もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ホームページを作ってみました

 ためしにホームページを作ってみました(こちら)。「ツイッターでシェアしてね!」とかそんな気遣いなど皆無の、自分だけの場所です。

 なぜ貧弱なHTML知識を総動員してまで必死になってこんなものを作ったかというと、SNSとは別のかたちで、自分の作ったものをまとめて置いておく場所が欲しかったからです。

 SoundCloudでは無料では時間的な制約がけっこう厳しいですし、どうしても再生数が気になってしまうんですね。単純に再生数が少なくてションボリというのではなくて。例えば、頑張ってつくったものが再生数5で、適当に作ったものが再生数2500だったりすると、どうしても複雑な思いがします。そういうことを考えてしまうあたり、わたしはSNSに向いていないなと感じました。

 ですので、再生数やいいねというところから離れて、ただ倉庫として作品を置いておける場所として、MIDINoteなるものを用意してみました。深い意味はありません。ただハンドルネームを入れなかったのは、これまでわたしの趣味を知らなかった現実の知り合いにも宣伝したいというひそかな野望を持っているからです。いわばネットのプライベート(このブログとか!)を知られることなく、わたしのネット上の音楽趣味、その成果を知ってもらう。いわば異なるコミュニティを結ぶ場所にもなってくれたらいいな、と思っています。

 さりげなくクリエイティブコモンズの宣言が偉そうに入っていますが、これは申し訳程度のお断りというのが本音で、宣言しておかないと、(万が一、万が一ですよ!)使いたいという人が現れた場合に「使いたいけど、どうしたらいいの?」となってしまうからです。ただ、わたしのつくったものは使いにくいだろうなあとは思います。打ち込みの技量不足もあれば、そもそも目指しているものが普通の演奏というよりは、半分くらい真正性を目指した迷走のようなものですから。

 と、こういうことを考えて作ったのですが、どうなるかはこれから実際に続けてみないと分かりません。案外、三日坊主ですぐに潰す可能性も、これまでのわたしだと十分にあります。そこも含めて今後これからどうしようかと楽しんでいます。

 最後にもう一度。こちら(MIDI Note

Chopin - Etude in E-flat major, Op. 10-11. (Pleyel)

 ショパン変ホ長調の練習曲 (Op. 10-11) を打ち込みました。これはプレイエルの音色のほうが絶対に合うと思ったのでプレイエル用(バーチャルなプレイエルですが!)につくり直しました。「自分の打ち込みがどんなに下手でも、作らないで文句を言い続けるよりはマシ!」と、最近は打ち込みに気合が入っています。やる気スイッチが入る時期と、そうでない時期と、波があるのですよね。

 この曲、やはりアルペジオに注目せざるを得ません。これだけ幅のあるアルペジオを難なく弾き”続ける”には腕から指に至る柔軟さが必要でしょうし、それを可憐に弾くには力みがあってもいけません。さらに、アルペジオの内声・上声に出てくるメロディはしばしば半音階的に移動するので、ペダルを使って濁らせず、かつ音を切らさずレガートさせる絶妙なコントロールが求められます。さらにペダルはフレージングに関わりますし、下で書くようにアルペジオの雰囲気も大きく左右します。

 などと知ったようなことを書いていますが、そうした技術的な話はよく分からないので専門家にお任せします……。

 さておき、わたしがこの曲で好きなのはこの「con fuoco」です(譜例1)。ここにこんな言葉を持ってくるのがほんとうにすごい。そして一気にpでdolce. しかもさらにpp です。「もっと抑えて!」って。もはや胸キュン(死語)です。

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譜例1

 今回、ペダルの考え方を以前作ったときと180度変えました。以前は、「ペダルが書いてない部分では使わない!」といういかにも原理主義的(苦笑)な態度でしたが、今回は「微妙すぎるペダル遣いをショパンは書かなかったんだ!」と考えました。それは和声的にもそうですし、表現的にもそうです。ペダルの踏み方一つで豪華な響きのアルペジオから、小さな竪琴のような軽やかなアルペジオまで自在に表現できると思います。例えば終盤の、主部~コーダの半音階的な部分がそうです(譜例2)。小刻みに踏み替えながら(しかし深すぎてもいけない)、降りてきて、そのあとで一気に踏む。そうすると、「あぁ、来るべき音に落ち着いた!」という安心感をすごく感じます(※個人の感想です)。

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譜例2

 そして最後のf, ここはプレイエルだと本当に可愛らしく響きます(譜例3)(バーチャルのプレイエルですが!)。

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譜例3

 全体的な表現としては、可憐に、ときどき情熱的に、というところでしょうか。言葉で書くのもヤボですが。ちょっと急ぎ過ぎたかなとも思います。あと不満足な部分としてはアルペジオが均質的すぎるところが気になるのですが、調節しきれないので割り切りました。

 このようなことを考えながら、大好きな作品のひとつなので楽しく打ち込みました。

モノを大切にしすぎて腐らせることについて

 わたしの父はハムスターもしくはカラスのような人で、とにかくものを溜めこむ。だがハムスターともカラスとも違って、貯蔵したものをそのままダメにする。これはまったく無意味すぎて笑いが出ることだ。(もしかしたらハムスターやカラスも、貯蔵したものをそのまま腐らせたりすることがあるのだろうか?)

