もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

Liszt, Thalberg, Pixis, Herz, Czerny, Chopin. "Hexameron"

 リストらによる「ヘクサメロン」を打ち込みました。ヘクサメロンとは「6つの詩」の意味で、創世記における天地創造の「六日」にちなむとのことで、この曲が作られる先年に亡くなったベッリーニの作品からテーマを引用し、それを当時大活躍していた6人のピアニストたち(作曲家でもあった)が変奏するという贅沢な作品です。話題性抜群、夢のコラボに違いありません。その6人とは、フランツ・リスト、ジギスモント・タールベルク、ペーター・ピクシス、アンリ・エルツ、カール・ツェルニーフレデリック・ショパンショパンとリストが好きな人にとっては唯一の共作なわけで、涙が出るほどうれしい作品なのではないかと思います(言い過ぎ?)。

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森鴎外の映像

 ずいぶん前の話なのだけど、鴎外記念館森鴎外が映った映像を見た。映像はほんとうに数秒で、雑踏のなかにまぎれて、カバンを持った鴎外が通り過ぎるというだけの映像だった。フィルムの関係で早回しになっていると思うのだが、ほかの人に比べても鴎外の歩く速度は速い。それを見て、「ほぉ、鴎外は、早歩きだったんだなあ」と、バカ丸出しの感想を抱きながら記念館を後にした。

 で、後日幸田文さんの対談録『幸田文 対話(上)(岩波現代文庫)』を読んでいたら、鴎外の次女小堀杏奴さんが対談のなかでこの動画について言及していた。

父自身が映っている映画はあるのよ。天皇陛下が皇太子のとき欧州へいらしたでしょう? その帰り、お出迎えにいったたくさんの人の中に父が出てくるの。ふつうの外套を着て、カバンをぶらさげて、つまらなさそうな顔をして歩いているの。父が「映画に映るんだったらもっと前の方を歩けばよかったな」ですって。死ぬ一、二年前じゃなかったかしら。その映画は今、どこにあるんでしょう? もう一度見たいわ (pp. 23-24)

 鴎外はそんなことを言っていたのだなあ。杏奴さんはこの映像を見たのだろうか。

東京駅

 東京駅って何なのだろうか。池袋新宿渋谷品川上野といった大きな駅を降りても、「どこでご飯を食べたらいいのか……」と迷うことはないのだけど、東京駅だと毎回そうなる。いや、もちろん池袋だろうが新宿だろうが何を食べようかとは迷うのだけど、これらの場所では「どこで食べようか」とは迷わないのだ。適当にぶらついていれば見つかるし、それが楽しみでもある。

 例えば、新宿でパスタを食べたいと思ったとする。好きな店もあるが、適当にほっつき歩いていればパスタ屋の一軒や二軒は見つかる。渋谷でラーメンを食べようと思ったとする。これも適当に歩いていれば博多天神に行き当たるだろう(当たらないよ!)。

 けれど東京駅は違う。新宿池袋渋谷はいずれもダンジョンと呼ばれるほど迷いやすいと言われるが、地上に出て歩き回ると案外お店は見つけやすい(もちろん隠れ家的な店は別だ)。だが東京駅を訪れるたびに、私はいつも飲食店を見つけるのにとても苦労する。どんなお店があるか、いちいちビルに入らないと分からないし、おしゃれすぎて、行き場がない。だから私はなか卯とてんやに行ってばかりいる。あるいは竹橋に出て弁当を買う。古びた地下街でラーメンなんかを食う。

 東京駅以外の街は歩いていて楽しいが、東京駅近辺は歩く場所ではないなと感じる。もちろん駅から皇居、帝国劇場、日比谷公園といった目的地に向かって歩くのはよい。気持ちの良いプロムナードがある。だが、私にはやはり洗練されすぎていて落ち着かない。電線を地中に埋めるのは景観上素晴らしいことだが、それにしたって店まで地下に埋めるような――均質的なビルのなかにしまい込む――真似をしなくてもいいじゃないか。

