もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「雲の後ろの太陽」

 Post nubila phoebus. という言葉がやたらと好きで、ときおり思い出す。「雲の後ろの太陽」。どんなに暗雲が立ち込めていても、その後ろに太陽があることを疑う人はいない。色々なかたちで理解できる言葉だけれど、わたしは単純に、絶望の後ろには必ず希望があるのだ、という意味で理解している。

 もちろん、現実的にツッコミを入れるのなら、絶望の後ろに希望が必ずあるとは限らないのかもしれない。だがこの言葉は、希望の存在を太陽という絶対的な存在に例えることで希望の存在を確信させてくれる。現実には絶望の向こうに希望は無いのかも知れないが、希望という太陽があると信じることが出来るのだ。それは言ってしまえば屁理屈かつ妄信かも知れないが、人を励ましてくれる屁理屈であり、現実を引き寄せうる妄信だ。

 人にとって、太陽のように揺るがぬ希望とは何だろうか。それは人によっては信仰かもしれないし、人によっては使命かもしれない。そんな大げさなものでなくとも、家族かもしれない。自分がもっとも大切にする何か。それは普段意識するものではないけれど、暗い雲がわたしたちの世界を覆い尽くしたときに見出すことが出来たのなら、きっとわたしたちの進むべき道を示してくれる希望となってくれるものだと思う。

 どこまでも無慈悲な世界だからこそ、希望の存在を信じ続けなければいけない。

 ちなみにこの言葉と出会ったのは中学生のときで、ホームページのサブタイトルで「格好つけよう」と思って、ラテン語の格言を調べていたときに見つけた。結局は Pax intrantibus, Salus exeuntibus. (来る者に平和を、去る者に安らぎを)という言葉にした。いわゆる「中二病」が好みそうな格言でしょう、これ(笑)

他人を異性の有名人に例えてしまう癖

 他人を異性の有名人に例えてしまう癖がある。いや、口には出さないのだけど、「あっ、似てる」と思ってしまうことがよくある。例えば、先日あるグラビアアイドルのニュースでその写真を見て、「イチローに似ているな」と思った。大変失礼な話だ。

 なぜそんなことになるのかと考えると、原因は二つ考えられる。一つは、他人の目ばかりを見ているからだ。容姿全体を見ていれば、わざわざ異性を連想することは少ないはずだ。そしてもう一つは、わたしの記憶の中でパッと出てくる人間は圧倒的多数で男性だからだ。もちろん、女性でも名前を聞いて意図的に思い出すことは出来るのだけど、無意識的にパッと顔が出てくるほどではない。これは、日ごろそんなに女性モデルや芸能人の話をしないためにそこまで記憶に定着していないのだと思う。

 たまに、女性を見て「だれだれ(女性モデルなど)に似てるね」と褒める人がいるが、その「だれだれ」が出てくるのは大したものだと思う。社交のためにそういう情報収集を日ごろからしているということなのだろう。わたしは自分の好きな情報しか集めていない。「目がイチローに似てるね」と言われて喜ぶ女性は皆無だろう。それはわたしも分かるから黙っている。

 「やられる身にもなってみろ。お前(わたし)がそれをやられたらどうなのだ」と言われると、悪質なことにわたしは「面白いからぜひやってくれ」としか思わない。わたしと同じ目を持つ女性のモデルが居るだろうか? あるいは芸人? 政治家? 嬉しくはならないが面白くはある。

 もっとも、相手を喜ばせるという点からすれば、異性に例えることは大失格の行為であることには間違いがない。

F. Chopin - Grand Polonaise Brillante in E-flat major, Op. 22.

 ショパンの華麗なる大ポロネーズを打ち込みました。本来は「アンダンテ・スピアナート」という穏やかな序奏と合わせて「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」というひとつの作品なのですが、ここではポロネーズ部分だけをお届けします。アンダンテ・スピアナートはこちらスタインウェイ用も作り直したいと思っていますが、いつ実現することやら。

(音の間違いなどお気づきになったら、教えて頂けると嬉しいです)

曲について

 おそらくコンサート向けに書かれた作品で、ショパンの作品のなかでもひときわ華やかな作品です。管弦楽による助奏が付いているものの、ピアノで代替可能なので独奏されることも多い作品です。正直に言ってしまえばオーケストラの出番がこれだけ少ないというのは、ショパンがオケを気にせず自由に演奏したかったからなのではないかな、と勝手に思います。

