もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「交通事故はなぜなくならないか」

 いつも(というほど書いてないが)の誤読メモ。

 自動車の交通事故について、リスク・ホメオスタシス理論 (Risk Homeostasis Theory : RHT) という考え方があるという。誇張して言えば、安全対策をしても、そのぶんだけ人びとは油断して危険な行動をとるから、無意味だよね、という話だ。もちろんこれは誤解で、実際にこういう誤解から「不幸保存の法則」などと揶揄する専門家もいたようだ。実際にはこんな単純な話ではない。

 ともすれば、人は「交通事故に対して法律や工学的なアプローチで解決するだろう」と考えてしまいがちではある。危険運転を厳罰化しろとか取り締まりを強化しろだとか、車体を強化しろとかエアバッグをつけろだとか。

 ところがリスク・ホメオスタシス理論は、巨視的なレベルで見ると、それらはさほど効果がないか、逆効果になりうるということを指摘している。素人目にはちょっと驚く話だ。え、じゃあ事故対策って意味ないやんけ、っていう。

 リスク・ホメオスタシス理論は、運転行動において人びとは、個々の内面にあるリスクの許容水準のなかで、利潤を最大化しようとする(リスク最適化)と考える。危険な運転をする損得と、安全な運転をする損得を考え、それが均衡する許容水準に合わせようとする。

 ざっくり言えば、かっ飛ばして事故を起こす(またそのことで罰金を科されたり免許停止になる)危険と、早く到着できるという利益などがある。事故は避けたいが早く到着したい。ここで大切なのは、人はそれを比較したうえで、リスクを減らそうとするのではなく、許容水準に近づけるかたちで最適化を図ろうとする

 リスクを減らすのと最適化するのは、似ているようでまったく違う。従来の事故対策が施行されると、人びとの主観的なリスク評価は下がる。だがリスクの許容水準が変わったわけではなく、リスクの評価と許容水準の差は広がることになる。そこで、この広がった差を埋め合わせるかのように、人はそれまでよりもリスキーな行動を選びやすくなる、という。これが、最初に述べた「安全対策をしても、それだけ危険な行動が増える」ということだ。

 内容だけかいつまめば、おおよそこういう話になる。

 ふつうの人は「危険運転に対する罰則を強化しました、人が目の前にいるときに自動でブレーキをかけるようにしました、これで事故は防げる!」と考えてしまうけれど(そんな能天気はいないか)、リスク・ホメオスタシス理論は「ちょっと待てよ、それは人びとの安全運転に対する動機付けになっているのか?」と問いかける。

 じゃあ、どのように対策したらいいのか?

 著者が交通事故対策のアプローチとして指摘するのは、人びとが「受け入れよう」と思うリスク許容水準を下げることだ。先に書いたように、法律や工学的な事故対策をしてリスク評価を下げたところで、人びとはそれを埋め合わせるようにリスキーな行動をとりかねない。ならば、許容水準自体を下げてしまえばいい。要するに、安全運転への動機づけで、それも懲罰ではないほうがいい。小さなアメは大きなムチに勝る、というわけだ。人びとの行動を動機付け、自然と人の行動を安全な方向に誘導するように、制度的なデザインが求められるということだろうと思う。思えば、「シンプルな政府」という本でもそういう話があった。強制力をもって規制するのではなく、人びとの行動があくまでも自発的に望ましい方向になるようにデザインするのだと(ナッジ。肘で押す、という意味らしい)。けれど、リスク・ホメオスタシス理論は80年代に唱えられているからかなり早いと言えるだろうか? 当時の論調を知らないので分からないけれど。

 いずれにせよ、このように人間心理に注目した対策を実現するには、事故対策を根本から見直すことが必要で、でも政府はそこまで交通事故対策に入れ込んでやろうとはしないよねー(雑)みたいな話で終わる。

 人びとの意識に注目するこの考え方がどれくらい実証されているのかは私ごときには分からないけれど、その意外な切り口を面白く思いながら読んだ。

 

交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学

交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学

 

 

銀座一蘭

 元日、仕事帰りにラーメン店の一蘭に行った。おせちよりも雑煮よりも先にラーメンを食べることになった。銀座(といってもほとんど新橋だけど)の一蘭は、「一蘭銀座店」ではなく「銀座一蘭」と名乗っているらしい。

 階段をぐるぐる回りながら下りて、店内に入ってまず驚いたのは、普通の店舗と値段が違うことだ。あれ、1180円……一蘭にしても高い。そう思いながらも惰性で食券を購入してしまったのが敗因だった。家族連れと思われる外国人の行列に加わって、薄暗い廊下に突っ立っていたときの私の顔は引きつっていた。

 ふと気になったのは、客を迎える挨拶が「いらっしゃいませ」ではないことだった。なんだ、呪文か? 「アニョハセヨー」と聞こえるので、韓国人向けに挨拶しているのかと思った。これが「幸せをー!」という言葉であることは、さんざん待って座席に通されてから理解した。自分の常識にない文脈の言葉が飛び交うと、いくら知っている言葉でも聞き取れないのだなあ、と思った(……ツイッターか何かで見た、聴覚情報処理障害というやつではないだろうかと、すこし心配になった)。