 例えば、もらった(ちょっと高価な)生菓子を、大事そうに冷蔵庫の上に置いたまま一週間が経つ。生菓子だ。当然ダメになっているだろう。「あのお菓子は?」というと、冷蔵庫の上の奥の方から大切そうに箱を出す。案の定ダメになっている。

 なぜわたしが意地悪くも一週間もそれを指摘せずにいたかというと、その父の貯蔵癖は独占欲から来ているからだ。「自分のものとして頂いたものなのだから、家族にも周知させず、こっそり一人で食べよう」と考えている。ときおり「みんなで食べよう」と分け与えることもあるが、いざみんなで食べると「俺のものを食べた」と言う。みんな気分が良くないから誰も言いださなくなる。そして父は忘れたまま月日が流れてしまう。自業自得だ、というのがわたしの言い分だ。

 この器量の小ささは鍋や大皿料理のときにも発揮されていて、かならず父は「最後の一個」を残す。それまでさんざんがつがつと自分勝手に食べ散らかしたあげく、最後の一個は他人に譲る。子どもではないのだから、一人あたりこれくらい食べるよな、などと算段くらいつけてほしいものだ……。

 話が反れすぎた。生菓子に限らず、そうやって何度も何度も食べ物をダメにしてきた。紅茶缶がもっとも多い。白いカビの生えたフォションのアップルティー。ウーロン茶みたいな、別のまったく新しいお茶みたいな、不思議な香りを放っていた。これをもらったとき、父は「フォションだよ!」とさんざん自慢していたが、さすがにわたしでも買える品だし、腐らせればフォションもゴミ箱行きである。

 いや、ただの愚痴になってしまっていけない。ただわたしはこの父の一連の行動を面白く思っている。モノを大切にしすぎてダメにしてしまうというこの逆説的な結果。なんてジョークじみているのだろうか。そしてなぜそれに無自覚でいられるのだろうか、と、イヤミではなしに感動する。これはたぶん、根気強さや集中力(悪く言えばほかのことは盲目になる)という、父の素晴らしい部分と表裏一体でもある。そこに人間らしさを感じる。

ポジティブさについて

 ポジティブであることを嫌う人がいるけれど、結局は寄り添っていないことが問題なのではないかと感じる。つまり、落ち込んでいる人の心(落ち込んでいる事情など)をすっ飛ばしてポジティブを押しつける。ポジティブそれ自体ではなく、そういうやり方が嫌われるのだ。

 たとえば、病気で大変な思いをしている人に「頑張れ」と言ってしまう人が典型的だ。その人はつねに痛みやつらさに耐え忍んでいる。にもかかわらず、そんな患者のまえに気まぐれに現れて「頑張れ」という綺麗事を空高くから投げ棄てる。そして去ってゆく。それが善意だとしても、言われる側にはとうてい受け入れられるものではないだろう。

 正論や一般論が嫌われるのもこれと似ている。そんなことは分かりきっている。問題は、現実において「頑張れないのはなぜか」とか「正論が貫けないのはなぜか」ということだ。それを無視して分かりきった空論(それも自分の言葉ではなく一般論にすぎない)を投げつけて、本人は「アドバイスしてやった」と悦に入る。他人を軽視しているから、問題を単純に捉えてしまう。

 わたしの読んでいるブログで、病気でご飯を食べられない人に「ご飯を食べないと元気になれませんよ」と声をかけた人がいた。それは正しい。だが、その人がご飯を食べられないのはやる気や根性の問題ではないということは明らかだった。

 善意だからと言って許されるものではない。ここは断罪する場ではないけれど、本人やその経緯を見ていた人から嫌われたであろうことは間違いがない。

 人間関係において(つまりこの独り言記事はその範囲ではない)、言葉や態度について問題になるのは自分の動機ではなく「相手にどう受け取られたか」ということだ。「自分は善意で言ったのだ」と弁解しても、もはや取り返しのつかないこともある。裏を返せば、言われたその人が「この人は自分に寄り添ってくれている」と思うことが出来たなら、「頑張れ」というようなポジティブなアドバイスも受けいれられるかもしれない。

 だから結局は、ポジティブに考えるにしても苦しみやつらさといったネガティブなところに対する感受性は大切だと感じる。

 

今日の夢

 部屋のクローゼットでセミが鳴いている。蛾が飛んでいる。わたしはあわてて虫取り網を探すけれど、どこにもない。追い出せないと思ったわたしは、部屋のドアを閉めた。

 インターホンがなり、玄関へ向かう。脇の棚に貝殻のような模様をしたプラスチックのおもちゃがおいてある。いたずらかと思い閉めようとすると、ドアに足が挟まれ、小池都知事が顔を覗かせた。選挙で回っている候補者の応援をしているらしい。

 小池氏は、A3版のアンケート用紙を差し出して、「これにサインして」という。回答などがすべて書いてある。「まずいのでは?」と思い迷っていると、うしろから背の高い女性が顔を覗かせた。この藤色の変なドレスを着ているのが候補者本人らしい。「このあたりの会議所も行ってきたんですよ」と言うので「そうですか」と答えたが、内心では「普段来ないくせに」と思う。

 しかたがないのでサインをすると、彼女たちは立ち去っていった。去り際に「ちょっとおしり触らないでよー」という笑い声が聞こえる。なんとも子どもっぽいところもあるではないか、と思った。廊下には子どもの遊ぶ声が響き渡っていた。