 と言いつつも、さすがにてんやとなか卯以外にも行きたいと思った私は、やむなくスマホで店を調べてから行くことにした。そう、事前に調べて、目的地に向かうくらいでないといけない。これを書いていて、だから、私は東京駅が好きではないのだ、と気が付いた。

 東京駅についてはいろいろ思うところがあるけれど、天皇陛下御即位慶祝だと言って一日中電車で移動してはしゃいでいたせいで眠すぎるので今日は寝る。

大戸屋のおじさん

 大戸屋に行った。私はいつも「”むしなべ”、五穀米大盛、すまし汁変更」を頼む。要するに塩分に気を付けつつガッツリ食べるという意図だ。やれ長生きする食材だのなんだのと言う健康オタクになったつもりは無いけれども、塩分と言うのは食生活で気をつけることのできる最も簡単な部分だと思うから、そうしている。

 そうしていつも通りに「むしなべ」を頼んだつもりが、すまし汁に変更するのを忘れていた。はっきり言えば、大戸屋の味噌汁はあまり好きではない。それで呼び出しボタンを押して、店員さんがこちらに来る……はずだったところで怒鳴り声がした。

 「ボタンを押したのに、反応がない。来ないじゃないか!!」

 そんなに怒ることか? このおじさんはなぜそこまで怒るのか? おつむに問題があるのか、何らかの鬱憤がたまっていたのか、などとどうでもいい詮索的思考を一瞬で終え、事態が落ち着いてから店員さんを呼んで、すまし汁に変更してもらった。そのあとしばらくしておじさんはガバッと席を立ち、「席を変える!」といってうろうろ歩き回り、自分の居るべき場所を見つけたかのように、別のある席に座った。

 この時点で私のなかではこのおじさんに対する脅威度レベルはかなり高かった(この脅威度レベルの話もしたいのだが話の本線ではないのでさておく)。つまり何をしでかすか分からない、暴れまわったり、最悪の場合にはほかの客、あるいは私自身に危害を加える可能性のある人間として警戒していた。

 それから食事を済ませ、トイレに行った。が、そこでさきのおじさんと鉢合わせしてしまった。私の驚きは二つあった。一つは、トイレのドアが突然開いておじさんが出てきたこと、もう一つは、そのおじさんが出てきたのは女子トイレだったということだ。この二つの驚きは時間差でやってきた。まずおじさんの登場に驚き、狭い通路を譲ろうとし、そしてその出てきたトイレが女子トイレであると気がつき、そこにおじさんが間違いなくいることを確認し、それらを総合して状況を理解するには5秒程度の時間を要した。その時の私にとって、この5秒はとてつもなく長く感じられた。

 しかしここで面白かったのは、そのおじさんが私の登場に驚き戸惑ったような反応を示したことだった。そしてどもりながら「手を洗っているだけだから」と言った。それは事実そうだったのかもしれないが、それが一般的におかしい行動とみなされるであろうということを、そのおじさんはしっかり理解していた。そしてそれを恥ずかしく感じ、わざわざ私に弁明をした。

 これが、あの、店員に当たり散らし、一方的に席を変えると叫んだあのおじさんだろうか、と私は思った。そしてその矛盾した一面を併せ持つところに、人間らしさを感じた。

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」感想

 記事が陳腐なタイトルで、このブログに似つかわしくないと思いつつも、見たので書いておこうと思う。

 ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝を見た。よかったなぁ。イザベラが少しずつヴァイオレットに心を開いてゆく様子であったり、郵便配達人の仕事に退屈していたベネディクトが少女テイラーとの出会いをきっかけに変わってゆくところは、まさに人と人が互いに影響しあいながら変化してゆく、この物語らしい展開だと感じた。

 私がひとつ驚いたのは、後半パートのベネディクトの物語が、かなり分かりやすいかたちで「働く人」に対するエールになっているところだ。変わらない日常と業務に対するベネディクトの感覚は、多くの人にとって共感しうるものだと思う。けれど、ベネディクトは知らないうちにテイラーにかけがえのない幸せを運び届けていて、そのテイラーの純真なまなざしは、ベネディクト自身に自分の仕事がもつ意味を気づかせる。それは「届かなくていい手紙なんてないからな*1」という言葉にそれが凝縮されていると思った。

