしても高い。そう思いながらも惰性で食券を購入してしまったのが敗因だった。家族連れと思われる外国人の行列に加わって、薄暗い廊下に突っ立っていたときの私の顔は引きつっていた。

 ふと気になったのは、客を迎える挨拶が「いらっしゃいませ」ではないことだった。なんだ、呪文か? 「アニョハセヨー」と聞こえるので、韓国人向けに挨拶しているのかと思った。これが「幸せをー!」という言葉であることは、さんざん待って座席に通されてから理解した。自分の常識にない文脈の言葉が飛び交うと、いくら知っている言葉でも聞き取れないのだなあ、と思った(……ツイッターか何かで見た、聴覚情報処理障害というやつではないだろうかと、すこし心配になった)。

 この「幸せを」というのは、いらっしゃいませ、ありがとうございました、お気をつけて、頑張ってください、などの言霊を込めた挨拶らしい。ラーメン店に飛び交う「幸せをー!」という挨拶を聞きながら、なんだか宗教じみていると感じてしまうのは、私の心が貧しく、汚れているからかもしれない。

 ただこのラーメンを食べ終わった私が幸せになっていたかというと、そうでもないのは間違いがなかった。確かにうまい。これが普通に出てきたなら幸せだっただろう。だが、そのうまさにたどり着くまでの過程が厳しすぎた。長い行列。狭い通路で遊びはしゃぎ、駄々をこね泣きわめく子どもたち。食べ終わったのに延々おしゃべりしていてなかなか帰らない外国人(遠方から観光に来ていると思えば仕方がないが)。目の前の大人数のグループに席を空けるために、空席がちらほら出ているのに座れない。こうした苦痛をラーメンのうまさが消し去ってくれるかというと、それはなかなか難しい。

 それでも、どんぶりではなくずっしりと重みのある重箱に入ったラーメンには心が躍った。箱に入っているというだけで、開けるときのちょっとしたワクワク感がある。ただ重箱というからには、替え玉を入れた二の重があって、それで値段が高いのだろうと思っていたところ、そういうわけでもなかったのは少しがっかりした。重箱って、重ねる箱、ではないのだろうか?

 率直な感想を言えば、外国人向けに高級感を演出した店舗なのかな、と私は感じた。客層を見ても私が言った時点では外国人が大半、あと関西など遠方から観光に来たと思しき若い夫婦がいたものの、日本人はあまりいないようだった。正月という特殊な日ではあるので分からないけれど。そう考えたら、値段が高いのも納得ではある。

 そんなこんなで、思わぬところで外国人観光客(インバウンドというやつ)に向けた商売の戦略を見た元日だった。