 この「幸せを」というのは、いらっしゃいませ、ありがとうございました、お気をつけて、頑張ってください、などの言霊を込めた挨拶らしい。ラーメン店に飛び交う「幸せをー!」という挨拶を聞きながら、なんだか宗教じみていると感じてしまうのは、私の心が貧しく、汚れているからかもしれない。

 ただこのラーメンを食べ終わった私が幸せになっていたかというと、そうでもないのは間違いがなかった。確かにうまい。これが普通に出てきたなら幸せだっただろう。だが、そのうまさにたどり着くまでの過程が厳しすぎた。長い行列。狭い通路で遊びはしゃぎ、駄々をこね泣きわめく子どもたち。食べ終わったのに延々おしゃべりしていてなかなか帰らない外国人(遠方から観光に来ていると思えば仕方がないが)。目の前の大人数のグループに席を空けるために、空席がちらほら出ているのに座れない。こうした苦痛をラーメンのうまさが消し去ってくれるかというと、それはなかなか難しい。

 それでも、どんぶりではなくずっしりと重みのある重箱に入ったラーメンには心が躍った。箱に入っているというだけで、開けるときのちょっとしたワクワク感がある。ただ重箱というからには、替え玉を入れた二の重があって、それで値段が高いのだろうと思っていたところ、そういうわけでもなかったのは少しがっかりした。重箱って、重ねる箱、ではないのだろうか?

 率直な感想を言えば、外国人向けに高級感を演出した店舗なのかな、と私は感じた。客層を見ても私が言った時点では外国人が大半、あと関西など遠方から観光に来たと思しき若い夫婦がいたものの、日本人はあまりいないようだった。正月という特殊な日ではあるので分からないけれど。そう考えたら、値段が高いのも納得ではある。

 そんなこんなで、思わぬところで外国人観光客(インバウンドというやつ)に向けた商売の戦略を見た元日だった。

クリスマスと年末

 12月25日、クリスマス感はゼロだった。夜、疲れきっていて、さっさと帰ろうと思っていたのだけど、せめてクリスマスらしくと思い、帰りついでにイルミネーションを見た。クリスマスムードに盛り上がる人びとを見て、「私もすこしはクリスマス感を演出しよう」と思って購入したのは、成城石井シンガポール風のヌードルとオリーブとドライトマトのマリネ。我ながらなぜこんなチョイスをしたのか、レジで頭にクエスチョンマークが浮かんだ。

 とはいえ、ケーキは胃に重たい気がしたし、酒は飲めない体質となると、もはやクリスマス感を演出するのは難しかった。そしてターキーから連想ゲームをめぐりめぐってたどり着いたのは、よりによって甘辛く味付けされた、エスニック風のチキンだったと。なんだこりゃ。しかし焼きそばとも違う不思議な味、うまかった。

 そして、29日。今日は掃除をやった。布団を干し、衣服を捨て、クローゼットを整理し、部屋のほこりを払い、掃除機をかけ、靴を磨いた。そして布団にもぐって撮りためたテレビを見た。「相棒」が十話ほど溜まっていたのには笑った。相棒はけっこう頑張って推理しながら見ている。けれど、最近はむしろ犯人の味方で、「犯人逃げてー」という感じで見ている。「世界ふれあい街歩き」もかなり溜まっている。やれやれ。

 そしてここ数年と変わらず、仕事は納まらないまま来年を迎えることになりそうだ。

2019年「駅と電車内のマナーに関するアンケート」を読みながら

 12月19日、民鉄協(民営鉄道協会)が2019年の「駅と電車内のマナーに関するアンケート」を発表した。通勤・通学人間にとって、他人のマナーというのは常に気になることではある。隣のおじさんが足を広げてこちらの膝をぐりぐり押してきたり、目の前の席に座ろうとしたら横からものすごい強引におじさんが滑り込んで来たり、満員なのに両隣にどでかい手提げを置いて誰も座れないようにする強烈なご婦人がいたり、異様にもこもこしたアウターで幅をとる人がいたり――それくらいは許容したい――とにかく、不満とは言わないまでも「イラッ」とする場面は誰もが一日一度は感じていると思う。というわけで、この調査を通じて世のなかの人のそんな思いを見ながら、私は偏見まみれの独り言をつぶやこうと思う(前置きが長すぎる)。

1位:「座席の座り方」

 まずサブタイトルが「迷惑行為の1位は約10年ぶりに『座席の座り方』」。そうですよねー!! いや、ほんとそれ。まあ、10年ぶりとはいえ毎年上位には入っていたと思いますが。

 詳細をみると、なかでも「座席を詰めて座らない」ことを迷惑行為として挙げた人が多い。「あれれーー、おかしいぞ? 7人がけなのに、6人しか座ってないよー?」っていう。とくに冬場はかさばる衣服が幅をとる。あと足を広げている人(おもに男性が多い)はなかなか不快ではある。膝をわざとぶつけに来ている節さえある。される女性などは気持ち悪いと感じるんじゃないだろうか。