 早い話が、自分の仕事が社会のなかでどのような意味を持つかということは、自分自身にはなかなか分からないけれど、それはどこかで、誰かにとって大きな意味を持っているかもしれないということでもある。まあありきたりなのかもしれませんが、私はバカなので素直に感動したし、自分の仕事を頑張ろうと思った。もちろんほかにも注目したいポイントは山ほどある(あのブーツで配達!? とか)けれど、優れた考察はウェブ上に山ほどあるので省略。ただ、ヴァイオレットがエレベーターを「新兵器」と言うところには噴き出した。訓練は勉強に言い直したけれど、相変わらずの部分もある。

 前半はヴァイオレットとイザベラの話で、こちらもよかった。家庭教師にやってきたヴァイオレットを歓迎しないイザベラ。しかし寄り添い続けるヴァイオレットに次第に心を開いてゆく*2。気になったところはたくさんあった。画が美しいのは言うまでもないけれど、表情の機微、目の輝き、影と光、というのは、私が言うのもおこがましいが「これぞ京アニ」というところではないかと思う。

 イザベラがランカスター(アシュリー)のお茶会の誘いを断ったとき、ランカスターは振り向きざまに一瞬だけ悲しげな顔を見せる。ヴァイオレットはそれを見逃さなかった。不信感を示すイザベラに対して「本当にそうでしょうか?」みたいなことを言っていましたね。イザベラは家名のためにすり寄る人間を多く見てきたのだろうけれども、彼女はそうではなかった。そして「アシュリーって、呼んでくださる?(引用不正確かも)」という場面では、一歩前へ出ることで顔にかかっていた影が一気に晴れて光に転じる。これらは後から気づいたことで、見ている段階では「ようやくお話できますわね」みたいなことを言うものだから、タイマンでもはるのかと思いきや、まったく的外れで笑った*3

 いろいろなポイントはあるのだけども、「三つ編み」が欠かせないポイントであることは間違いがないだろう。三つで編むとほどけない。ではどこが「三つ編み」なのか。

 一つにはヴァイオレットを仲介とした、エイミー・ヴァイオレット・テイラーという関係だけども、もう一つにはエイミー・ベネディクト・テイラーも有り得る。しいて言うなら、前半はエイミー*4がヴァイオレットを介してテイラーへ、後半はテイラーがベネディクトを介してエイミーへ、と見ることも出来るだろうか(手紙の送り手と受け手なので当たり前ではある)。

 テイラーがエイミーに会わなかったのは、実際に会うことで伝えられないものを、手紙というかたちで伝えたかったからなのだと私は思っている。そしてそれを代筆するドールがいて、それを届ける郵便配達人がいる*5

 まぁ、こんなことはいいんです。ボーっと見て、ぼわーんと感じて、ぶわっと心を動かされる作品でした。

*1:テレビアニメの中では印象的な言葉で、本作では引退している郵便配達人ローランドさんとヴァイオレットが言っている。

*2:これも書きたいことはたくさんある。ギルベルトとヴァイオレット、イザベラとテイラーの関係は似ている。そしてともに孤児でもある。形は違うけれど、別離による深い悲しみをともに背負っている。そしてそれをヴァイオレットが自ら打ち明けていることにも驚いた。

*3:加えて些末なことだけども、やはり名前は薔薇戦争に関連しているのだろう。ヨークとランカスター、イザベラ(イザベル)にネヴィル(イザベラが嫁いだ家)。なぜ薔薇戦争を持ち出したのか、というのは考察を見てみたい。

*4:この時点でエイミーは捨てた名前ではあるけれど、それはエイミーとしての手紙だった。

*5:そうでないにしても、エイミーが自発的に「まだ会うべきじゃない」と思う理由があったのは間違いがない。「一人前の郵便配達人になったら会うんだ」というのを言葉通りに受け取ってもよいけれど、ちょっと私のなかでは繋がらないので誰かに見解を乞いたいと願ってはいる