 そしてポロネーズはなんといっても舞曲。とくにこの作品は、右手が軽やかに踊りつつカンタービレで存分に歌うなど、ショパンらしい魅力の詰まった作品だと思います。表現的には、長大な装飾音をはじめルバートが不可欠なことは明らかなのですが、ルバートを使いすぎると踊りがてんてこ舞いになってしまうという点で、バランスが難しい作品でもあると思います。

 以下、大ざっぱですが個人的に好きなポイントをいくつか取り上げて書いてみます。いわば手前味噌のネタバラシ的な話なので読まない方が曲を楽しんで頂けるかと思います。

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エレベーターの気まずさについて

 エレベーターの気まずさのほとんどは、ボタンを押す人間と、ボタンを押さない人間がいることに由来する。どちらが正しいかと言う話ではないし、押さないからケシカランと言う話でもない。価値観の問題だろう。

 わたしが気になるのは、「自分が操作パネルの前に居る場合、他人のために操作を行なうか否か」と言う点に尽きる。ついでではあっても他人のために操作を行うかどうか。それはなにも他人のために操作しないからケシカランとかそういう話ではなくて(答えを出したいとも思わない)、実際にどう行動するのかを知りたい。

 実態はどうなのか、アンケートなどがないか探してみた。(1)@niftyの「エレベーターについてのアンケート・ランキング(2015年11月6日)」と(2)日本エレベーター協会の「エレベーターの日『安全利用キャンペーン』アンケート(2016年度版)(pdf)」が見つかった。結論だけ書くと、いずれも「閉まるボタンを押す人が多い(1の調査でだいたい3000人の6割近く、2でだいたい13000人の96%にのぼる)」ことは分かるのだけど、「他人のために」という点と「操作全般を行なうか」という点が確認できない。閉まるボタンを押すのはただ単に自分が早く降りたいだけかもしれないし、閉まるボタンを押すからと言って他人から階数を聞いてボタンを押すとは限らない。

 わたし自身は場合によってなんとなく使い分けている。例えば、マンションで誰かが乗ってきたら、たいていは「何階ですか?」と聞いて押す。仕事場でもそうする。けれど、それ以外だと人を見て判断する。自分で押したいという人は人がパネルの前に居ても勝手に手を伸ばして押すし、会話もしたくないという人は目も合わせないし、合っても反らすからすぐに分かる。それは決して多くないように思うけれど、そういうことがあると少し残念な気持ちになる。

価格と客質(小考)

 カフェやラウンジにおいて、価格と顧客の雰囲気は比例するのだろうか。つまり、高い店ほどいい客が多くて、安い店ほどいい客が少ないのだろうか。(ここでは「高い店とは何か」などといった細かな定義はしない。これはただの雑談なのだ)

 わたしは、それは7割くらいは正しくて3割くらいは違うという気がする。正しいと思う要因を挙げると、まずは価格による選別がある。「ゲラゲラ騒ぎたい人間の大半はコーヒーに1000円を出さないであろう」と考えられる。それに1000円というのは、1000円を出せる人間であっても、普段のコーヒーよりは特別感があるものだと思う。だとすれば、カッコつけてやろうとか、上品にしなきゃというような気分が働くと想像できる。

 ただ間違いだと思うのは、価格が高くても「お金を持ったゲラゲラ騒ぐ人間(騒ぐ以外にも、迷惑な行為をとるいわゆる”悪質な客”)」は入ってくるということと、価格が安くても良質な客を選別する、価格以外の仕組みはありうるというところだ。例えば近所の雰囲気の良いカフェなどをよく観察してみれば、その方法はいくらか分かってくるかもしれない。

 とはいえ、価格が安ければさまざまな利用者が来るだろうから、雰囲気はそのときの偶然にかなり左右されやすくなる。そしてその偶然も、何の介入もしなければ良質な客が良質な客を呼ぶか、その逆の連鎖が起きるだろう。

 こんなことを、タリーズコーヒーのソファにぐでーんとふんぞり返ってすこし考えた。もう少し具体的に考えてみたい気もする。タリーズに入ったくせにコーヒーは飲めないので激甘ロイヤルミルクティーを飲んだ。

(めったにないホテルでのご馳走だったのに隣の席で悲鳴のような笑い声を何度もあげてわたしの優雅な気分を台無しにしたご婦人方と、何の注文もせず勝手にマックの店内へ入ってきて携帯ゲーム機をいじくりまわして店長らしき人物に怒られていた少年に捧ぐ)