 「座りながら足を伸ばす・組む」のも迷惑ではあるか。ただ私はあまり出くわさない。足を組む方にしても、組めば接触しやすくなるから、それは避けたいと考えて足を引っ込めるのが普通の考えだと思う。そう考えないのはちょっと危ない人と感じて警戒はする。

 「寄り掛かってくる」については、私は清潔な人なら放っておくので気にしない。清潔じゃなかったら前かがみになって避けるか席を立つ。むしろ突き飛ばしたりしている人を見ると、そういう人のほうが怖そうだなと思ったりする。

2位:「乗降時のマナー」

 もう、お察し。「扉付近から動かない」はよくある。扉のわきの隙間にへばりついている人。フジツボかよ。「奥につめない」も分かるわあ。両端のところで門番みたいに二人立ってて、奥に行けないっていうパターン。「すいません(通してください、の意)」って言ってもイヤホンをしててコミュニケーションがとれない。内心で「突き飛ばしていいですか?」とつぶやきながら奥に行けないままジッと耐えるのが通勤弱者の悲しい日常ではある。

 「降りる人を待たずに乗り込む」、これは本当に多い。割り込んだ者勝ち状態になりやすいし、そもそも整列乗車の仕方を守らない(知らない?)人もいる。例えば朝ラッシュで、降りるまで手前で待つようアナウンスされていても、ドアの両脇に立って脇から入り込もうとする人がいる。小学生以下!

そのほか

 3位の「荷物の持ち方・置き方」もお察し、4位の「スマートフォン等の使い方」は、選んだ人のうち、具体的な迷惑行為として「歩きながらの使用」と「混雑した車内での使用」を選んだ人で7割を超える。歩きスマホをしながら人ごみや階段をめちゃくちゃ早く歩いている人を見たときはむしろ感嘆したんだけども、たいていは自分の能力を過大に評価しているボンクラばかりなのでうんざりする。

 地域別に関東と関西でそれぞれ集計したものもあって、やはり私は関東のほうが感覚的に近い。1位が「座席の座り方(詰めない・足を伸ばす等)」、2位が「スマートフォン等の使い方(歩きスマホ・混雑時の操作等)」、3位が「乗降時のマナー(扉付近で妨げる等)」となる。関西では「騒々しい会話・はしゃぎまわり」が多いのかと思いきや(偏見失礼)、こちらも1位は「座席の座り方(詰めない・足を伸ばす等)」。やはり座席をめぐる闘争か。

 と、このような調子で、読んでいて思ったことを勢いそのままに書きなぐってしまった。

無免許人間のぼやき

 無免許人間のぼやきなのだけど、「この人は事故を起こしそうだな」というドライバーが確実にいると思う。例えば、黄信号から赤になりそうなときに、止まろうとする人もいれば、突っ込んじゃえと加速する人もいる。あるいは、ウィンカーもあげないで、たったいま思い付いたかのようにいきなり右折して横断歩道に進入する人もいる。そんなあからさまな危険行為でなくても、隣の車線を走る他の車に追い越されただけでどこか負けた感じになって抜き返そうとするとか、焦るとすぐに横断する歩行者などへの注意がおろそかになるとか、安全運転を脅かす内面的な要素は、大なり小なりあると思うのだ。

 そのために適性検査というものがあると思うのだけど、適性検査の結果を受けて自分の性向に注意しようと考えるような人はそもそも意図的な危険運転はしない傾向があるはずだ。問題は、不注意による誤った操作ではなく、危険につながる意図的な操作をもたらす意図そのものにある。飲酒運転がその極致だけども、自分の行動の正確さを過大に評価し、そして自分の行動が他人に危害を及ぼす可能性についてあまりにも過小に評価しすぎる。

 そこでこんなことを考えてしまう。もしも、そうした内面的な危険要素を、事前にすべて評価出来るようになったら、どうなるだろう? 平たく言えば、「あなたは危険運転を起こしかねないので運転免許は出せません」という命令(?)を下せるほどに、正確に評価できるとしたらどうか、というところだ(ただ、これはあくまでもこれは性向だけの話であって、いわゆる反射能力などは問題にしていない)。

 つまり、体制の監視が個人の内面にまで行き渡った恐るべき超監視社会ではあるものの、社会にとって脅威となるその芽を事前に摘むことができる、というときに、どっちがいいんでしょうね、ということだ。

 もちろんそんなのは空想にすぎないのだけど、とはいえ、こんな監視の利便性と恐ろしさについて考えるのは荒唐無稽だと笑い飛ばせる時代でもなくなってきている。

 自動車と危険運転による交通事故の関係は、包丁の話にも似ている。包丁が悪いのではなく、包丁を危険な行為に使う人間が悪いのだと。では、人を傷つける目的で包丁を買う人間が、高い信頼性で事前に判断できるとしたらどうか。

 赤信号の横断歩道に突っ込んできた白いバンを、睨みつけるように見送りながら、こんなことをぼけっと考えた。